魔王外伝: あの男が帰ってきた   作:nocomimi

1 / 17
第一話: 復活した男は城下町でラーメン屋を始めた

男は暗闇の中で目を覚ました。

 

目の前は真っ暗闇だった。耳が塞がれているのか、何の物音も聞こえない。いや、まるで顔中じゅうに何かが押し付けられているかのようだ。呼吸ができず、頭を動かすこともできない。

 

手を動かそうとしたが、それも押さえつけられているのか動かない。力を入れて腕を曲げようとするとそれは僅かに動いた。しかし手を自分の顔のほうに持っていこうとしたが、何かの抵抗で思うようには動かない。

 

自分はどこかに横たわっているということだけは感覚でわかった。だが息もできず、身じろぎもできないとはどうしたことだろう?

 

自分は死んで黄泉にいるのだろうか?だとしたらこの状態で永遠を過ごせというのか。口を利くことも動き回ることもできない状態で?

 

かつて悪逆非道を繰り返した自分に対する神罰がそれだとしたら、理解できなくはない。そんな思いが胸の底に僅かに湧いてきて、男はやや唇の端を歪めた。

 

確かにそうだ。人を殺め、宝を奪い、国さえ乗っ取ろうとした自分が、もし死後の審判を受けたとしたら、火の池の中に百万年の間沈められたとしてもまだ足りないだろう。

 

だがそんな諦念とは関係なく、息苦しさが襲ってきた。どうやら自分は一度死んでから蘇ったらしい。生きているということは呼吸することが必要だ。だがこの状態では息ができない。口から自然に苦しみの呻きが漏れた。ここから抜け出さなければ、と本能が告げ、身体が勝手に暴れ始めた。苦しい。クソッ。俺をここから出せ。

 

その途端、男の腹の奥底から何かが燃え上がった。もしもそれを観察できる者がいたとしたら、紫色の炎のように見えたであろう。

 

男は野獣のような呻き声とも吠え声ともつかぬような声を上げると、両手を一気に前に突き出した。

 

その途端に彼を押さえつけていた何ものかが吹き飛んだ。両腕がその何かを突き抜け、空中に飛び出したのが分かった。男は再び野獣のように吠え声を上げ、腹に力を入れて思い切り上体を跳ね起こした。

 

頭と上半身を覆っていた何かが完全に吹き飛んだ。顔が新鮮な空気に触れる。やっと息ができる。男は大きく息を吸い込んだ。だが鼻も口も土まみれで、土くれを吸い込みそうになった男はこれまた獣のような声を上げそれを鼻から吹き飛ばした。

 

両手で自分の顔を拭い、ようやく一息つく。

 

そこは平原だった。時刻は夜のようだ。見上げると空に高く月が上り、数え切れない星々がまたたいている。

 

男は上半身を起こした状態で、腹から下は地面に埋まっている自分に気づいた。

 

自分は土中に埋められていたのだ。涼しいそよ風が吹き、周囲の草たちが触れ合う音に包まれながら、男はしばし呆然としていた。

 

しばらくすると、徐々に記憶が蘇ってきた。

 

自分は、あの小僧に剣で胸を刺し貫かれたのだ。

 

自分は剣技では完全に相手を圧倒していた。自分も多少の刀傷は負ったが、奴は文字通り満身創痍だった。それなのに、聖剣から出た光が奴に力を与えたのだ。最後、自分は地面に打ち倒され、そして奴の止めの一撃で文字通り刺し通されたのだ。

 

敗北の記憶が鮮明に戻ってきた。次の瞬間、条件反射のように凄まじい憤怒と憎悪と復讐心が湧き上がることを、男は当然のように予期した。

 

そうだ。いつだってそれが俺の人生の原動力だったのだ。怒りよ、来い。憎悪よ、来い。それこそが俺に力を与え、今まで駆り立ててきたのだ。復讐こそが自分の生きるよすがだったのだ。そして、俺があの王国の永遠の支配者となるまであと一歩のところまで来たのだ。

 

ところがその感情は来なかった。

 

どれほど待っても、怒りも憎悪も復讐心も湧いてこなかった。そよ風が吹き、草がなびく。どこからか、虫の鳴く声が聞こえてきた。

 

男は驚き怪しみながら、それでも待った。

 

数時間が経っただろうか。それでも何も変わらなかった。

 

一体自分はどうなってしまったのだろう。男は改めて周囲を見回した。

 

草原の向こうに、ハイラル城のシルエットが見える。城下町の歓楽街に点された灯火に照らされ、その南側の壁面がほのかに光っている。

 

かつて、男どもが美女に対して抱くような劣情にも似た激しい渇望をもって求めたあの城を見ても、今の男の心には何の感慨も湧いてこなかった。

 

男は地面に手をついて、自分の下半身を土の中から引っ張り出した。草原の上に立つと、体中についた土くれを払った。

 

ふと自分が埋められていた穴を見やると、鞘に納められた長剣が土くれの中から覗いていた。それを引っ張り出すと、柄を掴んで剣を抜いてみた。

 

剣の刀身が月の明りを反射して妖しく光った。

 

以前の自分だったら、この刃が血を吸うところを見たい、と心が躍っただろうに、やはり今は何の感情も湧かない。

 

男は剣を納めると軽く溜め息をつき、自分の胸のあたりに手をやってみた。あの小僧の剣で刺し貫かれた自分は、肉体的な命こそ辛うじて助かったが、この魂を抜き取られでもしたのだろうか?

 

胸当ての辺り、かつて賢者どもに刺し貫かれたときの跡(それはその後補修したのだが、その時の恨みを忘れないために跡は残しておいたのだった)の上に、新たな傷がついている。

 

ともかく、俺は一度死んだらしい。自分の渇望の的であったハイラル城を見ても、かつて自分の心を躍らせた暴虐の道具である剣を見ても、ただ虚しさを感じるだけだ。死んだのでなければこれは説明がつかない。

 

では自分は魂が死んで、その肉体だけが動いているのだろうか?

 

男は首を振った。自分にはもはや理解不能のことだ。自分は生きている。だがかつての自分ではない。では自分は一体誰なのだ?

 

その実存哲学的な問いについてはおいおい取り組むことに決め、男はこれからどうするかを考えた。

 

自分はどうやらハイラル西平原にいるらしい。星々の位置と城のシルエットの方角からそれは把握できた。

 

ともかく城下町に向かおう。自分がかつて傀儡であるザントを使って攻め落とした城と城下町は今どのような状態なのだろう?それを確かめたいという気持ちに突き動かされ、男は歩を踏み出した。

 

だが、ふと男は視線を落として自分の恰好を改めて見てみた。堅固な鎧に長剣では、目立ち過ぎて到底人の前には出られまい。

 

男は鎧を脱ぐと、全ての装備をマントにくるんで肩から担いだ。

 

そして月明りの中、城下町に向かって歩き始めた。歩いているうちに、東の空が白み始める。

 

やがて二時間もすると、城の西側にかかった橋に辿り着いた。時刻は夜明けだ。かつて手下の魔物どもに命じて焼き払わせた橋だったが、今はすっかり修復されている。そこを渡り、城下町の堀の上に掛かった跳ね橋をも渡って、西の門から町に入る。

 

通りに人通りは少ない。考えてみれば、いっときハイラル城の主にはなったにせよ、この時代の城下町を散策したことなどはなかった。西通りには、左手に診療所があり、右手に入る通りにはみすぼらしい長屋が立ち並んでいる。

 

しばらく真っすぐ進んでいくと、やがて大きな広場に出た。差し渡し数百メートルもある大きなもので、中央には噴水がしつらえられており、勢いよく水を宙に向かって噴き出している。

 

太陽が上り始め、朝日が広場に差し込んでいた。男は噴水に近づくと、足元に荷物を下ろし、噴水の池の縁石に腰を掛けた。

 

北を見ると、早朝当番を命じられた歩哨がハイラル城に通じる回廊の入り口を二人一組で守っている。朝の早い住民たちが時折広場を行きかう。南側に目をやると、商店の立ち並んだ目抜き通りが見えた。幾人かの露天商たちが商品を並べ始めている。

 

男は周囲を見回した。これが今の城下町なのか。俺は一度、奸計をもって城とこの町を奪い取ったのだ。だがこの俺がここに座っていても誰も気づかない。当然と言えば当然だ。ハイラル城を実質上支配している間も、自分はゼルダ姫を名目上の支配者として据え置き、人前には一度も出なかったからだ。

 

そのことを思うと、男はなんだか愉快な気持ちになってしまい、思わずクックックと声を立てて笑ってしまった。

 

「そこのきみ、住居がないのかね?」

 

気が付くと、城への回廊の入り口を警護していた兵士のうちの一人が近づいてきて声をかけてきた。

 

男は振り向いて相手を見た。だが兵士はリラックスした様子で槍を肩にかけており、こちらに敵意を抱いている様子はない。

 

「なんだ、まるで全財産かついで田舎から出てきたみたいな風体だな。きみ、出身地は?」

 

兵士は存外親切そうな口調で尋ねてきた。

 

「..........ゲルド砂漠だ」

 

男は簡潔に答えた。

 

「ゲルド砂漠?珍しいなあ、そんなところにまだ人が住んでいたなんてな」

 

いつの間にか、もう一人の兵士もこちらに近寄ってきて言った。

 

「おっと失礼、バカにするつもりはなかったんだ。私は一度だけだが砂漠に行ったことがあってね。何しろ暑くて参ったっていう記憶しか無くって」

 

その兵士は言葉を継ぐと、同僚と顔を見合わせた。

 

「どうやら怪しい奴ではなさそうですね」

 

「田舎から出てきて商売でも始めようってんだろう。最近は景気が上向いてるからな。だが宿泊場所も決めずにうろつかれるのもちょっとなあ.....」

 

最初の兵士が答える。

 

「兵士殿。この町の様子はいかな具合だ?人々は良い暮らしをしておるのか?」

 

男は逆に尋ねた。

 

「良い暮らし?」

 

兵士は素っ頓狂な声を上げた。ホームレス同然に見えた男が随分格式のある言葉遣いをしたので驚いたのだ。

 

「...まあ、ひところに比べたら本当に良くなったよ。一時は水は枯れるし物価は跳ねあがるしで最悪だったからね」

 

兵士は答えた。

 

「だがね、申し訳ないが広場で野宿は遠慮してもらいたいんだ。町の風紀が乱れるからね。きみ、泊まる場所は決まってないのかい?」

 

問われて男は答えた。

 

「面目ない。見ての通り、今しがたここに着いたばかりでな」

 

「それなら東通りにある低所得者住宅はどうだろう?」

 

もう一人の兵士が提案した。

 

「ゼルダ女王(注*)の肝いりで先月完成したんだ。簡単な書類手続きだけで格安で入居できる。ただし就職斡旋所に登録するのが条件だがね」

 

「かたじけない。詳しく教えてはもらえぬか?」

 

兵士たちは詰所に戻ると、低所得者住宅と就職斡旋所の案内チラシを持って戻ってきた。男は礼を言って受け取ると、案内に書かれたとおり西町の貧民街にある受付事務所に向かった。

 

事務所の前には既に幾人かが列をなしていた。皆、自分と同じように簡素な服装をして荷物を抱えている。朝九時になると事務所の扉が開き、入居希望者がぞろそろと入っていった。

 

男も中に入り、言われるままに番号札を取って待合室の椅子に座った。同じように申し込みの順番を待つ者たちは、若者や親子連れから年寄りまで様々だった。渡された申し込み書を書いているうちにやがて自分の番号が呼ばれ、男は係官が机を並べる受付カウンターに座った。

 

「ええっと......ガノ.....ガノンドロフ..さん?ですね。珍しいお名前ですね...」

 

応対した若い女性係官は、男が差し出す申込書を見ながら眼鏡の奥の目をパチクリさせた。

 

「いちおうお尋ねしますが、今現在お仕事は何かされてます?」

 

「いや、実はつい最近仕事を辞めたばかりでしてな。恥ずかしながら無職で」

 

男は答えた。

 

「恥ずかしがることなんて何もありませんよ」女性係官はにっこりと微笑むと続けた。

 

「人のキャリアにはいろんな転機がありますから。これを機にじっくりお考えになってはいかがですか?ここは職業斡旋所も兼ねてますから、ぜひご相談なさってくださいね」

 

「かたじけない」

 

「入居敷金礼金は無料ですが、初月の家賃は前払いしていただきます。30ルピーですが、大丈夫ですか?」

 

女性係官は続けた。

 

問われると、男ははたと気づいた。ルピーなど一つも持っていない。ハイラル城を攻めとったあと、集めた財宝は城の一室に鍵をかけて仕舞ったのだ。だが、今頃全て王家が回収しているだろう。

 

自分は文字通り無一文なのだ。しばらく気まずい沈黙が流れた。だが男は咳払いすると口を開いた。

 

「お恥ずかしい限りだが、持ち合わせがない。文字どおり着の身着のまま旅をしてきたのでな」

 

「それは大変でしたね。それでしたら...」

 

女性係官が続けようとしたとき、男は立ち上がった。

 

「やはり儂はこの町にいないほうが良いらしい。失礼する」

 

男が足元の荷物に手をかけると、女性係官があわてて声をあげた。

 

「待ってください!もし就職が決まれば雇い主から前借りもできますから....」

 

男は荷物から手を離し相手を見た。女性係官の眼鏡の奥の目には真剣な表情が浮かんでいる。

 

「解せぬ。貴女はなぜそのように儂のような一文無しの人間を心にかけられるのだ?」

 

男は尋ねた。

 

「なぜって.....」女性係官は言葉に詰まったが、すぐに続けた。

 

「なぜって、それがゼルダ女王の願いだからです」

 

「ゼルダ女王の?」

 

男は再び問うた。

 

「はい。女王陛下は全ての人が誇りを持って暮らせるよう願っておられます」

 

「誇り?」

 

「はい。女王のお考えでは、自分は他者のために役に立っているという誇りがあるとき人は苦境にも耐えられると」

 

「人の役に立っている...か」

 

男は呟いた。そんなことは今まで考えたこともなかった。

 

「どうかおかけください。申し上げたとおり前借りっていう手段もありますし、ガノンドロフさんが城下町で暮らす夢をすぐにあきらめることはないと思うんです」

 

女性係官は言った。

 

「ガノンドロフさん、お見受けしたところ体力もおありのようですし、建築業をなさるのはいかがですか?」

 

男が再び椅子に座ると、彼女は机の引き出しから何枚かの紙を取り出して並べた。

 

「今建築業は人手が不足してますから、明日から働けるような人は大歓迎だと思うんです。例えば...」

 

だが男は話を聞いていなかった。他者の役に立つ、それが誇りを生み、人を支える。そんな考えは想像もしたことなかった。だがそれに思いを馳せたとき、彼の頭の中に電撃のようなアイデアが浮かんだのだ。

 

男には得意なことが二つあった。一つは戦うこと。それは実際の戦闘も、戦略を立てることも含まれる。

 

そしてもう一つは料理だ。大の美食家であった彼は、余暇があれば自分で厨房に立って料理した。また財宝の力にあかせて世界中の珍味美味を集めて賞味してきたから、舌には自信があった。(そのせいで、鍛えに鍛え抜いた身体の腹だけは若干ダブついてしまったのだが。)

 

「係官どの。この町に質屋があるかはご存じか?」

 

男は唐突に問うた。

 

「は........はい?質屋....ですか?」

 

話を遮られた女性係官が当惑した顔を上げる。

 

「そうだ。質屋だ。なければ古道具屋でもよいが」

 

女性係官は席を立つと、上司らしき係官と相談し始めた。戻ってきた女性係官は、町内東町通り、歓楽街の入り口にある質屋の場所を教えてくれた。

 

「でも....あのぉ....入居手続きはよろしいんですか?一応斡旋所の登録だけでもしておいたほうが...」

 

「ご心配は無用だ。今日中にまたここに来るでな」

 

男は荷物を抱えると席を立った。

 

「いろいろと世話になった。礼を申すぞ」

 

軽く頭を下げると、ポカンとした顔の女性係官を背にして男は事務所を出た。

 

足早に貧民街を通り抜け、目抜き通りから歓楽街に向かう。教えられた住所に質屋はあった。

 

「へえ~.....こりゃまた年代物ですなぁ」

 

初老の質屋の主人は感嘆の声をあげると、男がカウンターに置いた剣と鎧を虫メガネで仔細に眺め始めた。

 

「胸に傷がついてるのが難ありだが、他は問題ないはずだ。剣も手入れしてある」

 

男は説明した。

 

「しかしこいつは相当いわくつきの代物なんじゃないですかい?なんせ、この鎧の持ち主は寝床の上では死ねなかったってことですからねぇ」

 

主人はニヤリと笑う。

 

「まあ詳しくは知らんが、実際に持ち主が戦さに着ていったのは間違いないらしいな」

 

男も調子を合わせる。結局、鎧と剣で三千五百ルピーの値がついた。今はこれで十分だ。男は資金を手に先ほどの住宅申込事務所に舞い戻り、入居手続きを済ませると、今度は目抜き通りに向かった。

 

通りを調べると、閉店した飲食店の店舗がポツポツある。立っていた兵士に聞くと、不景気時代には軒並みシャッターだらけになってしまっていたのがだいぶ戻ってきたらしい。

 

そのうちの空き店舗一軒に目をつけ、シャッターに貼ってあった連絡先を頼りに管理不動産会社を訪ねた。敷金礼金を払って手続きを済ませると、今度は職業斡旋所で建築関係の仕事を見つけた。そして昼は資材搬入の日雇い労働をし、夜は店舗開店準備作業に明け暮れた。

 

男は大鍋を買い、肉屋から豚の骨を廉価で大量に仕入れてスープを仕込みながら、製麺所にかけあって縮れ麺を試作させた。さらに、味付けした卵や豚肉、辛子にあえた菜っ葉なども作っては試食した。一か月ののち、自分の納得のいく一杯が完成した。

 

「魔王ラーメン」だ。

 

かつて男は、遥か東方の国々で食されているという汁麺料理を味わったことがあった。手軽に食べられるし、高価な食材を使うわけでもない。それでいて、食べる者に強烈な印象を残し、人によっては虜になる。

 

これが俺のやるべきことだ。男には確信があった。

 

男は印刷所に注文してポスターとチラシを刷らせた。徹夜して何度も書き直したイラストが印刷されている。さらに店名を染め抜いた幟も用意し、店の前に立てると、いよいよ店を開いた。

 

その日、男は朝から往来の多い目抜き通りの真ん中に立ってチラシを配った。

 

だが、自分からそのチラシを受け取ろうとする通行人は誰一人としていなかった。

 

それも当然である。身長二メートルの筋骨隆々とした巨漢がいかつい顔をして差し出すのだから、その風体に威圧されてしまって、そもそも半径十メートル以内に近寄る者などいない。最も人通りの多い時間帯でさえ、男の周囲の路上にはぽっかりと空白ができていた。

 

男が自分から近寄ってチラシを差し出そうとすると、相手は怖がって逃げるか、運よくチラシを受け取ってくれても怯えて足早に立ち去るばかりだった。

 

結局、開店初日には一人も客が来なかった。

 

男は肩を落とした。自分の考えが甘かったのだ。自分がどれほど美味だと思っていても、その味を言葉で伝えるのは難しい。かといって実際に食べてもらうのも簡単にはいかない。得体の知れない自分のような人間が振舞う得体の知れない料理を好んで食べたいと思う物好きなど、そうたくさんはいないだろう。

 

日も沈むころ、男は店に入って閉店作業にかかった。明日もう一度作戦を練り直して出直そう。日当を払ってチラシ配りをする人間を雇ったらどうだろう?あるいは、値が張るが雑誌に広告を出すのも手かも知れない。

 

思案に明け暮れながら鍋の火を落とし、厨房の掃除を始めようとデッキブラシを手にとったとき、店の扉が開いた。

 

そこに立っていたのは、剣士の服装をした若者だった。

 

男には一瞬でわかった。

 

若者は緑の帽子を被りチュニックを着て、盾と剣を背負っている。

 

あいつだ。あの小僧だ。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。