あの男だ。間違いない。
リンクは立ち尽くしながら、生唾を飲み込んだ。店主の正体に気づいた瞬間背筋を走った猛烈な悪寒。それが転じて、今度はみるみるうちに全身がカッと熱くなった。
「ガノンドロフ.....だな....?」
押し殺した声でリンクは尋ねた。調理台をダスターで拭っていた店主はその途端動きを止めた。こちらに背を向けたまましばらく佇立していた大男は、やがて呟いた。
「魔王と勇者との消せぬ因縁.....か」
大男は、首を軽く振るとクックッと軽く声を立てて笑った。
「だがその因縁の深さもここまで来ると滑稽だな」
それを聞いた瞬間、リンクの腹の底から強烈な憤怒が湧いた。彼は背中に手を伸ばし剣を抜き放った。
「よくもヌケヌケと!まだ僕の剣を喰らい足りないのか」
リンクは切っ先を男に向けると叫んだ。
「今度こそ本当に止めを刺してやる!貴様も剣を抜け!」
「持っておらぬ」
ガノンドロフはダスターを調理台の上に放ると答えた。
「....持ってない......だと.....?」
相手の言葉が一瞬理解できず、リンクは聞き返した。
「質に入れた。金が必要だったからな」
「...なっ......」
リンクは切っ先を相手に向けながらも今度は自分が返答に困った。かつて命を掛けて殺し合った宿敵同士が今ここで再び相対しているのに、この男は一体何を言っているのだろう?
「小僧、その扉の内鍵を締めてくれぬか」
ガノンドロフは前掛けで手を拭ったあと、入り口の扉を指さした。
「か.....鍵...だと?」
「貴様が剣を振り回しているときに客が入ってきたら困る。それから営業中の札も裏返しておいてくれ」
右手で剣を相手に向け続けながら、リンクは肩越しに振り返った。入り口の扉の把手の下に施錠用の小さなラッチがある。手を伸ばしてそれを捻ると、カチャッと音がして錠がかかった。
目を上げると、扉の窓ガラスには差し渡し30センチほどの札が吊り下げられており「準備中」と書かれた面がこちら側になっている。リンクはそれを裏返し、「営業中」の面をこちら側にした。
「それでいい」
ガノンドロフは言うと、エプロンを脱いで壁の鈎に引っ掛けた。
「貴様ここでいったい何を企んでいる?」
リンクはやっとのことで気を取り直すと尋ねた。
「企むだと?」
魔王はさも心外そうな顔をして若者を見た。
「とぼけるんじゃない。お前の本心はわかってるんだぞ」
そこまで言ってからリンクは気づいた。
「そうか、町のみんなに毒を盛ってもう一度支配するつもりなんだな。そうはさせないぞ」
ガノンドロフは何も答えず、壁に作りつけられたキャビネットからグラスを2つ取り出した。それを両方、巨大な片手に乗せると、もう片方の手で生鮮食品保存用の箱型氷室の扉を開け、中から綺麗な氷塊をいくつか取り出してグラスに放り込む。
魔王はリンクの前のカウンターに歩み寄って2つのグラスを置くと、今度は別の棚から透明な液体の入った細長い酒瓶を持ってきた。栓を捻って開け、片方のグラスに並々と注ぐ。
「小僧、貴様も飲るか?」
魔王は瓶の口を軽く持ち上げながらリンクのほうを一瞥し尋ねた。
またしてもの意外な言葉にリンクはしばし唖然としたが、やがて絞り出すようにして答えた。
「ふざけるな。僕は未成年だぞ。そうでなくてもお前の出した酒なんて飲めるものか」
「そうか」魔王は酒瓶をカウンターに置くと、再び箱型氷室に歩み寄って扉を開け、今度は薄黄色の液体の入った瓶を取り出して戻ってきた。
「果物の絞り汁だ。まだ試作品だがな」
彼はそう言うと瓶の栓を抜いて、空いたほうのグラスにその液体を注いだ。リンクは呆気にとられたまま、グラスが満たされていく様子を眺めていた。
「気が向いたら飲め」
瓶を置くと、ガノンドロフは軽くうめき声を上げながら伸びをして首を回し、片手で自分の肩を揉んだ。魔王はそうしながらカウンターの端の出入り口扉を押し開けて客席に出てきた。リンクは思わず身構えた。だが相手はリンクに目もくれず、カウンター席の一つにその巨体を無理やり捻り込むようにして座った。
「宿敵同士の再会を祝して....か。勝手に始めさせてもらうぞ」
魔王は呟くと、酒を注いだほうのグラスを片手で持ち上げ、その中身を一気に飲み干した。酒瓶を手にとるとまた並々と注ぐ。
「そっちが忘れたつもりでも僕は忘れないぞ。貴様の悪行を」
ほとんど毒気を抜かれかかっていたリンクだったが、それでも精一杯気迫を込めて言った。
「酒が一段落したらハイラル平原に行くぞ。貴様の言うとおりここでは戦えないからな」
「儂を斬りたいなら好きにしろ」
二杯目を飲み干すと、ガノンドロフはカウンターを向いたまま答えた。リンクはそれを聞いて絶句した。
「........何?....今いったいなんて...」
「斬りたければ好きにせい、と言ったのだ」
空のグラスを再び酒で満たし、それを持ち上げて口につけながら魔王は言う。
「なっ.....貴様...」リンクはあまりのことに目を見張り、言葉をつまらせた。
剣を構えて立ったリンクの横で、魔王は背中を丸めてカウンター席に座りグラスを傾けている。
「斬りたいなら斬れ」だと?
頭を整理するために、リンクはしばらく沈黙していた。
今ここでその背中から聖剣を深く突き立てれば全ては一瞬で終わる。復活しかかったあの悪夢もまた葬られるのだ。
だが...........
だができない。
自分にはできない。
リンクは分かっていた。戦意のない無抵抗の人間を斬ることなど自分にはできない。
ガノンドロフは、彼のその性質をよく知った上で、この場をやり過ごすためにわざわざこのような演技をしているのだろうか?そんな考えがリンクの頭に浮かんだ。
「どうした小僧。斬らんのか」
魔王は三杯目のグラスを飲み干すと呟いた。
そう言われてリンクはしばらく逡巡したが、結局剣を鞘に納めた。カウンターの上に置かれた酒瓶を見ると「魔王」と墨で書かれたラベルが貼ってある。
全ては悪い冗談と思えた。いや、奇妙な夢を見ているのだろうか?夢なら醒めてくれ。リンクは自分の頬を両手で軽く叩き、首を振った。だが、目の前の光景はやはり変わらない。
ようよう時間が経ったところでリンクは口を開いた。
「今日のところは見逃してやる。だが貴様を許したわけじゃ.....」
「お前の剣で刺されたとき儂は魂を抜き取られたらしい」
魔王がぼそっと呟いた。戸惑ったリンクが黙ると、彼はまた続けた。
「魂...?いや、心の一部が死んだのかも知れぬ」
ガノンドロフは手を伸ばして酒瓶を取ると、またグラスに注いだ。今度は半分ほどだ。
「目が覚めた儂が最初に見たのはハイラル城だった。だがその時儂が感じたのは虚しさだけだった」
グラスを持ち上げた魔王は今度は少しだけ中身を呑み、またグラスをカウンターに戻し、その太い両腕を組んだ。
「儂はあの城を生涯をかけて求めた。その主となることをな」
そう言うと、魔王は左腕をカウンターに置いてその巨体を少し捻り、初めてリンクのほうを向いた。彼は右手で拳を作り、それを宙に差し上げた。
「欲するもの追い求め、奪い、君臨し、他者から恐れられる。そうして儂は自分を満たしてきた。だが、今はその全てが...............」
ガノンドロフは拳に視線を落とした。ゆっくりと手を開き、自分の手のひらを見つめる。
「全てが虚しい。全ては空虚だ。金も、財宝も、権力も、女も。何もかもな」
「改心した演技をしてるつもりか?」
リンクは腕を組むと言った。
「僕は騙されないぞ。僕は知っている。貴様が何度も転生してその度に悪事を重ねてきたことをな」
魔王は右手をカウンターに乗せて前を向いた。しばらくの沈黙が続いたのち、ガノンドロフは口を開いた。
「死にながら蘇った儂は、本当の儂なのか?」
魔王は誰にともなく呟いた。
「儂は一体誰なのだ?恨みも、憤怒も、復讐心も持たぬ儂は何者なのだ?」
リンクは再び戸惑った。口をつぐんでいると、魔王はグラスを手にとり口に持っていきかけたが、途中でやめてカウンターに戻した。そうして彼は、自分の左胸の上に手を置きながら言った。
「これが貴様の剣の力なのか?儂は確かに死んだ。そして今も死んでいる」
「今も死んでいる?」
驚いてリンクは聞き返した。
「そうだ」
魔王は言うと顔を上げて天井を見上げた。
「そうとしか思えん。城を見ても支配欲を掻き立てられず、剣を見ても血を欲さず、女を見ても劣情に身を焦がさない...そんな儂はもはや死人としか思えぬ」
リンクは今しがた聞いたことに耳を疑った。絶対にあり得ないことを耳にしたような気がした。
「思えぬが...それでも儂はこうしてここにおる」
相手が演技しているという疑念は完全には消え去っていなかったが、あまりの驚きの連続にリンクの闘志はすっかり潰えてしまった。
「座らぬのか」
ガノンドロフは片手で自分の隣の椅子を少し引き、リンクを見た。リンクは覚えず、その席に座った。自分の隣にあの魔王の巨体がある。それなのに自分も相手も平穏に座っている。信じられない現実にリンクは宙を見つめるばかりだった。
目の前のカウンターに、魔王が「果物のしぼり汁」と言った液体が満たされたグラスがある。すると、リンクは自分がいま猛烈に喉が渇いていることに気づいた。さっき、大椀一杯の塩分の濃いスープを全て飲み干してしまったのだから当然だ。
少し迷った末、リンクはそのグラスを手に取った。口に近づけ、匂いを嗅いでみる。怪しい匂いはしない。むしろ甘酸っぱく爽やかな香りだ。林檎だろうか。リンクは異変があればすぐ吐き出すつもりで少しだけ口につけてみた。
実に甘い。そしてよく冷えている。
リンクは覚えずその最初の一口を飲み干すと、また一口、また一口と飲んだ。猛烈な喉の渇きがたちまち癒されていく。
「儂が生きている理由は一体何だ?」
魔王がまた口を開いた。だがそんなことには答えようがないリンクは黙ったまま、空になった自分のグラスを見つめた。
「ゼルダは儂のことを『生まれながらの敗者』と言った。覚えておるか?」(注*)
ガノンドロフは自分のグラスを取ると、少し首を曲げてリンクを見た。
「ああ。覚えてるよ」
自分もグラスを持ったままリンクは答える。ガノンドロフの最期にあたってゼルダ女王、いや当時のゼルダ姫が宣告した言葉だ。
「『抵抗することなく悪に自分を引き渡す』...か。確かにその通りだった。儂は、自分が他者の主人でありたいと願っていた。そして力をもってその願いを叶えたように思っていたが、どうやらそうではなかった」
「どういうことだ?」
魔王の奇妙な言葉に、リンクは聞き返した。
「そうではなく、儂自身が『悪』という主人に仕えていたのだ。自分の意思で生きているかのように見えて、儂はその『悪』の奴隷であったということだ。違うか?」
そう言われ、リンクは前を向いた。だが少し考えると口を開いた。
「それはそうかも知れない。だけど『悪』を行ったのはほかならぬお前自身だろう。そうやって責任転嫁しようたって、到底世間からは認められないぞ」
「その通りだ」
魔王はグラスを持ったまま答えた。
「ゼルダの言ったとおり、儂の中の『悪』に儂は儂自身を引き渡した。儂はそうして『悪』と一体化した。いや、儂の肉体自身が『悪』そのものとなったと言っていい」
「そうだ。そのことは町の皆が知っているぞ」
リンクは魔王のほうを向いた。
「今お前にできることは、自ら城に出向いてお縄につくことだ。打ち首は免れないだろう。だが、僕に斬られて構わないというなら、そうしたとしても同じことじゃあないのか?」
そう言い放った後、リンクは自分の言葉に違和感を持った。この、誰にも敵意を持っていない目の前の男に対して向けるには、辛辣に過ぎる不相応な言葉に聞こえた。
「そうだ。儂は死んだ。今も死んでいる。だからいつ死のうと同じだ」
魔王はグラスを持ちつつも酒に口をつけないまま呟いた。
「そんな禅問答ではぐらかそうとしても...........」
リンクは心の中に急激に広がった違和感を振り払いながら続けようとした。
「小僧、儂のラーメンの味はどうだった」
魔王からの突然の問いにリンクは不意を突かれたように凍りついた。
「正直なところを聞かせてくれ。手厳しい批判も構わん。何しろ貴様が客第一号だからな」
「どうって....」
リンクは困り果ててしまった。だが嘘をついたり誤魔化したりするのが生来苦手な彼は、やがてこう言った。
「どうって.....旨かったよ。最高に」
「また食べたいと思うか」
そう問われると、リンクは逡巡したのちにまた正直に答えた。
「....思うよ」
「そうか」
ガノンドロフはごく小さな溜め息をついた。横顔を見ると、少しだけ微笑んでいるようにも見える。彼はグラスを口に運び、残った酒を飲み干した。グラスをカウンターに置くと、魔王は立ち上がってリンクを顧みた。
「儂はそろそろ閉店作業をせねばならん」
「わかったよ」
リンクも素直に立ち上がった。そして自分の行動にもまた強烈な違和感を感じた。さっきまでは魔王を城に引き渡して裁きを受けさせようとしていたのに。
だが、市井の民として今こうして商売をしている彼を邪魔するわけにはいかない。そんな思いも心の中に湧き上がってきた。そして混乱した。この、今目の前にいる、復活したガノンドロフという男は、いったい何者なのだろうか?
「果物汁、御馳走さん」
どれほど考えても答えは出ない。リンクは礼を言うと、溜め息をついて踵を帰そうとした。だが、その瞬間魔王に呼び止められた。
「そうだ、小僧。貴様に頼みがある」
ガノンドロフは言うと、壁際の棚から紙の包みを取ってきてリンクに渡した。
「....頼みって....?」
リンクは手に取った紙包みを眺めた。「ラネール印刷所」というシールが張ってある。
「チラシ配りだ」
ガノンドロフは言った。
「時給15ルピーでどうだ?成績によってはもっと上げてもいい」
リンクはポカンと口を開けてしまった。
意味が分からない。
全く、意味が、一ミリも、分からない。
勇者の自分が魔王の店のアルバイトを?