テルマは魔王ラーメンの店舗の前で腕を組んで立っていた。
時刻は朝9時ごろだ。飲食店がほとんどを占めるこの目抜き通りにはまだ人通りは多くはない。
彼女には気になっていることがあった。魔王ラーメンはここ数日で客数を上げ、今や一時間待ちも珍しくないほどの人気店だという。職業斡旋所係官の知り合いが言うには、アルバイト募集の広告を一度に二人分も出したらしい。一人はすぐ埋まったが、もう一人はまだ募集しており、しかも「正社員登用あり」と銘打っているそうだ。
だが彼女は店主の名前も顔も知らなかった。先日居酒屋を訪れてくれたリンクから断片的に聞いた話では町外の出身者だという。ハイラル城下町商店街組合の会長の立場にある彼女としては、あまり良い兆候には思えなかった。(注*)
商売というものは多方面に様々な気遣いを伴うものだ。長年の飲食店経営の経験から彼女はそれが身にしみていた。
城から発令される細々とした規制の遵守や、客からのクレームの処理、仕入先との関係維持。それに、人を雇ったら雇ったで、これまた様々な気遣いが必要になる。もしも、給料の最低基準や、店員の安全確保などの点で非違を犯せば、その店は城から厳しい指導を受けるか、下手するとお縄ということになりかねない。
また、短期間で急激に人気を伸ばした店や商売というのは、時として世間の耳目を引くような重大な非違行為を犯して潰れていくことがある。彼女は長年の経験からそれを知っていた。自信過剰となった経営者の判断ミス、取らぬ狸の皮算用を元にした実効性に欠ける経営計画、創業者の過剰なこだわりと独善的体制による失政などだ。
彼女が仕切り役を務める商店街組合はまさにそのようなことを防ぐためにあった。商店主や経営者に情報提供し、助言を与え、ときにはその総意を取りまとめ城に対して意見具申する。それが役目だ。
入り口扉の窓から覗いてみると、カウンターの奥の厨房では熊のような体格といかつい顔をした大男が立ち働いている。その姿を見るにつけ、面倒事になりそうな予感が彼女の胸中でますます広がっていった。
「ええい、このテルマさんが何をビビッてんだい。行くよッ」
彼女は自分に言い聞かせるようにつぶやくと、扉の把手に手をかけて開き、店内に入った。
「開店は11時半からだ。悪いが後で来てくれ」
大男は寸胴鍋を棒で掻き混ぜながらこちらも見ずにそう言った。
「いや、客ってわけじゃないんだ。同じ商売人のよしみで自己紹介しとこうと思ってね」
テルマはこう答えると、咳払いして続けた。
「私はテルマ。商店街組合の会長をやってるんだ」
それを聞くと、大男は鍋を混ぜる手を止めて彼女を見た。
「商店街組合だと?」
「そうさ。言ってみりゃ商売人の寄り合いさね」
気圧されそうになるのを堪えてテルマは答えた。それを聞くと、大男は混ぜ棒を鍋から取り出して流しに置き、自分の手を洗ってからテルマのほうに向かってきた。その体格を見て彼女は思わず身を縮めた。長年接客業をやっていて、荒々しい男たちの扱いにも慣れていた彼女だが、それでもこんな大男は見たことがない。
「申し遅れた。儂はガノンドロフだ」
男はカウンター越しに彼女に手を差し出した。意外にも柔和な男の対応に、テルマは覚えず面食らって目をぱちくりさせた。だが、すぐに気を取り直して右手を差し出し、その手を握る。常人の二倍くらいありそうな大きさで、手の甲には剛毛が密生していた。
「とんだ失礼をばしてしまったようだ。まずは貴女のところに挨拶に行くべきであったな」
ガノンドロフと名乗った男は言った。テルマはますます驚いた。男の極めていかつい顔を見たときから、彼女はまったく相手にされないか、悪くすると怒鳴られるだろうと半ば予期していたのに。
「今日閉店したら改めてご挨拶に伺おう。貴女の店はどこにある?」
「いや、そんなたいそうな挨拶はいらないよ」
彼女は慌てて手を振り打ち消した。
「ただ、ちょっと心配になったんでね。あんた、営業許可はちゃんと取ったんだよね?」
まずテルマは確認した。すると大男は怪訝な顔で眉をひそめた。
「営業許可だと?」
「あっちゃぁ..........そこからなのかい」
テルマは目を閉じて顔をしかめると、片手で自分の目を覆った。言葉を交わしてみたら話の通じる相手だとわかり安心したテルマだが、一方で自分が懸念していたことがモロに的中してしまった。
気を取り直すと彼女は大男の顔を見上げ、言った。
「営業許可取らないとダメじゃないか。それにあんた調理師免許は持ってるのかい?食品衛生責任者の名札もどこにも貼ってないし......」
「免許だと?」
困惑したように大男は言った。
「免許などない。料理は独学だ」
テルマは大きな溜め息をついた。この状態で、万が一客から食中毒が出でもしたら、この男は二度と城下町で商売ができなくなる。下手をしたら牢屋行きだ。同じ商売人として看過するわけにはいかない。
「あんたねえ、店をやりたいって熱意がいくらあっても、そういうところはそういうところでちゃんとしとかないと」
言葉を選んだ末、テルマは続けた。
「せっかく人気が出てきたのにこんな事務的なことで躓いて、城からお叱りを喰らったらどうするのさ。それで万が一商売ができなくなるなんてことになったら勿体ないじゃないか。そうだろ?」
彼女がそこまで言ったところで、ガノンドロフは首を振りながら腕を組み、呟いた。
「儂としたことが、とんだ無知であった。まさか許可や免許が必要とはな」
「まあ気づいてくれたらいいのさ。悪いことは言わないから........」
テルマがそう言いかけたところで、大男は彼女に向き直った。
「テルマ嬢。儂は田舎から出てきたばかりで何も知らぬようだ」
そして、ガノンドロフは巨大な背中をやや折り曲げた。
「このとおりだ。詳しく教えてはくれぬか」
彼女はほとんど呆気にとられていた。この種の、いかにも自分に自信がありそうな男というのは、初対面の女の言うことなど滅多に耳を傾けない。それなのに、この男は自分の非を認め自ら頭を下げている。
こんなに柔和で謙虚な男性を見るのは久しぶりだった。一瞬だが、あのカカリコ村で出会った祭司、レナードの顔が思い浮かんだ。
その途端、彼女の胸の中で何かが動いた。その小さな「何か」は、数秒の間ためらいがちに蠢いたあと、やがて急激に鳴動し始めた。それにつれてテルマの身体の中を上から下まで雷のようなものが走った。
「テルマ嬢?どうなされた?」
ガノンドロフに問われて我に返った彼女は答えた。
「あ......も...もちろんだよ!それがあたしの仕事だからね」
カウンターに二人で並んで腰かけると、テルマは紙と鉛筆を使って衛生や防火の管理から開業届までの必要事項を全て箇条書きにした。彼女が口頭で説明を加えると、ガノンドロフは熊のような体格を折り曲げてメモを覗き込む。男の横顔が自分のほうに接近してくるたびに、テルマは心臓の鼓動が高鳴ってくるのを感じた。
風雪を経たガノンドロフの厳しい横顔を見て、彼女はその造形が意外なほどよく整っていることに気づき、思わず見入ってしまった。極太の眉も濃い顎髭も、彼女のそれまでのタイプとは違う。だが、彼の戦士然とした顔立ちとさきほどの極めて謙虚な振る舞いのギャップに、テルマは自分の心臓がもはや鷲掴みにされてしまっているのを感じてしまった。
「....ま....まぁ、ざっとこんなもんさね。試験そのものはそんなに難しくないんだけど、城に何回も通わなきゃならないのが面倒でねぇ」
彼女はつとめて平常心を保ちながら、鉛筆を置いて説明を締めくくった。
「ふうむ...止むを得ん。手続きが済むまでしばらく休業するしかないようだな」
ガノンドロフはその極太の両腕を組むと残念そうな顔をして呟いた。
「あ.........あのさ」
テルマは胸の高鳴りを抑えながら、躊躇いがちに切り出した。ガノンドロフは彼女を見た。
「なんだ、テルマ嬢?他に必要な事項があるならなんなりと言ってくれ」
「いや.......一つの提案なんだけどね」
彼女は少し頬を赤らめると、言葉をつなげた。
「あんた、あたしを雇ってみないかい?あたしなら全部資格持ってるしね」
意外な申し出にガノンドロフは目を見開いた。
「む....それはありがたい申し出だが、貴女はラーメン屋の経験がおありなのか?」
「ちょいと、このテルマさんを舐めてもらっちゃ困るよ」
問われて、彼女は少し眉を上げると両手を腰にあてた。
「ラーメンこそ未経験だけどね。あたしぁ二十年居酒屋やってんだよ?調理も接客も仕込みもどんとこいだよ」
「そうか..。だが貴女自身の店はどうするのだ?」
ガノンドロフは問うた。
「ああ、それなんだけどね」
テルマは肩をすくめた。
「実は昼夜逆転の生活が最近キツくてね。今は週一回、土曜日の夜しかやってないのさ。かといって商店街組合の仕事がそんなに忙しいわけでもないし。だから、あんたが資格取ってこの店が軌道に乗るまでって条件で.....」
「テルマ嬢」
改まった口調になると、ガノンドロフはテルマに向き直り、その両手を握った。
「よろしく頼む。ぜひ儂に指導してくれ」
話はとんとん拍子に進み、時給18ルピーで三か月は試用期間、その後正社員も視野に入れつつ面談するという条件で決まった。テルマ自身は、どうせ腰掛けだからそんなに改まった形式にしなくとも、と遠慮してみせたが、ガノンドロフとしてはどうしてもそうしたい、ということであった。
勤務開始は次週月曜からと決まったところで、テルマはガノンドロフに暇を告げ、扉を開けて店を出た。
「ふう.........」
彼女は溜め息をつきながら、上気した頬を手のひらで扇いだ。自然に顔がにんまりしてくるのを抑えられなかった。
「あたしの人生まだ捨てたもんじゃないわね。あ~んないい男に出会うなんて」
独り言が口を突いて出てくる。
「おう、テルマか。あんたもあのラーメンってやつを食べに来たのか?」
温泉水屋のゴロンが屋台ごしに声をかけてきた。
「それとも商売敵だから偵察に来たのか?どっちにしろ開店は昼ごろだぜ」
「バカいっちゃいけないよ」
テルマは笑いながら返した。
「来週から、あたしがこの店の看板娘になるのさ」
「........なに?何だって?」
聞いた言葉が一瞬理解できず、ゴロンは聞き返した。
「パパ、おいらも食べたいよぉ。毎日岩ばっかりで飽きたよぉ」
傍らでゴロンの息子が言う。
「テルマおばちゃん、ラーメン屋さんになるの?いいなぁ、ラーメンっておいしいんでしょ?」
「ッたく、んなもんがゴロンの栄養になるわけねぇだろ。子供はしっかり岩を食べるんだ。でねえと大きくなれねぇぞ」
父親に諭されて、息子がシュンと項垂れる。
「いつかゴロン用のメニューも考えてやるからさ。待ってな坊や」
テルマは上機嫌でそう言い置くと、目抜き通りを北へ歩き始めた。
「ふふ....女はいくつになっても恋しなきゃ」
テルマは片手で軽くガッツポーズを作ると、軽い足取りで自分の居酒屋に向かっていった。