繋がれし、愛しき蹄の記憶 ――この手で紡ぐ、君との軌跡 作:テクニクティクス
とある日のトレセン学園。
昼下がりのトレーナー室には、いつもよりも気の抜けた空気が漂っていた。
壁際のソファーには、一人のウマ娘がだらーっと仰向けになって寝転がっている。
片手にはスマホ、もう片手には小袋のおやつ。画面をスクロールしては、無意識のうちに口へと摘ままれるスナックが消えていく。
自称・平凡代表、ヒシミラクル――通称ミラ子である。
今日は担当トレーナーが外出中。
急な用事で戻りは夕方になるらしく、「今日はトレーニングはオフでいいぞ」と言われていた。
とはいえ、「トレーナー室に入るな」とは一言も言われていないし、そもそもドアに鍵も掛かっていない。
……なら、使ってもいいよね?
という、いつもの“ゆるい理屈”に従い、ミラ子はここを自分の休憩所として占拠していた。
ローファーはすでに脱ぎ捨てられ、靴下だけになった足は、行儀悪くソファーの背もたれに引っかけられている。
足先をぷらぷらさせながら、スマホの画面に夢中。
トレセン学園の一室とは思えないほど、完全にオフの姿だった。
「はぁ~……平日昼間にだらけるって、背徳感ありますよねぇ……」
誰に聞かせるでもない独り言を零し、また一つおやつを口へ。
静かな時間が、ゆっくりと溶けていく――はずだった。
ガチャッ!
突然、ドアが勢いよく開いた。
「ミラ子、いるか!?」
「ふえっ!?」
心臓が跳ね上がり、ミラ子は反射的に上半身を起こす。
口に入れかけていたおやつを慌てて飲み込み、スマホを胸に抱えたまま目を見開いた。
「な、なな、何ですかいきなり! びっくりするじゃないですか!」
そこに立っていたのは、息を少し切らした担当トレーナー。
いつもより明らかに慌ただしく、どこか切羽詰まった様子だ。
――や、やば。
この格好、怒られるやつでは?
ソファーに引っかけたままの靴下、床に転がるローファー、開封済みのおやつ袋。
一瞬で頭の中を「言い訳候補」が駆け巡る。
だが、トレーナーの口から出た言葉は、そんな予想とはまるで違うものだった。
「すまない、急遽欠員が出ちゃったんだ。グラビアモデル、やってもらえないか?」
「……え?」
一拍置いて、ミラ子の思考が完全に停止する。
「え……ええぇぇええ!!」
素っ頓狂な叫び声が、トレーナー室いっぱいに響き渡った。
ウマ娘として生まれた者の多くが、総じて整った容姿を備えている――それはもはや自明の理と言っていい。
人よりも優れた身体能力、鍛え上げられた体躯、そしてどこか人目を惹く華。
学園を歩けば、その事実を否応なく突きつけられる。
しかし、その中でも“別格”という存在は確かにいる。
ゴールドシチーのようにモデル業を兼ね、洗練された美を武器にする者。
容姿と気品にまで一族として徹底的に気を配るメジロ家。
生まれながらに完成された宝石のようなダイイチルビー。
圧倒的な存在感で視線を奪うジェンティルドンナ――。
そういった面々と並べられたとき、自分はどうしても数段、見劣りしてしまう。
ヒシミラクルは、そんな自己評価を持っていた。
「ですからねぇ……」
トレーナー室を出た廊下で、ミラ子は歩きながらゆるく肩を落とす。
「なんの準備もしてない私が、撮影モデルとかやっても……恥にしかならないですよ。止めましょうよ……?」
声は弱く、語尾はだらけきっている。
いつもの“本気で止める気はないけど抵抗はしたい”ときの駄々の捏ね方だ。
しかし、隣を歩くトレーナーは首を横に振る。
「そうは言ってもな。彼女らほどの美形じゃなくても、ミラ子は十分見れる可愛さだと思うぞ」
「いやいや、ハードル上げないでくださいよ……」
「それに、そういう専門的な子には全部声をかけたんだ。でもスケジュール的に無理だってさ。
……正直、お前にしか頼めないんだよ」
そこまで言われると、ミラ子はそれ以上軽口を叩けなくなった。
トレーナーの声音には、切羽詰まった必死さが混じっている。
自分のためというより、現場を回すために頭を下げているのだと分かってしまうからだ。
「……うぅ」
一拍置いて、ミラ子は小さく息を吐く。
「……分かりましたよぉ。そこまで言うなら……」
観念したように頷くと、トレーナーの表情がほっと緩むのが分かった。
――が、ミラ子の胸の奥には、まだ引っかかるものが残っていた。
(……最近、ちょっと……お腹のお肉が、危ない気がするんですよね……)
心の中でそっと視線を落とす。
アスリートであることに疑いはない。
日々のトレーニングも、最低限はちゃんとこなしている。
けれど、ミラ子はストイックに自分を追い込むタイプではない。
重要な目標レースもない時期が続き、クラスメイトと寄り道してはスイーツ。
今日はいいよね、明日頑張ればいいよね――そんな言い訳を積み重ねてきた。
もし、もしもだ。
撮影内容が水着だったりしたら。
(……下の方が、ぷにっと……)
想像しただけで、背筋にひやりとしたものが走る。
布の上に、乗ってしまう可能性は、否定できない。
(た、多分……大丈夫なはず……ですよね……?)
自分に言い聞かせるように、心の中で呟く。
言葉にすれば不安が増幅しそうで、あえて口には出さなかった。
そうして、不安と諦めと、ほんの少しの期待を胸に抱えながら。
ヒシミラクルはトレーナーと並んで、写真撮影の現場へと向かうのだった。
トレーナーと並んで現地に到着したヒシミラクルは、思わずきょろきょろと周囲を見回した。
撮影現場は海辺にもほど近く、潮の香りを含んだ風がゆるやかに吹き抜けている。
白いウッドデッキ、石畳の小径、蔦の絡まる古風な建物。
どこを切り取っても絵になりそうな、名工風靡――そんな言葉がしっくりくる趣だった。
「へぇ……意外とちゃんとしてますね……」
ミラ子は小声で呟く。
もっと簡素な特設会場を想像していた分、少し気後れしてしまう。
スタッフに案内され、トレーナーは控室の前で足を止めた。
「じゃあ、俺はここまでだな。終わったら呼んでくれ」
「うぅ……行ってきます……」
どこか処刑台に向かうようなテンションで、ミラ子は送り出されていった。
ひとり残されたトレーナーは、手持無沙汰を誤魔化すようにスマホを取り出す。
癖で開いたのは、彼女のトレーニングメニューとレーススケジュール。
(この週は負荷軽めで……次は調整期間か)
画面をスクロールしながら、頭の中で今後の段取りを組み直す。
集中しているうちに、時間の感覚はあっという間に薄れていった。
「……あ」
不意に、背後から少し控えめな声がかかる。
「お……お待たせしました~」
振り返った瞬間、トレーナーは一瞬、言葉を失った。
そこに立っていたのは、いつものゆるっとした姿のミラ子ではない。
ナチュラルメイクで柔らかく整えられた顔立ち。
夏の光を受けて揺れる、淡い色合いのサマーワンピース。
肩や首元のラインは自然で、派手さはないのに、妙に目を引く。
――馬子にも衣裳、とはよく言ったものだ。
「ど、どうですか……?」
ミラ子は両手を前でそわそわさせながら、上目遣いで様子を窺う。
「な、なにか言ってくださいよ……。
どこも変じゃないですよね? 浮いてないですよね……?」
不安を隠しきれない声。
その様子がまた、余計に“らしくて”。
トレーナーは思ったことを、そのまま口にした。
「ああ。凄く可愛いぞ」
一瞬、空気が止まる。
「…………え?」
数拍遅れて、言葉の意味が脳内に届いたらしい。
ミラ子の顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。
「なっ……ななななっ……!」
「お、おい、ミラ子――」
「そ、そういうのは……っ!」
べしっ。
べしべしっ。
照れ隠しに、遠慮のない力でトレーナーの腕を叩くミラ子。
本人は必死だが、周囲から見れば完全にじゃれ合いだ。
「いきなり言わないでくださいよ……!
心の準備ってものが……!」
「いや、事実を言っただけなんだが……」
「だ、黙っててくださいっ!」
耳まで真っ赤にしながら抗議する姿に、トレーナーは苦笑を浮かべるしかなかった。
――少なくとも。
今日の撮影が「恥にしかならない」なんてことは、なさそうだ。
そんな確信だけは、自然と胸に浮かんでいた。
撮影が進むにつれ、ヒシミラクルは何度も顔を赤らめることになった。
慣れない立ち位置。
慣れないポーズ。
慣れない視線。
「えっと……手は、こうですか……? あ、逆……?」
ぎこちなく動くたび、シャッター音が小気味よく響く。
そのたびに肩が跳ね、視線が泳ぐ。
けれど、カメラマンがふっと力を抜くように声をかけた。
「じゃあ……“いつもの、ぼーっとしてる時の感じ”でいきましょうか」
「……え?」
拍子抜けしたように目を瞬かせるミラ子。
意識して作っていた表情が、ふっと緩む。
「えーっと……いつもの……」
肩の力が抜け、視線が少し遠くなる。
何か考えているようで、実は何も考えていない――そんな、普段の彼女そのもの。
カシャッ。
空気が変わった。
豪華なドレスでも、きらびやかな装飾でもない。
どこにでもありそうなサマーワンピース。
少し大きめで、袖が手の甲にかかるパーカー。
計算された可愛さでも、プロとして磨き上げた表情でもない。
けれどそこには、「隣の席に座っていそう」な安心感があった。
「……いいですね、これ」
「親近感がある」
「見てて落ち着く感じ」
スタッフの間から、そんな声が自然と漏れる。
ミラ子自身は気づいていない。
けれど、彼女の“作っていない空気”こそが、この撮影の一番の魅力になっていた。
――しかし。
「……や、やっぱりこれは止めましょうよ……」
バスタオルをぎゅっと握りしめ、肩をすくめてふるふると首を振るミラ子。
どうやらスタッフの熱意に押され、水着のカットにも挑戦する流れになったらしいが、ここにきて限界が来たようだ。
「む、無理ですって……!
こんなの、私じゃ……!」
「大丈夫だって。ちゃんと可愛く撮ってもらえるから」
トレーナーの声は、落ち着いていて、押しつけがましくない。
「……うー……う~……」
唸るように迷ったあと、ミラ子は小さく息を吸った。
「……信じますからね。
変なだったら、あとで文句言いますからね……」
恥ずかしそうにタオルを外す。
身に着けていたのは、耳あてと同じ配色――青と白のストライプ柄のビキニ。
派手さはなく、爽やかで、あくまで“夏らしい”印象だ。
完璧に整えられたモデル体型とは違う。
けれど、程よく肉づきがありお腹やお尻まわりがぷにっとしている分、身近な女の子らしさが
無理のない自然なラインとなり、健康的な雰囲気がそこにはあった。
「……深呼吸して、いきましょう」
「はい、そのまま」
スタッフとトレーナーの声に背中を押されながら、ミラ子は一歩、前へ出る。
緊張でぎこちない笑顔。
それでも逃げずに立っている姿は、確かに“頑張っている彼女”そのものだった。
――これはこれで、きっと好きになる人がいる。
そんな確信を、トレーナーは胸の内だけに留める。
「……よし、いい感じだ」
その一言に、ミラ子は少しだけ、胸を張った。
照れながらも、恥ずかしさに負けそうになりながらも。
ヒシミラクルは、水着撮影にも、ちゃんと参加していた。
“平凡”を名乗る彼女なりに。
自分にできる精一杯で。
撮影は滞りなく終わり、スタッフたちは機材の撤収に追われていた。
潮風に混じって聞こえるのは、ケースを閉じる音と、遠くの波のさざめき。
気づけば、少し離れた場所にはヒシミラクルとトレーナーの二人だけが残っていた。
トレーナーはチェアの脇に立ち、タブレットを手に撮影データのコピーを確認している。
画面には、サマーワンピースで柔らかく微笑むミラ子の姿。
水着のカットも、想像以上に自然で、肩の力が抜けた表情が印象的だった。
――やっぱり、いい写真だ。
そう思った瞬間。
「うわっ!?」
首筋に、ひやりとした感触が走る。
驚いて振り向くと、そこにはミラ子が立っていた。
手には、少し溶け始めたアイス。
「えへへ、驚きました?」
いたずらが成功した子どものように、目を細めて笑う。
「撮影用のアイスが余っちゃったらしいんですよ。
捨てるのももったいないですし……一緒に食べようと思って」
そう言って、当たり前のように隣を指差す。
二人は並んで砂浜に置かれたチェアに腰を下ろした。
足元では、細かな砂がさらさらと流れていく。
ミラ子はカップのバニラアイスをスプーンですくい、口に運ぶ。
「……ん~~……」
ひと口味わった瞬間、肩をすくめて、全身をふるふるっと震わせる。
「この一杯のために生きてる……って顔だな」
「いま、完全にビール飲んだサラリーマンでした?」
「間違いなく」
くすっと笑い合う、その空気が心地いい。
しばらくして、ミラ子は何気なくタブレットの画面を覗き込んだ。
そこに映るのは、自分自身の写真。
「……やっぱり」
ぽつりと、独り言のように呟く。
「私、シチーさんたちみたいにキラキラしてないですよね。
こういうの、向いてないと思います」
スプーンでアイスを崩しながら、視線を落とす。
「普通すぎて……雑誌に載っても、誰も気づかないんじゃないかな」
その言葉に、トレーナーはすぐには答えなかった。
夕日に照らされた、彼女の横顔を見る。
少し照れたようで、少し不安そうで。
でも、どこまでも飾らない。
だからこそ、はっきりとした確信があった。
「ミラ子」
静かに、名前を呼ぶ。
「君のその『普通』が、どれだけ俺にとって……いや」
一度言葉を切り、選び直す。
「見る人にとって、救いになるか。
たぶん、君は分かってない」
ミラ子が目を瞬かせる。
「完璧じゃないところ。
気負わない表情。
何気ない仕草や、言葉の間」
タブレットの画面を、そっと示す。
「ここに写ってるのは、
“守りたい日常”そのものだ」
しばしの沈黙。
やがて、ミラ子は小さく息を吐いて、微笑んだ。
「……ふふ」
「トレーナーさん、ほんと褒め上手ですね」
そして、いつものように。
「えへへ」
少し照れた、ミラクルらしい笑顔がこぼれる。
そのときだった。
チェアの肘掛けに置いた手同士が、
偶然か、意図的か――ほんの少しだけ、触れ合う。
どちらも、すぐには離さなかった。
指先が、かすかに重なったまま。
「……夕日、綺麗ですね」
ミラ子が、空を見上げて言う。
「ああ……そうだな」
茜色に染まる水平線。
ゆっくり沈んでいく太陽。
数秒間だけ。
言葉少なに、指先を重ねたまま。
二人は、同じ景色を眺めていた。
波音と、夕焼けと。
今この瞬間が、確かに“守りたい日常”であることを、
どちらも言葉にしないまま、感じながら。
撤収を終えた撮影現場は、さっきまでの賑やかさが嘘のように静まり返っていた。
機材車のエンジン音が遠ざかり、海辺には夕暮れの気配だけが残っている。
トレーナーとヒシミラクルは並んで歩きながら、帰路につこうとしていた。
潮風が少し冷たくなり、昼間の熱をゆっくりと奪っていく。
その数歩後ろで、ミラ子は足取りを緩める。
何度か口を開きかけては、閉じる。
考えすぎているのが自分でも分かる。
――でも、今言わなかったら。
きっと、また“いつもの距離”に戻ってしまう。
「……あの」
ほんの少しだけ、声を強くする。
トレーナーが振り返った。
「次の休み……」
一瞬、言葉が詰まる。
それでも、深呼吸して続けた。
「グラビアの練習じゃなくて……
本当に『普通』のデート、しませんか?」
大げさな告白ではない。
約束を迫るような言い方でもない。
ただ、これまで守ってきた
「トレーナーとウマ娘」という境界線を、
ミラ子のペースで、ほんの少しだけ越えようとした言葉だった。
一拍の沈黙。
そして、トレーナーは肩の力を抜くように笑った。
「じゃあ――もう一回、あの水着着てくれるならいいよ」
冗談めかした声。
少しいじわるをしつつ、ちゃんと受け止める返事。
「なっ……!」
ミラ子は一瞬で顔を赤くする。
「ト、トレーナーさんのえっち……!」
むぅ、と頬を膨らませながらも、どこか本気で怒ってはいない。
「でも……」
小さく視線を逸らし、ぼそっと付け足す。
「……どうしても見たいって言うなら、
着てあげなくも……ないですけど……?」
最後はほとんど聞こえないくらいの声。
その様子に、トレーナーもしっかり応えた
「ああ、見たい。あの水着姿のミラ子は凄い可愛かったから」
「……ほんとですか?」
「ああ」
その一言で、ミラ子の表情がふわっと緩む。
「……えへへ」
いつもと同じ、ゆるい笑顔。
でも、その奥には、ほんの少しだけ“女の子らしい勇気”が滲んでいた。
並んで歩き出す二人の距離は、
さっきよりも、ほんのわずかに近い。
劇的な変化はない。
でも確かに、何かが始まりかけている。
そんな予感を残しながら、
夕暮れの道を、二人は並んで帰っていくのだった。