繋がれし、愛しき蹄の記憶 ――この手で紡ぐ、君との軌跡 作:テクニクティクス
距離が近づくには、ぴったりの空間と時間。
貴婦人との甘い一夜
数メートル先も降り注ぐ雨で見渡すことも出来ない中、人影が二つ進んでいく。
どこかに雨宿りが出来ないか探しつつ彷徨っていると、雨にけぶる中ひとつの家影が浮かんできた。
洋風の軒先に駆け込んで身体に容赦なくたたきつけるような雨から身を守ることが出来るのはありがたい。
全身濡れ鼠と化している二人はようやく一息がつけた。
「天気予報じゃここまでの豪雨になるとは言ってなかったけれどなぁ」
「この時期の天候は変わりやすいもの、仕方ありませんわ」
トレーニングの一貫として走り込みつつ、河川敷を坂路に見立てたりなどして郊外まで距離を伸ばしたはいいが、この大雨に当てられてしまい動くことが出来なさそうだ。
「まいったなぁ……予報だと夜半過ぎにでもならない限りこのまま止むことはなさそうだ」
いくらヒトより頑強であるウマ娘であっても、この土砂降りの中またどれだけの距離を戻ることになるのかは考えるだけで気が滅入る。
何より自分のパートナーをそんなことをしてまで戻すというのも。
「とりあえず、ここで一時避難いたしましょう。見たところ誰かが住んでいるようでも無さそうですし」
「緊急時だものね。後で事情を説明すればいいか」
おもむろに背後を振り返る。そこにあるのは小ぶりな洋館の廃墟だった。
丸窓にはすりガラスが残っていて、その曇りがまるでまぶたを閉じた目のように見えた。屋根は黒いスレート石で葺かれ降り注ぐ雨を弾いている。
瓦ではない滑らかな曲線のそのかたちは、どこか異国の建築様式を思わせた。
苔むした石畳に剥がれかけた漆喰なども目に付くが、怪談などで出てくるあやしい廃墟というより今まで大事にされてきたという名残が残っている。
玄関の扉は未だしっかりと建付けられてはいたがドンナが軽く取っ手を引いただけで、軋む音を立てながら二人を招き入れた。
玄関から奥に続く廊下は薄暗く、濡れた靴が古い床板をきしませた。壁の両側にはいくつか扉がありそのほとんどが半開きになっている。
入口傍の部屋には小さな丸テーブルと埃を被った小さな衣装タンスがあり、どちらも擦り傷がいくつかあるが丁寧に磨かれていたのか、今も木目が柔らかく光を返す。
椅子も崩れることなく立ち、窓辺のレースのカーテンは色こそ褪せていたものの、ふわりと風を受けて静かに揺れていた。
奥の扉を押し開けると、そこはかつて居間だったのだろう。広めの空間の中央には重厚な石造りの暖炉が据えられて、その傍らにはくすんだ薪がいくつか無造作に積まれている。
天井の隅に雨染みの輪がうっすらと浮かぶが、部屋全体は崩れきってはいない。壁紙こそ剥がれかけているが梁はしっかりと形を保っており、何より空間に満ちる静けさが心地よかった。
「前の持ち主はここを大切に使っていたようですわね。でなければすでに朽ち果てていてもおかしくはないですもの」
そう言葉をもらしたドンナが可愛らしいくしゃみをする。ジャージを着ているため透けてはいないが、じっとりと水を含んだ服が身体の体温を奪っていた。
トレーナーも隙間風が吹くたびに体温が奪われていく。そういえば先ほどの部屋に衣装ダンスがあったことを思い出し戻る。
彼は木の取っ手に手をかけ、少しためらってから開いた。中にはコート、薄いカーディガン、襟に刺繍のあるブラウスなどの服が朽ちずに残っている。
ドンナが一着を手に取り、軽く手のひらでなぞるように眺め、少し濡れた長い髪を指で束ねながら落ち着いた声で応える。
「作った人の手が見える服ね。誰かがこれを、長く大事にしてたのでしょう」
この服がとても大事に愛されて使われていたのを感じ取るようにしつつ、タンスから取り出した。
「私はこれで十分。あなたも何か――着替えたほうがいいわ。風邪を引いてしまう」
彼女に促されて、トレーナーは戸惑いながらも少し地味なニットを手に取る。お互い別の部屋で濡れた服を脱いで着替えた。
多少埃臭くはあってもほつれや穴などが無いことから、幾重にも時を重ねた布地でも手入れがとてもよく行き届いた証だろう。
着替え終えたドンナがトレーナーを探していると、居間の方から物音がする。
ドアを開けると、暖炉に薪がくべられていてパチパチとはぜる音を立てて炎が揺らめいている。
「あ、着替え終えたんだ。こっちに来て。ちょっと手間取ったけれど何とか火がつけられたよ」
多少しけってはいたかもしれないが、火がつかない程ではなくその傍に置かれて埃を被っていたマッチも何とか着火することができ
新聞紙を穂口として暖炉に熱を入れることに成功した。
「ああ、温かいですわね」
トレーナーの傍に座りこみ火にあたるドンナ。借りもののワンピースは少し古くサイズも合っていない――はずなのに、妙に似合っている。
胸のあたりで布がつれ上へと引かれた分だけ、裾がわずかに短くなっていた。火の明かりにほのかに照らされひざの少し上、太ももの線までがあらわになっていた。
火の光に照らされた横顔は、まるで昔の絵画から抜け出してきたように儚く、それでいて強かった。
「一応学園にはちょっと今日中には戻れそうにないって連絡はいれておいたよ」
雨のせいもあるが、日も暮れだしたのだろう。夜の帳が急速に周囲から光を覆い隠していき、雨が屋根に当たる音と風が抜ける音だけが屋敷に響く。
ドンナが着替えている間にその辺りを探索していたトレーナーはキッチンを見つけ、まだ使えそうなやかんとコップを手に入れた。
裏庭には錆の浮いた井戸ポンプがあり、試しに動かしたらまだ生きていたのだろう。錆色の水が湧き出てきたがポンプを動かし続ければ澄んだ水に変わっていく。
井戸水でやかんとコップを洗い、持参のバッグからミネラルウォーターをやかんに注ぎ火にかける。
しゅんしゅんと沸騰したお湯をバッグに入っていたカップヌードル二つに注いで、しばらく待つ。
「個人的な夜食として入れておいたものだけれど、我慢してね」
「こんなところで食べるものに対して文句なんて言いませんわ。いただきましょう」
蓋を開ければ、ふわりと白い湯気が立ち上り食欲をそそるスープの香りが鼻をくすぐる。
この屋敷にはあまりに場違いで、だからこそ背徳感もあって冷えた体にその温かさは染み込んだ。
暖炉の火に照らされて、カップ麺をすする彼女も普段では絶対見られない景色でより日常感が薄れる。
食事も終わり、周囲はもう完全に闇に包まれて雨音と風が抜ける音しか聞こえない。
廃屋の木枠を軋ませるその音さえ、今は心地よくさえ思える。二人は寝室で見つけた毛布に包まって暖炉前で横になる。
暖炉の火はもう小さくなり、ほの赤くくすぶる炭が毛布の縁を淡く照らしていた。
古びた布地はところどころほつれ、黴の匂いがかすかに鼻をくすぐる。けれど不思議なことに、それさえも今夜の静けさに溶け込みどこか懐かしい香りのようにも感じられた。
「すぅ……すぅ……」
彼女は、もうすっかり眠っているようだった。初めはただ寄り添うだけであったのに、おもむろにトレーナーを引き寄せてぎゅっと抱きしめてきたドンナ。
どこか蠱惑的な笑みも浮かべつつ、彼を抱き枕にしてその反応を楽しんでいたが
誰もいない忘れられた屋敷の中でこうして静かに身を寄せ合っていると、日中の疲れもあるのか彼女のまぶたが重たくなっていった。
毛布の中、信頼するように預けられた体はあたたかく、火に炙られた石のようにじんわりとした熱をこちらに伝えてくる。
着替えに借りたワンピースは古びた布地のせいかどこか頼りなく、布越しに感じる輪郭がやけに生々しい。
剛毅でならす彼女が無防備に寝顔を晒し、肩越しに伝わる柔らかな曲線、眠りの中にあるはずの吐息までもがトレーナーの牡をむずがゆく刺激する。
香水の匂いではない。肌そのものに宿る甘くてやわらかな香り。火の匂い、濡れた木の匂い、黴の匂いさえも押しのけて強く胸の奥へと届く。
(あなたなら、構いませんわ――)
眠りに落ちる前にそっと囁いた蠱惑的な言葉。しかしぐっと邪推を堪えて、その代わり優しく且つしっかりと彼女を抱擁し目を瞑る。
しかし、トレーナーの唇に甘く柔らかなものがそっと触れた。驚いて目を開けるが、偶然顎をあげたドンナと触れてしまったようで彼女は寝息を立て続け、再び彼を抱きしめる。
雨の夜、崩れかけた屋敷の片隅で――ただそれだけのことが、妙に確かな記憶として刻まれていった。
◆
あの雨の日から、そう日は経っていなかった。けれど、かつて雨宿りをしたあの洋風の屋敷は、もう存在しない。
解体のお知らせという掲示板の張り紙を見て、あの洋館が消えていくのを二人は知った。
トレーニングのついでに再び足を延ばしたところ、もう屋根は半ば崩され、丸窓も外されていた。ところどころ漆喰の壁も崩されてやけに白く見えた。
ただ一晩雨宿りのために借りた廃墟だった。それでも、あの夜だけはたしかに、誰かの「場所」だった。
雨音、火の匂い、湯気、ぬくもり。崩れていくのは建物だけではなく、そこに宿っていた空気までもが静かにほどけていくようだった。
知らずに彼は拳を軽く握りしめていた。
廃墟の跡地を離れ、トレセン学園へ向かう坂道で、彼女がぽつりと声を落とした。
「あの屋敷に少し似てる別荘を所有してますわ。暖炉もあるし、夜は静かで……灯りが少ないのも、ちょっと似てるかもしれませんわ」
声はどこか遠い記憶をなぞるようで、けれどその目はしっかり彼を見ていた。
「いずれ、二人きりで行きませんこと? 望むのならあの時と同じ格好で、越えられなかった線を共に……」
冗談めかして笑ったけれど、その頬はほんのり色づいていて瞳の奥に灯るものがある。
あの夜の火のぬくもりと、今、彼女の言葉の温度がどこかで重なっていた。
トレーナーは返事をしなかった。ただ、自分の隣にあるその手にゆっくりと指を伸ばす。
彼はそのまま、そっと手を包み込んだ。手のひらの温度がじわりと伝わる。言葉よりもやわらかく、静かに――
彼女は少しだけ伏し目がちになって、けれど唇に、かすかな笑みを浮かべた。