繋がれし、愛しき蹄の記憶 ――この手で紡ぐ、君との軌跡 作:テクニクティクス
「そんだけでええん?」
アタッシュケースに書類を詰めていると、不意にかけられた声に手を止めた。
傍らに立つタマモクロスが半ば身を乗り出すようにして鞄の中を覗きこんでいる。
「まだ途中。もう少し整頓して余裕を作りたいし」
そう返しながら、片手で中身を押さえて整えつつ心のどこかで“何かを忘れていないか”という感覚がふとよぎる
「ほーん、ちゃんとしとるようで、なんか抜けてそうやな」
「た、多分大丈夫なはず……」
肩をすくめた彼女の声はからかうようでいて、少しだけ心配を含んでいたため思わず曖昧に笑ってしまう。
だが、その不安を見透かすように彼女がじっとこちらを見ているのがわかる。
「しっかりしいや。まったく」
その小さな呆れの声にどこか安心する。苦笑しつつも、トレーナーはクリアファイルを取り出して彼女に差し出す。
「留守の間のメニュー。負荷は先週より気持ち抑えめにした」
「出張のことばかりかまけてないで、しっかり考えてくれたんやな」
「当然でしょ、大切なパートナーのことなんだし」
その言葉にタマはわずかに目を伏せた後、にっと笑ってファイルを胸に抱いた。まるでそれが大事な手紙か何かであるかのように。
「ほな、気ぃつけてな。うち、ちゃんと待ってるさかい」
その声は、どこまでも明るく、どこかで寂しさを押し隠しているようにも聞こえた。
軽く手を振る彼にタマは笑みを返し、トレーナーはドアノブに手をかける。
その言葉を残して廊下へと歩み去っていく背中を、タマは黙って見送った。
その姿が角を曲がって見えなくなったとき――
胸の奥が、きゅうっと小さく痛んだ。
さっきまで笑っていた自分の顔に、残った熱だけがほんのり滲んでいた。
◆
コーナーの立ち上がり、わずかに重心を沈ませたその瞬間、彼女の脚がしなるように地を蹴った。
右足が芝を捉えるように踏み抜く。体幹はぶれず、次の一歩が鋭く前へ伸びる。
風を割るようなフォームでタマモクロスは加速した。躊躇はない。視線はまっすぐ前だけを見据えている。
彼女自慢の差し脚――気負うことなく自然に、強い踏み込み。その一瞬だけ、白い閃光が世界を白く染めた気がした。
「どや!! これ自己ベスト更新したんやないか!?」
汗まみれの頬をぬぐいながら、満面の笑みを浮かべつつタマはいつもの場所を振り返った。でもそこに、彼の姿はない。
ストップウォッチを見つつ、同じく笑みを浮かべて褒めてくれるトレーナーをつい思い浮かべてしまう。
遠征中。今日はいない。わかっていたのに、無意識に探してしまう。
「……なんや、アホみたいやな」
そう言って、笑った自分の声が少しだけ寂しく響いた。ベンチに置いてるクリアファイルからメニュー表をぱらりとめくって確認する。
「クールダウンして今日は上がり……か」
タイムは胸の内にしまっておく。彼の前で報告するまでは。呼吸を整えてから、トラックをゆっくり走り出す。
日が傾くグラウンド。長く伸びる影の中を彼女は黙って走る。
(……はよ、帰ってきてや)
その言葉だけ、胸の奥でぽつりと転がった。
寮内の食堂でブリの照り焼き定食を前に、ただ箸でトレーを突いているタマモクロス。
空腹はあるはずだった。普段と同じく何本も走ったあとだ。けれど、箸を持つ手は思ったよりも動かなかった。
周囲の席では賑やかな声が飛び交っていたけれど、彼女の周りだけ静かだった。
「食べないのか?」
そう声をかけられて顔を上げると相変わらずの超ドカ盛りの料理の山の脇から顔を出すオグリの姿が。
「いや、食べてるで。ただ……あんま食欲湧かないねん」
空元気な声で返しながら、彼女は箸をもう一口だけ口に運んだ。けれど、ご飯粒が喉を通る感じがしない。いつも以上に小食になっている。
「……すまんオグリ。おかずやるわ、箸つけてないからばっちくないで」
そう言ってブリの照り焼きをオグリの方に寄せてほとんど手のついていない料理を返却口へと返す。
「本当に大丈夫か? タマ……」
その一言だけが、まっすぐに刺さる
「へーきへーき。すまんが先に寝とるわ……あんがとな」
心配そうに見つめるオグリに手を振って食堂を後にする。声に出したその「ありがと」は、どこまで届いているのか彼女にはわからなかった。
トレーナーが出張で不在にしてから三日目。教室で机に突っ伏してタマはぴくりとも動かなかった。
うめき声もため息もない。ただ、黙って動かない。遠目に見れば昼寝をしているようにも思えるけれど──親しい者にはわかる。完全に絶不調だった。
「なぁ、クリーク。どうにか出来ないか? 部屋の中でもあんな感じなんだ」
なんとかしてあげたいが何も出来ないことで、不安げにオロオロしているオグリ。
「たぶん、いま心がすごく空っぽになっちゃってるのよね。無理に元気づけようとしても……」
普段ならかいがいしくお世話を焼きにいくクリークですら、まったく反応を返してくれないタマには流石にお手上げのようだ。
ふたりの間に流れるのは、気遣いと無力感。そしてそれでもなんとかしたいという友人且つライバルへの想い。
そんな中、タマのスマホに着信音が流れる。特定の人に当てた着メロを聞いた彼女は急いで通話モードに切り替える。
「も、もしもし?」
「タマ! 今大丈夫?」
久方ぶりに聞くトレーナーの声に今まで影のあった表情がじわりと綻んでいく。
「……は? 会議資料? 寮に忘れた? ほんま、しゃーないなあ……」
言葉のトーンは呆れ気味なのに、唇の端は勝手に上がっていた。
「ん、あいよ。送ったるから、ちゃんと感謝しぃや」
手には彼から預かっている寮の合鍵がほのかに熱を持っているように感じられ、タマはトレーナー寮に向かった。
パソコンから資料を送信したところ、すぐにトレーナーから資料が届いたという通話が入った。
「あ、あんな……出来たら今日の夜ちょっと話せへんか?」
「ごめん! これからすぐ打ち合わせ始まるんだ、ありがとうねタマ」
お願いを伝えきることが出来ずに通話を切られてしまい、タマモクロスはむすっとした顔のままスマホを見つめた。
ファイルを送信し終えてから部屋の中にしんとした静けさが戻っていた。さっきまで通話で聞こえていた彼の声も、もうどこにもない。
ふと、ベッドに視線を落とす。いつものように乱雑に毛布が折り畳まれているだけのそれだけの場所。でも、不思議と引き寄せられるように彼女はその上に身体を横たえた。
ふわりと、香りがした。
洗剤の香りに混じってどこか懐かしいような落ち着く匂い。目を閉じるとほんの少しだけ、そこに彼がいるような気がした。
鼓動がゆっくりと落ち着いていく。このまま、少しだけ──そう思っていた。
だが胸の奥にぽっかりと空いた空白が、ひんやりとした寂しさを連れてきた。彼の残り香が心地いいのに触れられないその距離が切なさを引き立てた。
──こんなに、居らんだけでおかしなるんか、自分。
呆れるような、情けないような気持ちで小さくため息をつく。そして次の瞬間、急に己が何をしているのか冷静に考えてしまった。
「……って、何してんや自分ーっ!!」
勢いよく飛び起きた。顔が熱い。耳の先端までかなり熱を持っているがする。慌ててシーツを整え、背筋を伸ばして深呼吸する。
けれども口から飛び出しそうなほどに心臓はどくどくと早鐘を打ち、考えれば考えるほど顔が火照ってくる。
「……あかんあかん、もう帰るっ!!」
勢いよく扉を開けて彼の部屋を後にする。背後に残ったのはきちんと直されたベッドと、わずかに乱れた空気だけだった。
明日になればトレーナーが帰ってくる。たったそれだけの事実がこんなにも待ち遠しいなんて。けれど、その「明日」が今はやけに遠く感じられた。
放課後の空気がゆっくりと沈んでいくなか、疲れはもう顔にも出ていた。動作のひとつひとつが重たく視線もどこかぼんやりしている。
「なぁ、タマ。いつもの髪飾りはどうしたんだ?」
「へっ? あれ、ほんまや。どこやったんやろ」
「どこっていうか、数日前からずっとつけてなかったぞ」
オグリに指摘されてようやく彼女はハッとする。毎日当たり前のようにつけていた、あの髪飾り。言われて初めてそれがないことに気がついた。
思い当たる場所の放課後のトレーナー室、寮の部屋、荷物の中と探してみたがどこにもなかった。記憶を手繰るうちにふと、あのときのことを思い出す。
彼の部屋でベッドに寝転がった。あのとき、もしかして──。タマモクロスは躊躇いがちに、またあの部屋の前に立っていた。以前よりもほんの少しだけ躊躇いが長かった。
そっと鍵を差し込み静かに扉を開ける。ベッドの脇、毛布の端。そこにカチューシャが見えた。手を伸ばして拾い上げる。
これだけ大きいのを無くしていて、今までずっと気づいていないとかほんましょうもないなうち……と苦笑し胸の内で息をついた瞬間だった。
部屋のドアが、ふいに軋んだ。
「っ……」
タマの全身が瞬間的に凍りついた。足音。間違いない、人の気配。それも聞き慣れたあの足音だ。
(なんで……もう、帰ってきたん……!?)
思考が追いつくよりも先に、体が動いた。慌ててベッドの布団を捲り空いていた隙間にもぐり込む。心臓の音がうるさいほど跳ねて呼吸が浅くなる。
「……あれ?」
低く、聞き慣れた声がすぐ近くで響く。気づかれた? とタマは布団の中で固まる。だがそれ以上の声は続かなかった。
「……居るわけ、ないよな」
苦笑交じりの独り言。ドアが閉まりガサゴソと荷物を置く気配。そしてどさり、と布団が沈む音。その瞬間、彼女は目を見開いた。
(ま、まさか寝ぇへんやろ、今ここで……!?)
けれど、確かに重みが布団越しに伝わる。トレーナーはまるで吸い込まれるように、疲れた身体をベッドに投げ出していた。
「……疲れた……やっぱ、帰ってくると落ち着くな……それに何だかタマの匂いもする」
そう呟いて彼はそのまま静かに目を閉じた。彼の吐息が、ほんのすぐそばで感じられる。
――もう、我慢できそうになかった。
この一週間、どうしてこんなにも心が空っぽだったのかようやく理解した。
隣にいるこの人が、ぽっかりと空いた自分のなかの空洞を埋めてくれる存在だったと今はもう確信できる。
彼が眠っている。穏やかな寝息とうっすらとかいた額の汗。肩のあたりまで乱れた布団の隙間から覗く無防備な横顔。
愛おしさが、喉の奥まで溢れてくる。そっと手を伸ばした。触れた指先にほんの少し体温が伝わる。それだけで、胸の奥がぐらりと揺れた。
ああ、やっと会えた。
ずっと張り詰めていた何かが緩むように、彼女の目に静かに涙がにじんだ。この温度に、声に、匂いに、ずっと飢えていたのだと改めて思い知る。
(……今まで開いてたうちの、ぽっかり空いた穴。……埋めてもらうで)
彼の胸元に、ぴたりと身を寄せる。柔らかな布団越しに伝わる鼓動にそっと自分の体を預ける。タマの細い指が布の上からそっと彼のシャツに触れた。
このぬくもりを忘れたくない。いや、むしろ――これから、全部を覚えていたい。
涙が頬をつたった。拭わずにそのまま流れるに任せる。それも彼に触れる理由の一つになってしまうくらい、心はもう傍に寄り添いたがっていた。
静かな室内に彼女の細い息遣いと、眠る彼の穏やかな寝息とが溶けていく。夜が深まるほど、ふたりの距離はゆっくりと確実に、ひとつへと傾いていった。
◆
朝の光に照らされて教室の扉がカラリと開く。
「おはようさーんっ!」
声量からしてすでに全開。登校してきたタマモクロスの姿は、まさしく“ツヤッツヤ”の“テカテカ”だった。
肌はつややか、表情は晴れやか、歩くたびに周囲の空気まで明るくなるような見事な復活ぶり。
そのあまりの変貌に、オグリとクリークの二人は思わず顔を見合わせた。
「……あの、タマが滅茶苦茶元気いっぱいになっているんだが」
「うん、昨日までの魂抜けてたみたいなタマちゃんは……見る影もないですね」
じっと彼女を観察する二人に対しタマはというと、ニッコニコで机にカバンを置き窓の外を見ながら鼻歌まで歌っている。その傍でオグリがふと眉を寄せた。
「……ん?」
顔を寄せて、くんくんと遠慮なく匂いを嗅ぐ。
「……なあ、何か今日、タマからタマのトレーナーと同じ匂いするんだが。あと、昨日どこ行ってたんだ? 帰って来ないから心配したんだぞ」
その一言に、タマの肩がピクリと跳ねた。
「っ……あ、あれや、柔軟剤や! トレーナーの服の匂いがえらいええ感じやったからな、うちも同じのにしてみたんよ! ほら、香りで気合入るいうやつや! そ、それだけやし!」
語尾がやたら跳ねる。目が泳ぐ。顔も赤い。
慌てるあまり、自分で言ってて余計に怪しくなっていることに気づいていない。
「で、昨日はな? えーっと、ええと、ようやくトレーナーが帰って来たやろ? 居なかった間のトレーニングの成果や自己ベスト更新したこととかな、
……それで報告だけのつもりやったんやけど、つい、ちょっと盛り上がった話とかしてしもてたら……うっかり寝てもうて……そ、そしたら朝やったんや……あはは……」
必死の言い訳が妙にわざとらしい。友人たちは怪訝な顔をしながらも「ふーん?」と間延びした返事で済ませる。ところが。
「そんなに匂うもんか? だってシャワーも浴びたのになぁ……」
ぽろりと余計な一言。一瞬、時が止まった。彼女自身も、自分で言ってしまったことに気づくのが一瞬遅れる。
唇に手を当て、目を見開いて徐々に顔に血が上っていく。周囲の目がタマに集中する――コイツらうまぴょいしたのか!?
「――あっ、ちゃうねん、今のはっ、そういう意味やなくてっ!」
「いや、どういう意味なんだ?」
よく分からないと首を傾げるオグリとあらあらまぁまぁと目の色を輝かせて口元に手を当てているクリーク。
タマは机の陰に逃げ込むように身をかがめて、真っ赤になって耳を震わせながらしどろもどろ。
「し、シャワーは浴びただけでっ、な、なにもやましいことは……!」
真っ赤な顔のまま、わけのわからない弁解が続く。その姿にオグリは沢山疑問符を浮かべ、クリークはもう何も言わずただ微笑ましく笑っていた。
何にせよ――彼女が元気ならそれでいい。事情は、まあ、なんとなく察しつつも。
後日談――
昼下がりの教室の隅、ひとつの机に頭を突っ伏したまま、ぴくりとも動かない人影がある。
タマモクロスの寮の同室で、芦毛の怪物とも称されるオグリキャップ――は、明らかにグロッキーだった。
普段から朴訥ではあるが、今日に限っては「おはよう」さえも返ってこない。こうなるともう“無言”というより“沈黙”。空気そのものが重い。
理由ははっきりしている。彼女の専属トレーナーも、ちょうど今日から出張で不在なのだ。まだ一日目。たった一日目にして、早くも絶不調。
その姿を見たタマは、思わずくすりと笑ってしまった。つい先日まで、自分もまったく同じだったからだ。
元気だった昨日の自分と、沈んだ今日の友人。立場がくるりと入れ替わっただけ。
「なーなー、あんたもしかして、トレーナーおらんからって、エネルギー充電切れなん?」
オグリは顔をあげない。けれど、机に頬を押し付けたままぼそりと返す。
「……うん」
まるで電源の切れかけた端末のような声だった。
「まっすぐやなぁ……そないにへこまんでも、すぐ帰ってくるやろに」
「“すぐ”が……長い」
タマはそのひとことに、苦笑しながら膝をついてオグリの視線と同じ高さになる。その目はどこか少し寂しさを含んでいた。自分も、そう思ったからこそ。
「……わかるわ。めちゃめちゃわかる」
ぽん、と軽く机の上に手を置いて冗談っぽく言う。
「けど、うちはな、今日ここに来れてん。グロッキーやったけど何とか頑張ってきたんや」
その言葉に、机に突っ伏したままの友人が、ゆるゆると視線を寄越してくる。
「なあ、“うちも”やけど、あんたも明日はちゃんと来ぃや。うちら、そないヤワちゃうやろ?」
にこりと笑った彼女の顔は、ほんの数日前には想像もつかないほど、晴れやかだった。
オグリはほんの少しだけ口角を上げて、うなずいたように見えた。