繋がれし、愛しき蹄の記憶 ――この手で紡ぐ、君との軌跡 作:テクニクティクス
静かな海辺で、ふたりの距離がそっと近づいていく。
二人で電車に揺られるのは遠征による地方レースへと幾度もあったが、それとは違うのはまた心が踊る。
以前商店街の福引で当たった温泉旅行ペアチケットは、山間の立派な旅館だったが今向かっている場所は
東北の海沿い、地図で見れば小さな町の駅の名前すらあまり聞いたことのない場所。
「たまには静かな場所で、二人きりで過ごしたいですね」彼女がぽつりと言ったのをきっかけに、どちらともなく決めた場所だった。
トレーナーとの向かい席でグラスは静かに本を読んでいる。ページをめくる音とタタン、タタンと優しい車輪の音が重なって、心のなかにも波が寄せては返すようだった。
「あ、見えてきましたね」
列車は小高い丘のふちをなぞるように走り、緩やかなカーブを抜けた先でふいに視界がひらけた。
眼下には穏やかな海が広がっていた。初夏の日差しを受けて水平線のあたりが銀色にきらめいている。
風はほとんどなく海面は皺ひとつないほど静かで、それでも光だけが絶え間なく波間を渡っていた。
軽く開けた車窓から吹き込む初夏の風がグラスの髪を揺らし、少し心がほぐれるのを感じた。
まるで日々のざわめきが自分のなかのどこか遠くに押しやられていくようだった。
駅から降りて、まずは海に向けて二人は歩いていく。動きやすさの中にも気品さがあるグラスはデニムジャケットに白のブラウス、ベージュのチノパンという出で立ちだ。
海に向かってのびる商店街は、旅先にしてはほどよく賑やかだった。
風にのってふわりと鼻先をかすめたのは潮の匂いに混じって、炭火で炙られる海鮮の匂いだった。
「……なんだか、すごくいい匂いがしますね」
グラスが思わず足を止める。視線の先には小さな屋台のような店先。
網の上で殻つきの貝がじゅうじゅうと焼け、ふちから汁がこぼれて炭に落ちるたび香ばしい煙が立ちのぼる。
鍋の中ではあら汁がくつくつと煮え、湯気に包まれて湯の花のような脂が踊っていた。
「あら汁、ですかね? あんなに湯気が立ってる」
「あの香りだけで、ごはん食べられそうだな……」
腹の底から、ぐう、と音がした。どちらの音かは言わなくても分かった。
「私では……ないと、言いたいところですけれど」
少しだけ眉を下げて、でもどこか楽しげな目でこちらを見る。
「じゃあ、ちょっとだけ。お昼前だし」
「いいですね。こういう寄り道、旅らしくて」
そう言うと彼女は口元を手で隠しながら、ちょっと恥ずかしそうに笑った。
予定を少し外れることがこんなにも嬉しくなるなんて。旅ってきっとそういうものなのかもしれない。
◆
ちょっと早めの昼食をとった二人は、入り江にひっそりと佇む海水浴場に来ていた。
どこまでも透き通るような紺碧の海と、まばゆいばかりの白砂が織りなすその光景は、さながら一枚の絵画のようだ。
ここには人工的な構造物はほとんどなく、自然が織りなすままの美しさが訪れる者の心を捉えて離さない。
先にレジャーシートを砂浜に敷きパラソルを立て、グラスがやってくるのを寄せては返す波をただ見つめて待つ。
砂を踏む足音がした方へゆっくり視線だけを向ける。
海風に栗色の髪がふわりと揺れ、陽射しにその輪郭が柔らかく透けていた。薄く日焼け止めの香りが混じる潮の匂いがほんのりと漂ってくる。
「お待たせしました」
声がして、彼女が一歩砂の上に影を落とす。
白いビキニ。それは派手ではないけれど清潔感と品のある選び方だった。陽射しをやわらかく受けて、まるで波のしぶきのように涼やかに映える。
肌を見せることに慣れている様子ではないが、だからといって隠そうともしない。その姿には彼女の持つ不思議と心を鎮める静けさがあった。
「似合っているよ」
その言葉に、彼女はほんの一瞬だけまばたきをして――少しだけ頬を染める。陽のせいか、それとも言葉のせいか。
「ありがとうございます。でも……あまり見すぎないでくださいね」
いたずらを隠すように、くすりと笑う。その笑顔は真昼の海にふいに差す、きらめく波光のようだった。
目を細めるしかできないほど、まぶしくて、きれいで。言葉の続きは喉の奥に沈んで波音にさらわれていった。
「さ、行きましょうか」
そっと手を差し伸べてきたグラスに誘われるまま、海へと歩んでいく。足元の砂はまだ少し熱を持っていて、それが波打ち際に近づくにつれてひんやりと湿り気を帯びてくる。
初めて海に足を入れた瞬間、ふたり同時に小さく声が漏れた。それを聞いて彼女はくすりと笑う。
「ちょっと冷たいですね。でも……気持ちいいです」
ゆっくりと波が引いてまた足首を洗う。彼女の手が離れないまま、腰辺りまで海水がくる深さまで進む。
「あっ……」
遠くから寄せてきた波が、不意に勢いを増した。穏やかなさざ波が続いていた海面に一瞬だけ大きめのうねりが走る。
グラスの足元がふわりと浮き、バランスを崩しかけたその瞬間反射的に手が伸びて、彼女の腰を抱き寄せた。
手のひらが触れたのは、ほどよく張りのある柔らかな感触だった。
よく友人のエルコンドルパサーがからかってお仕置きをされているが、腰からお尻にかけてなだらかに丸みを描くそのラインは、彼女の可憐さを際立たせるアクセントだと思える。
水の中で布越しに伝わってくる体温は、冷たさの中に確かな温もりを帯びていた。
「……っ」
彼女の身体が一瞬こわばる。それが自分の手の位置に対してなのか、波の冷たさなのか――どちらかは分からなかったが拒絶することもなくトレーナーに身を預けている。
彼の胸板に頭を寄せて、耳を胸に沿わせてまるで鼓動を聞いているかのよう。
「ごめん、つい……」
口にした謝罪に彼女も言葉は返さず、ただ小さくうなずいた。その頬は波に濡れているはずなのに、どこか紅をさしたように見えた。
ほんの数秒の出来事。けれど、胸の奥に小さな余韻の波紋を残してゆっくりと引いていった。
その後、旅館に着き滞在の手続きを済ませた。夕餉には獲れたての海の幸が惜しみなく供され、磯の香りと潮の甘みが口いっぱいに広がった。
食休みしたのちに体の奥底まで染み渡る湯に浸かり、波の音を聞きながら心身ともに満たされていった。
湯上がりの余熱がまだ肌に残る頃。薄く開けた障子の向こう、夜の帳がすっかり降りていた。
旅館の広縁に出ると潮風が静かに頬を撫でる。遠くで波の音が細く響き、耳に届いてはまた消えてゆく。
「……見えますね」
彼女がそっと指さした先、夜空の一点に光のつぼみが開いた。
ひと拍置いて、空気を押しひらくような低い音。ふわりと色を変えながら火の花が幾重にも咲いては、闇に吸い込まれていく。
二人並んで腰掛けた縁側。手の届くほど近くではないが、互いの存在を意識できる距離。
湯上がりの浴衣姿のグラスが髪を風になびかせていて、けれどその横顔は花火の明滅に照らされてどこか儚い。
「夏ですね」
ぽつりとつぶやいた彼女の声は、波音よりも静かだった。
トゥインクル・シリーズに居た頃は、夏はいつも合宿や遠征で隙間ひとつない予定表が当たり前になっていた。
灼けるような陽射しの下、汗をぬぐう間も惜しんでトレーニングに打ち込んだ日々。
あの頃は、少しでも気を抜けば誰かに追い抜かれるような焦燥と隣り合わせだった。
けれど今は、少しだけ歩みを緩めることも思えるようになった。瞬きの合間に海の色を見て、風の匂いを感じて、心がふっと和らぐ。
チームを組んで数多の競技に挑む同期もいれば、トゥインクル・シリーズで今なお担当と並走し続ける者もいる。新しいパートナーを見つけて、再び一から歩み始めた者もいる。
それぞれが、それぞれの場所で懸命に走っているのだ。
だけど――お互い、もう少しだけこの時間を大切にしていたかった。
ただの気晴らしではない、心がゆるやかに満ちていくようなひととき。
日々の喧騒では見落としてしまう小さな瞬間を、グラスとともに分かち合えるこの旅が思った以上に自分の中で深く根を張り始めていることに、今さらながら気づいていた。
花火が終わり、夜は深く静まっていた。障子越しに差し込む月明かりが畳の上に淡く影を落としている。
先ほどまで耳に届いていた賑やかな音もすっかり遠のき、旅館の部屋には湯の香と夜の気配だけが残っていた。
敷かれた布団がふたつ。これまでは泊まりがけの遠征や合宿でも部屋は分けていた。それが当たり前だと思っていた。
けれど、今夜は並んで敷かれている。躊躇いのない自然さとどこかくすぐったい距離感。
トレーナーがそっと布団に入ろうとした、その時だった。
「……そちらに行っても、いいですか?」
小さな声が、背中越しに届いた。振り返ると彼女が迷いがちにこちらを見つめていた。
月明かりに照らされたその頬にはわずかな赤みが差している。
不安と期待のあわいに立つような瞳に、彼は何も言わず、手を差し伸べた。
ためらいがちに布団をまたぐ気配。横に並ぶぬくもりが静かに肩先に触れる。言葉はなくても、それで十分だった。
外では波がゆるやかに岸を打っている。
部屋の中にはただ、ふたりの呼吸と夜の静けさだけがあった。並んで横になった布団の上で、彼はそっと腕を伸ばした。
まるで風に触れるようにグラスの肩先に触れる。彼女もまた、少し躊躇ったあと静かに身を寄せてくる。
抱き寄せたその体は驚くほど軽やかで、それでいて確かな温もりを帯びていた。
しなやかな体つきながら、芯の強さがある輪郭の中にも、やわらかく女の子らしい質感があり、繊細に鍛えられた身体は絹のように滑らかでなめらかだった。
腰から太ももにかけての、曲線のやさしさ。
すっと肌に触れるたび、目を閉じてもなお伝わってくる輪郭の美しさに彼は息を呑みそうになる。
けれどその一方で心のどこかに冷静な声がある。欲望のままに触れてしまえば、この夜が壊れてしまいそうな予感。
傷つけたくない――
ただ、それだけだった。
グラスは信頼を込めて、そっと身を預けている。そのぬくもりをただ静かに感じていたい。
肌が触れ合うたびに、互いの鼓動が少しずつ速まっていくのがわかる。でもそれを確かめ合う言葉はない。
だからこそ、この静けさが胸に沁みた。今夜だけは、心と心が寄り添うことで充分だった。
◆
車窓の外を夏の陽が静かに滑っていく。
まだ日は高いはずなのに、光はすこし丸くなっていてどこか懐かしさを孕んでいた。
夕方にはまだ遠い。けれど、遠くの景色が少しずつ金色に染まりはじめている。
静かな車内。グラスは窓側にもたれて、まぶたを落としていた。
微かに揺れる肩に、旅の疲れと安らぎが溶けている。
手のひらがそっと重なっている。それだけで胸があたたかくなるのが不思議だった。
指先に感じる体温は言葉よりも雄弁に、彼女の気持ちを伝えてくる。
握り返す力が少しずつゆるんでいく。眠りの入り口にいるのだと静かにわかった。
汗ばむでもなくひんやりするでもない、ちょうどいい温度の午後。
旅は終わったけれど、胸の奥にほんのりと残る余韻はきっとすぐには消えない。
トレーナーもまた、彼女の肩にもたれかかるようにまぶたを落とした。
音もなく流れる風景と、指先に触れるやわらかな温もりとを、ただ静かに感じながら――