繋がれし、愛しき蹄の記憶 ――この手で紡ぐ、君との軌跡   作:テクニクティクス

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会えないはずの人に、夢の中で何度も出会った。
忘れたくない声、思い出せる温もり。
夢の中だけでも、それでもよかった。だって――君だったから。


夢の奥に 君の声して

 

トウカイテイオーが笑って登校してきた。駆ける姿はまるで昨日のまま。はしゃいだ声、軽い足取り。

だけど――急遽生徒会に呼び出されて会長から不意に告げられたことが今でも信じられない。

 

「テイオー、君のトレーナーが事故に遭ったそうだ」

 

心臓がひとつ、打ち損ねた気がした。

 

「また明日な」って笑ったのは、ほんの半日前のこと。軽く手を振って彼は夕焼けの向こうへ歩いて行ったのに。

それが、最後の「また」になるなんて、誰が思う?

 

 

 

病室の空気は思っていたよりも静かだった。心電図の規則的な電子音だけが淡々と時間を刻んでいる。

ベッドの上のトレーナーは目を閉じている。眠っているようにしか見えない。

どこも血が滲んでいないし、包帯の下から呻く声が漏れてくるわけでもない。呼吸器がついているわけでもなかった。

 

「……本当に、寝てるだけじゃん」

 

ぽつりと、テイオーは呟いた。返事はない。当たり前だ。だけど、ふいに目を開けて「あ、来てたのか」なんて笑いながら起き上がってくる気がしてならなかった。

 

それからのテイオーはいつも通りだった。少なくとも、周囲にはそう見えた。

授業中はきちんとノートを取り、トレーニングでは以前と同じ熱量で走った。時にはマヤノやマックイーンに冗談も飛ばした。

けれど、誰も気づかないはずがなかった。笑い声の端に、ぽっかりとした空白があることに。

走るフォームのどこかに、焦点の合わない空回りがあることに。

本当はまだ「起き上がってくる」気がしている。だから泣けない。だから立ち止まれない。

放課後のトラック。日も落ちて誰もいない時間帯に一人で黙々と走るテイオーに生徒会長、シンボリルドルフは静かに歩み寄った。

 

「頑張っているな、テイオー」

 

その声に、彼女はピタリと足を止めた。

 

「でも……誰かのために頑張る時、人はふと、自分を置き去りにしてしまう」

 

テイオーの肩が、微かに揺れた。それでも俯きはせず、ただ前を向いたまま言った。

 

「ボク、止まったら……なんか全部、崩れちゃいそうで」

「止まることは、崩れることではないよ」

 

会長の声は、あくまで穏やかだった。

 

「ただ、君が“本当に走り出す”ための準備かもしれない」

 

テイオーはようやく目を閉じ、静かに息を吐いた。

その横顔に初めて“痛みを知っている強さ”の影が差す。

 

 

 

寮の部屋に戻ったテイオーは、着替えもせずにベッドに倒れ込んだ。見上げた天井は静かで、どこか遠かった。

ついうつらうつらしながら目を閉じた瞬間、意識がふっと沈んでいく。

音も、時間も、肌に触れる感覚さえも、溶けていった。

 

……そして、気づくと目の前に彼がいた。椅子に座ってこちらを見つつニコニコしている。

 

「な、なな、なんでトレーナーが!?」

 

驚いて跳ね上がると、彼は笑って首を振った。

 

「落ち着いて落ち着いて。これ、夢だから。テイオーの見てる夢」

「えっ」

「今、ベッドに倒れ込んでうとうとしてる最中だよ」

 

彼の声は、いつものように優しくて、何でもない日常の会話のようだった。けれど、それがどれほど久しぶりだったか胸が痛いほど思い出す。

 

「……うれしい、会えて」

 

小さく呟いたテイオーに、彼はふわっと笑って言った。

 

「そっか。じゃあ、こうして会えてよかった」

 

その声は本当に変わらなかった。

自分のことよりいつもこっちを気遣ってくれる、あの頃と同じ声。

胸の奥に張りつめていたものが、ふと緩む。

目の前の彼は夢だ。頭では分かっているのに、どこか現実よりも現実らしくて思わず手を伸ばしたくなる。

 

「あのね、伝えたいこと、いっぱいあったんだ」

「うん」

「でも、なんか……今はそれより……ただ、こうして話せるのが、嬉しくて……」

 

言葉にしようとすると、かえってうまく伝えられない。

けれど彼は何も言わずに頷いてくれて、その沈黙がまるで「分かってるよ」と言ってくれているようだった。

テイオーの胸の奥に、静かにあたたかい何かが灯った気がした。

 

「じゃあ最後に一言。ちゃんとお風呂には入って寝ようね♪」

 

その言葉を最後に、夢の中の彼はふわりと笑ったまま、ゆっくりと遠ざかっていった。

テイオーの頬に朝日が差し込む。まどろみの中にあった温もりは、まるで握った手からすり抜ける風のように指の隙間から消えていった。

まぶたを開けると、寮の天井が静かにそこにあった。

テイオーはしばらく動かなかった。ベッドの上で呼吸だけが静かに繰り返される。

あまりにも自然な夢だった。現実と区別がつかないほどに、声も仕草も、あの人そのままだった。

 

けれど、心のどこかが釈然としない。

 

自分が見たのは、ただの夢。会いたい気持ちが形になっただけの心の産物に過ぎない。

無理もない――これまでずっと、彼と歩調を合わせて走ってきた。苦しいときも、嬉しいときも、いつだってそばにいた。

そんな人がある日突然いなくなったのだ。

 

ショックに決まっている。夢にだって見る。それくらい、当たり前のことだ。

 

……それなのに、夢の中で言葉が出てこなかった。

伝えたいことはあんなにたくさんあったのに。涙のひとつも流れないまま、ただ笑って、ただ安心して、目が覚めてしまった。

声にならなかった気持ちが、胸の奥でくすぶっている。言いそびれた想いが朝の静けさの中でこだまする。ベッドに伏せたまま、テイオーは小さく息をついた。

その顔には、夢を見た後の名残がまだうっすらと残っていたが、同時にどうしようもない戸惑いと空白が滲んでいた。

 

 

 

 

 

 

それは一度きりの夢では終わらなかった。あれ以来、トレーナーは頻繁にテイオーの夢に現れるようになった。

最初のうちは戸惑いもあった。けれど回を重ねるうちに、その存在はあまりにも自然で――まるで本当に彼が夜のすき間を縫って会いにきてくれているような、そんな気さえしてくる。

だが、朝になればいつも一人だ。どれだけ話しても、笑い合っても、触れそうになっても――夢は夢。彼は、依然として病室のベッドで静かにまどろんだままだ。

 

(それなら、現実で目を覚ましてくれればいいのに)

 

ふとこぼれたその言葉に、自分でも驚くほどの苦みが混じっていた。

 

昼休みの生徒会室。いつもは静謐な空気が満ちるその空間の中で、テイオーはぽつりと夢のことを話した。

生徒会長席に座るシンボリルドルフは手にしていた書類から目を上げ、じっと彼女の言葉に耳を傾けていた。

 

「ここ最近ずっと夢の中でトレーナーと会って話してて……現実では会えないけど、それでも夢で会えるのは、うれしいんだ」

 

テイオーの声はどこか心許なげで、瞳は机の影を追いかけるように伏せられていた。

 

「でも、なんていうか……まるで、ほんとうにトレーナーが夢に入り込んできてるみたいで。ボクのこと、見てくれてるような気がして……」

 

その言葉に、ルドルフはふっと目を細めた。微かに笑みを浮かべ、ためらいがちに首を傾けるテイオーに向けて冗談めかした声でこう言った。

 

「まるで万葉集の世界だな」

 

テイオーが目をぱちくりと瞬かせる。会長は続ける。

 

「夢に出てくるのは、君が彼を想っているからだけじゃない。夢の中で会えるのは――今、彼が君を想っているからでもあるんだよ」

 

その声は落ち着いていて、どこまでも優しかった。

 

「今も、君のことを心に思っている。だから夢の中で君に会いに来る。それは、とても美しいことだ」

 

テイオーは黙ってその言葉を胸の内で繰り返した。それが救いだったのか、余計に胸を締めつけられたのか自分でもうまく分からない。

けれどその瞬間、夢で見たトレーナーのやわらかな笑顔がふっと脳裏に浮かび、彼女はわずかに唇を結んだ。

 

 

 

「ごめん、もう会えないかも」

 

その言葉は、夢の中にしてはあまりに生々しく、静かだった。

トレーナーの声はいつも通りだった。あたたかく、穏やかで、彼らしい優しさが滲んでいた。

けれどその言葉だけはテイオーの耳にうまく入ってこなかった。いや、入ってきたのに理解を拒んでいた。

 

「……え?」

 

思わず問い返す声も、夢の中ではやけに遠く感じられる。

 

「何だかさ、最近、意識がぼんやりすることが多くなってきて……だから、もしかしたら、もう……」

 

トレーナーは苦笑して、手のひらで後頭部をかく。あの仕草まで夢とは思えないほど自然だった。

 

「でも、大丈夫。テイオーなら、ちゃんとやっていけるよ。ずっと見てきたから。誰よりも、俺がそう思う」

 

それは励ましだった。自信を与える言葉だった。だけどテイオーの胸に突き刺さったのは、ただの不安と、やりきれなさだけだった。

 

「……大好きだよ、テイオー」

 

夢の終わりはあまりにも唐突だった。ふと風が吹いたように、光が差したように――

彼の姿は、あっけなく、夢の向こうへとかき消えていった。

 

そして次の瞬間。

 

テイオーは跳ね起きていた。

 

寝巻きのまま、靴を履くのももどかしく、上着だけを羽織って夜明け前の寮を飛び出した。

髪も整えず、目に涙の跡を残したまま。風が冷たく顔を打つのも気にならず、ただ一直線に走った。

足がもつれるほどの速さで、彼のもとへ。ベッドに伏したままの彼のもとへ。

病室のドアが開く音に驚いた看護師が何か声をかけたが、耳に入らない。テイオーは一気に駆け寄ると、ベッドにすがりついた。

 

「やだ……! やだよぉ……!」

 

胸の奥から搾り出すような声だった。

涙はあふれるのを止めてはくれなかった。

しゃくり上げながら、彼女は何度も彼の名前を呼んだ。

 

「ボクを、置いていかないで……!」

 

その小さな体が震えるたび、白いシーツに涙が落ちてにじんでいく。無言のまま、ベッドに横たわる彼は、まるでただ眠っているだけのようだった。

でも、先ほどの夢が、どうしても現実の終わりを予感させていた。

このまま、触れられない場所へ行ってしまうのではないか。二度と、その声を聞けなくなってしまうのではないか。

 

そんな恐怖がテイオーを押しつぶしていた。

 

――だが。

 

そのときだった。

 

ふいに、あたたかな指先が彼女の頬に触れた。

 

涙をなぞるように、やさしく、ゆっくりと。

 

「……泣きすぎだよ、テイオー」

 

その声は、夢で聞いたのと同じだった。けれど今度は、確かにこの世界で響いた。

 

テイオーの目が、大きく見開かれる。彼のまぶたが、わずかに揺れた。

胸の奥に詰まっていた何かが、音もなく崩れ落ちた。

それは、悲しみの底に射し込んだ、小さな奇跡の朝だった。

 

 

 

そのあとの病室は、それこそてんてこ舞いだった。

医師や看護師が慌ただしく出入りし、急な目覚めに沸き立つ気配がまるで夢の続きをなぞっているようで。

けれどそれは確かな現実で、ベッドに横たわっていたトレーナーがゆっくりと体を起こし、ぎこちなくも言葉を紡ぐ姿がそこにあった。

 

「……起きた、んだね」

 

涙の跡をぬぐう間もなく呟いたテイオーに彼はただ微笑んだ。

その表情はどこか照れくさそうで、だけどあたたかくて、夢で見たそれよりもずっとやさしかった。

 

彼の回復は決して一夜で成るものではなかった。長い眠りのせいで弱った筋肉は思うように動かず、まるで生まれたての小鹿のように足元はおぼつかない。

それを見たテイオーは「ぷぷっ、小鹿ちゃんみたい!」とからかって笑ってみせた。

けれどその笑顔には心からの安心と嬉しさが滲んでいた。

 

リハビリのメニューも、日々のプランも、一緒に考えた。

自身のトレーニングの合間には彼のウォーキングに併走した。

速度は違えど、また二人三脚で進めているのがうれしくてたまらなかった。

 

あれ以来、彼が夢に現れることはない。無理もない――今はもう、となりにいるのだから。

 

それでも、ふとしたときに思い出す。あの夜、あの涙、あの指先の温もり。

彼がいなくなるかもしれないと思ったあの瞬間が、今のぬくもりをより一層強く、確かなものに感じさせてくれる。

 

気づくと、自然と彼のことを考えている。

 

パートナー――それは確かにそう。けれど、それだけではきっと足りない。

走るたび、笑うたび、視線が交わるたびに、胸の奥で甘酸っぱいものがふわりと疼く。

この気持ちに、名前をつけるにはまだ少し照れくさいけれど。

それでも、心の中ではちゃんと知っている。

 

――大好きだよ、トレーナー。

 

そう、小さく心の中でつぶやくと、トレーナーがふと振り向いた。

 

「ん、どうかした?」

 

「ううん、なんでもないよ」

 

笑って首を振る。けれど、その頬はほんのり赤かった。

 

そして今日も、二人は並んで歩き出す。

ゆっくりと、けれど確かに前へ。

 

終わらない物語の、その続きを――これからも一緒に。

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