繋がれし、愛しき蹄の記憶 ――この手で紡ぐ、君との軌跡 作:テクニクティクス
栗東寮の玄関を開けた瞬間、肌を刺すような冷気が頬をなでた。冬の風は思っていた以上に鋭く、思わず肩をすくめる。
体温が高めなウマ娘といえども、寒いものは寒い。吐いた息が白く煙り、スカーレットは軽くため息をついて、コートの襟元を指で摘まんだ。
朝の空気は澄んでいて、空にはまだ淡い藍色が残っている。トレセン学園までの道のりを早足で歩こうとしたそのとき、前方に見覚えのある背中を見つけた。
――あら、今日も早いじゃない。
自然と足がそちらに向かう。
「おはよう。今日も早いわね」
そう声をかけると、彼は少しだけ振り返って、目を細めた。
「スカーレットだって、いつも早いじゃないか」
苦笑とも、からかいともつかないその返しに、彼女はむっとしたような、けれどどこか嬉しそうな表情を浮かべた。
彼――トレセン学園のサブトレーナーであり、スカーレットの幼馴染でもある少年は数少ない“飛び級スカウト”という異例の経歴を持つ。
ニシノフラワーのようなウマ娘の例はあれど、トレーナーとしては極めて珍しい。
にもかかわらず学業とトレーナー業を両立させ、その真摯な態度と柔軟な対応力は先輩トレーナーたちからも一目置かれている存在だった。
そんな彼の隣を歩くのはどうしてだろう。寒いはずの朝なのに、ほんの少しだけ心が温まる気がした。
会話を交わしながら並んで歩くうち、寮を出てからの距離もほどよく縮まり冬の朝にしては心地よい静けさが続いていた。
風の音と、遠くで鳴るチャイムのような鳥の声。足音だけがリズムを刻んでいる。
けれど、それはほんの一瞬で破られた。
ひゅう、と突風が吹いた。
乾いた落ち葉が巻き上げられ、強い風が通り抜ける。少し前を歩いていたスカーレットのスカートがふわりと大きく舞い上がった。
「きゃっ……!」
彼女は慌ててスカートを押さえたが時すでに遅し。ちらりと視界の端で彼の視線を感じ、咄嗟に振り返った。
「……見た?」
低く問い詰めるような声に、彼は困ったように笑いながらもあくまで率直に答えた。
「見たって言っても、ちゃんとスパッツ穿いてるじゃないか」
「そういう問題じゃないの!」
頬を染め、寒さ以上に火照った表情のまま、スカーレットは小さくぽかぽかと彼の胸元を叩いた。軽い力で、けれど気持ちだけはしっかりと。
――ずるい。何も気にしてない顔して。
小さなやり取りは、他人から見ればきっと微笑ましいものに映るのだろう。昔から変わらない、気の置けない幼馴染同士の距離感。
冗談を言い合って、自然に笑えて、余計な気遣いのいらない関係。
でもそれは、彼だけがそう思っていること。ダイワスカーレットはもう、子供の頃のような気持ちだけで彼と隣を歩いてはいなかった。
気づけばずっと、胸の奥に淡い何かを秘めていた。けれど、それを伝えることはなかった。言葉にすれば戻れなくなる気がして。今の関係が壊れてしまうのがなによりも怖かった。
そんなある日、彼がふと漏らした言葉が、胸を貫いた。
『好きな人ができたんだ』
そのときの声色も、表情も、妙に大人びていて。隠し事ができない彼が照れたように笑いながら話すのを、スカーレットは黙って聞いていた。
相手は学園でも有名な女性トレーナー。厳しくて冷静で、誰に対しても公平に接するような、まさに「敏腕」という言葉が似合う人。
歳も、立場も、常識的には釣り合っていない――そう彼は言ったけれど、それでもどうしても諦めきれなくて、駄目元で告白したら付き合えることになったのだという。
その話を聞いたときスカーレットは笑った。心から祝福しているように、できる限り明るく、努めて自然に。
けれど胸の奥で、なにかが音を立てて崩れた。
幼馴染という、最も近い関係に甘えたままずっと隣にいられるとどこかで思っていた自分が悔しかった。
あのとき、ほんの少し勇気を出せていたら。彼の一番になれていたのは他でもない自分だったかもしれないのに。
それは後悔というにはあまりに幼く、でも確かに苦い感情だった。
――凄く、痛い。
吐き出した白い息が、すぐに空気に溶けていく。彼はそんな彼女の心の内を何ひとつ知らないまま、今も昔と同じように隣にいてくれる。
その優しさが、たまらなく苦しかった。
◆
昼休みの中庭。静かな陽光が木々の間を縫うように差し込んで、ベンチの影を淡く伸ばしていた。喧騒から離れたその場所にひとり佇む背中があった。
スカーレットはすぐにそれが誰かを察した。背筋はいつも通っているのに、どこか沈んで見えるのは珍しい。彼がそんな顔をするのはよほどのことだ。
「……どうしたの? こんなところでひとりなんて」
そっと声をかけると、彼は顔を上げて少しばかり気まずそうに笑った。優しいのにどこか儚げなその表情に、スカーレットの胸が少しだけざわめいた。
「映画、行けなくなっちゃってさ。先輩が急用入っちゃったらしくて……今日が最終日だったのに、残念だよな」
そう言って視線を落とした彼の隣に、スカーレットは何も言わず腰を下ろした。風は冷たいけれど、日差しはどこか春の気配を含んでいて草木の匂いとともに胸の奥まで染み込んでくる。
「……一方的に好きなのかな、なんて思っちゃってさ。俺のことなんて、向こうはただの後輩くらいにしか思ってないかも」
小さくこぼれた言葉は、聞く者の胸に重たく響いた。
スカーレットは、彼がその人のためにどれだけ努力してきたかを知っている。
背伸びをしてでも追いつこうとして、悩んだり、勉強したり、無理をしてでも笑っていたことも。
「そんなことないわ」
すっと伸ばした手が、彼の肩に触れる。いつもは自信に満ちているスカーレットの声が、今は驚くほどやさしく、あたたかかった。
「私、見てたもの。あなたが、あの人に追いつこうと頑張ってるの。ちゃんと届いてるって信じていいわ」
彼は目を丸くして、それから視線をそらすように笑った。少しだけ、心の氷が溶けたような顔だった。
しばらくの沈黙のあと、彼がぽつりとつぶやく。
「……チケット、2枚あるんだ。せっかくだから行ってこいって言われてさ」
スカーレットがきょとんとした目で見返すと、彼は気恥ずかしそうに頭をかいた。
「なぁ、スカーレット。代わりに、一緒に行ってくれないか?」
一瞬、風が止んだような気がした。
その言葉に特別な意味があるわけじゃないとわかっている。けれど、それでも――彼のその言葉を、自分だけに向けられたものとして、少しだけ喜んでしまう自分がいた。
「……いいわよ。映画くらい、付き合ってあげる」
ほんの少しだけ頬を赤らめて、けれどスカーレットはどこまでも自然に、そう応じた。
この時間が特別なものになるかどうかは、まだわからない。
けれど、今日くらいは彼の隣でただの“幼馴染”じゃない自分でいたいと、心のどこかで願っていた。
映画館を出たあと、ふたりは人の少ない路地を抜けて、街角の落ち着いたカフェに入った。
午後の光が柔らかく差し込むテーブル席。並んで座るという距離感がどこか特別なようで、けれどそれを言葉にすることもできずスカーレットはそっとカップに唇をつけた。
「映画、思ったより良かったな。意外とああいう結末、嫌いじゃないかも」
彼の声はいつも通り軽やかで、映画の余韻とともに弾んでいる。
スカーレットも「ね、最後のあの伏線の回収、すごかったわよね」と笑いながら頷いた。
冗談も交えつつ次から次へと話が続いていく。映画の感想から他愛ない話題までぽんぽんと会話は流れて、ふたりの間に沈黙は訪れなかった。
でも――。
ふとしたとき、彼の口から先輩トレーナーの名前が、さも当然のようにこぼれた。
「……あの人ならああいう演出、絶対見抜いてたと思うな。前にさ、こういう映画一緒に見た時も……」
スカーレットの手がカップを持ったまま、止まる。
語られるエピソードはほんの些細なことだった。映画のワンシーンを見て思い出したような、何でもない出来事。
それなのに、彼の声には自然な親しみが混ざっていて――自分の知らない彼が、そこにいた。
知らない顔。知らない時間。知らないつながり。
胸の奥に、冷たいものがじんわりと広がっていく。
自分は今日、彼の隣にいる。それは偶然だったはずなのに、まるで代役のようにそこに座っているような気がしてきた。
「……一度、会ってみる?」
不意に、彼が言った。あの人、君のこと褒めてたよ、会ってみたいって――と、穏やかな声で。
その言葉が、スカーレットの中で張り詰めていた糸をぷつりと切った。
――会ってみる? 私が? どうして?
途端に胸の奥が熱くなった。焼けつくような感情が、喉までせり上がる。けれどそれは涙ではない。悔しさと怒り、そして寂しさがないまぜになったもの。
「……そういうの、嬉しくないわよ」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど低かった。けれど、止められなかった。
「今、隣にいるのは私よ? なのに、どうして他の女性の話なんて平気でできるの? “幼馴染だから”って、そういうの許されると思ってるの?」
彼の目が驚きに見開かれた。けれどスカーレットは目をそらさずに言葉を重ねた。
「……私は、彼女の“代わり”なんかじゃない。今日だって、ただの暇つぶしじゃない!」
そこまで言って、ようやくスカーレットは息をついた。感情の波に呑まれて、言葉が勝手にあふれていたことに気づく。
けれど、もう後戻りはできなかった。言ってしまったのだ。ずっと胸の奥にしまいこんでいたことを。
感情の濁流に押し流されるように、スカーレットは席を立った。彼の顔を見ていられなかった。自分でも、こんなに脆くて不器用な自分がいたことに戸惑っていた。
「ごめん……私、もう行く!」
それだけを振り絞るように言い残し、彼の反応も待たずにカフェを飛び出す。
小さなベルの音が後ろで鳴ったが、それが扉の音だったのか、胸のどこかで何かが壊れる音だったのかもう分からなかった。
冷たい空気が頬を刺す。昼下がりの優しい光は、いまやただの白く乾いた景色のように映った。
走るたび、心臓が痛い。けれど、それでも止まりたくなかった。
――大好きな人が、自分のすぐ隣で、知らない誰かに恋をしている。
笑いかける横顔も、映画を見て語り合った時間も、すべてが記憶として刻まれていくのに、そこに自分の立ち位置は曖昧なままだ。
幼い頃から、一緒にいて、同じ景色を見て、たくさんの思い出を重ねてきたはずなのに。
なのに――恋心だけが、わたしの中にだけ降り積もっていく。
気づいてくれない優しさが、今は、いちばん残酷だった。
ようやく栗東寮へと戻り、自室の扉を開けるとそこには同室のウオッカがいた。ベッドに腰をかけて雑誌を読んでいた彼女は顔を上げて軽く手を振る。
「おかえり、スカーレット。なんか顔、赤くないか?」
その言葉に答えることもできず、スカーレットはふらりとその場に足を止めた。ぼんやりと視界が滲む。身体が熱を持ち、頭がぐらりと揺れた。
そのまま、糸が切れたように崩れ落ちる。
「おいっ!? スカーレット!」
遠ざかっていくウオッカの声。背中に感じるのは、硬い床か、それとも誰かの腕かも分からない。
意識が薄れていくなか、身体の奥からもう一つの熱が浮かび上がる――それは、懐かしい記憶だった。
夢うつつの中、ぼんやりとした光景が蘇る。
まだ幼かった頃。陽だまりのような午後の時間。彼と手をつないで、芝生の上で寝転がった記憶。
『ずっと一緒にいようね』
小さな指と指が、くるりと絡まって、交わした約束。あのときの言葉は、たしかに心に残っていた。
――なのに、いつからだろう。
彼は私の傍にいて、だけど、私の“となり”じゃなくなっていた。
まぶたが重たい。けれど、薄く目を開けるとそこには見慣れた天井があった。栗東寮の自室。薄い光がカーテン越しに差し込み、外はもう夕方の気配を帯びていた。
意識がぼんやりと浮かび、寝具の温もりの中で自分の身体が微熱を帯びていることに気づく。
額には冷えたタオルがのせられていて、隣に置かれた水差しがやけに静かに見えた。
そして――視線を動かすと、すぐ傍に彼がいた。
椅子に腰かけ、心配そうな顔でこちらを覗き込んでいる。何か声をかけたそうに口元を動かしかけた彼に、スカーレットはかすれた声で言葉をこぼした。
「……寮内は、トレーナー、入っちゃいけないのよ?」
ほんの少し、意地のような気持ちも混じっていた。けれど彼は、それを責めることなく静かに笑った。
「ウオッカから、慌てたLANEが届いた。どうやら相当取り乱してたみたいでさ。俺も飛び出して……フジ先輩に頼み込んだら、“目をつぶるから静かにね”って、お目こぼしもらえた」
呆れたような、困ったような笑顔。その優しさに触れてしまった瞬間、張り詰めていた何かが緩んだ。
怒りとも悲しみともつかない、複雑な感情が胸の奥からあふれ出してくる。
ぽろり、と目じりから涙がこぼれた。
一滴、また一滴。止めようとしても止まらない。心の奥に積もっていた言葉にできない気持ちが、身体の中からすべて零れ落ちていく。
なぜ今、こんなに涙が出るのか、自分でもわからなかった。ただひとつだけはっきりしているのは、彼の前だから、泣けたのだということ。
やがて涙が落ち着いた頃、彼はそっと口を開いた。
「俺……どうしたらよかったんだろうな」
その声は、思いのほか低く、真剣だった。
「本当に鈍くてさ。スカーレットって、いつも元気で笑ってるから……まさか、そんなふうに悩んでたなんて、気づけなかった」
悔しげに握られた拳。彼のまなざしは、もう逃げていなかった。まっすぐに、真正面から彼女を見ていた。
その真摯さに、スカーレットは不意に――くすり、と笑った。
「大丈夫よ。それに……何かできるって、思った?」
微熱の残る身体を起こしながら、スカーレットは穏やかに言葉を紡いだ。
決して茶化すつもりではない。けれど、これ以上彼の心を縛りたくなかった。ただ少しだけ、軽く――そう願って。
彼は返事をしないまま、そっと立ち上がる。
窓の外では風が木の葉を揺らし、夕焼けに染まった空がゆっくりと夜に移り変わろうとしていた。
扉に手をかけ、もう行こうとしたその瞬間。
「……これっきり、スカーレットと話せないのかと思ったら、胸の奥が痛くなって、凄く寂しくなった。ちゃんと、ずっと、大事に思ってた」
その背中越しの言葉に、心がふっと波立つ。
スカーレットは小さく笑って、けれどその声は微かに震えていた。
「……何言ってんのよ。また明日も会えるんだから」
それは、ふたりがずっと交わしてきた言葉だった。幼いころ、遊び疲れて別れるとき、指を絡めながら何度も繰り返した何気ない約束。
――また明日。
彼は、にかっと笑って振り返り、そして扉の向こうへと歩いていった。足音が遠ざかり、気配が完全に消えた瞬間、もう抑えようのない何かが胸の奥で溢れ出した。
「……痛い」
かすれた声が、誰もいない部屋に落ちる。
胸の奥に刺さったままの棘。それは小さく、けれど確かに深く刺さって彼の姿を見るたびに、笑いかけるたびに、じわりと痛みをもたらす。
きっと、これから先もそうだろう。
たとえ道が分かれ、新たな誰かを好きになる日が来たとしても。
たとえ自分の人生に、別の光が差し込んだとしても。
彼だけは、変わらず心の中に在り続ける。
“永遠にわたしの、大切な人”
そんな想いを胸に抱えながら、スカーレットは静かに目を閉じた。もう涙は止まっていた。
だけど、涙が乾いたそのあとに残る痛みは、きっと彼を好きになった証なのだと、どこかで理解していた。
それでいい――そう思える自分がいる限り、明日もまた、笑って彼に会える気がした。