繋がれし、愛しき蹄の記憶 ――この手で紡ぐ、君との軌跡   作:テクニクティクス

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スポットライトのような月明かりの下。バレエと恋のステップが重なる夜。
踊るように始まったふたりの距離は、甘く、熱く、静かに近づいて──。


星降る夜にあなたと踊る、夢の余韻

 

梅雨晴れの午後、陽の光がガラス窓越しに差し込みトレーナー室の空気をほんのりと暖めていた。

書類の山にひと段落つけたところで、不意に扉がノックされた。

 

「トレーナーさん、次の休みの日、ちょっと一緒に行きたいところがあるっす」

 

少しだけ照れたように、それでいてどこか意志のこもった眼差しでウインバリアシオンがそう言った。

彼女の父は、世界的に名を知られたバレエダンサーだった。若き日には並み居る天才たちとしのぎを削り、やがてその頂点――プリンシパルへと上り詰めた人物だ。その父から、ある日こんな話があったという。

──いま注目されている新しい劇団がある。舞台装置も演出も大胆で、見るべきところが多い。もし興味があるなら、一度見ておくといい──と。

 

舞台。演劇。正直、トレーナーには縁遠い世界だった。

だが、彼女――シオンは違う。小さなころから父の背を追い、バレエや舞台に触れて育ってきた。

そんな彼女が「一緒に」と口にするのは、ただの誘いではないように思えた。自分の中にある“知らない世界”を、ほんの少しでも見てほしいという静かな願いのような。

 

たまには趣向を変えてみるのもいい。日々のルーティンを少し外れたところに、新しい発見があるかもしれない。

そしてそれは彼女との関係を、またひとつ違った光の中に見せてくれる気がした。

 

 

 

劇団の名前を検索バーに打ち込んだ時点で、トレーナーはほんのり嫌な予感がしていた。

案の定、その新進気鋭なる劇団――「星辰歌劇団」は今まさに口コミで火がついているらしく、公演タイトル『月下の茶会は秘密の始まり』も話題になっているようだった。

 

「……え、完売?」

「抽選終了っすか……?」

「追加公演も……立ち見だけって、しかも平日の昼じゃ無理っすよ……」

 

パソコンの前で2人並んで唸る姿は、ちょっとした敗北感に満ちていた。

新進気鋭とはいえ、舞台に目が肥えた層の間ではすでに有名な劇団らしく公演チケットはどこも瞬殺。

 

「どうするっすか?」

 

そう尋ねてきたウインバリアシオンの横顔には少しの落胆が混ざっていた。

そこでトレーナーは、静かにスマホを取り出す。手は迷わずとある人物の連絡先へ――。

 

「……もしもし? ちょっとさ、頼みがあるんだけど」

 

通話を終えたトレーナーは椅子から立ち上がり、シオンに軽く合図を送る。

 

「一緒に行こうか。――ちょっと、力を借りる」

 

案内された先は、別のトレーナー室。

ノックして扉を開けると、そこには待ち構えていたようにパソコンに向かうウマ娘と、その後ろでコーヒー片手に座っている見知った顔があった。

 

「待ってたよ、で、今回は何? 怪しい目覚まし時計? 感情色変換レンズ?」

 

軽口を叩いて手を挙げたのは、同期のトランセンドのトレーナーだ。

話してみると意外とウマが合い、トレセン学園のトレーナーとしての入学時期も近かったことからちょくちょく情報交換をしている仲だった。

主に、意味があるのか分からない奇妙なガジェットや、誰が使うんだそれと突っ込みたくなる通販商品などを紹介し合っている。

 

「実はこの劇団の公演チケットが欲しくてさ。ネットじゃどこも完売が多くて、なかなか見つからなくて……」

 

そう切り出すとトランセンドのトレーナーは頷きつつ、ふと笑みを浮かべた。

 

「ふむ、そうか。まあ、前に面白いガジェット教えてもらったしな。お返しといこう。……トラン、頼めるかな?」

「ほむり、了解だよトレちゃん」

 

呼びかけに応じるとトランセンドは即座に動き出した。凄まじい速度でキーボードを叩き始め、目にも止まらぬ勢いでウィンドウが開かれ次々に画面が切り替わっていく。

 

「な、何をしてるっすか……?」

「いや、分かんないけど……すごい勢いだな……」

 

トレーナーとバリアシオンがぽつりと漏らすも、隣で当たり前のようにそれを見守るトランのトレーナーは微動だにせず、目まぐるしく動くディスプレイを涼しい顔で見つめていた。

どうやらこの光景は彼にとって“いつものこと”らしい。

やがてトランセンドがふいに手を止め、こちらにくるりと振り返って手招きをした。

 

「んー……ちょっと郊外になっちゃうけど、ここの小さな券売店に若干流れてるのが残ってるかも」

 

と、地図付きの情報が表示された画面を指し示す。

 

「それ以外だと、現地の劇場に直接行って、キャンセル分や立ち見狙いで並ぶのが一番確実かなー。運次第だけど、ゼロではないって感じ」

 

完璧な回答、というわけではない。けれど、これまで霧の中だった状況に光が差したような、そんな手がかりは確かに得られた。

 

「ありがとう。マジで……助かったよ」

「本当に……ありがとうございます!」

 

頭を下げる二人に、トランセンドは「いえいえー」と軽く手を振り、トレーナーの友人も「またなんか面白いのあったら教えてくれよ」と笑う。

思いがけずハッカーまがいの作戦会議になったとはいえ、目的ははっきりした。

これからの行動の指針が立ったことで、胸のつかえが少し晴れたような気がする。

礼を言い、扉を閉めてトレーナー室を後にする頃には曇っていた気分もどこか軽くなっていた。

 

 

 

 

 

 

郊外の小さな券売店に向かうため、シオンは一人電車に揺られていた。

最寄り駅からさらに乗り継ぎ、地図を何度も確認しながら向かうのは決して楽な道のりではない。けれど不思議と足取りは軽かった。

車窓の外を流れる景色を眺めながら、ふとスマホに目を落とす。検索履歴に表示されていたのは公演タイトル『月下の茶会は秘密の始まり』。

気になってあらすじや口コミをいくつか読み込んでいく。

 

──序盤は少しとぼけた登場人物たちが繰り広げる、軽妙なコメディ。だが物語が進むにつれて舞台は深みを増し、終盤では舞踏会の主役であるふたりのプリンシパルが、情熱的な恋愛模様の中で心を重ねていくという。

 

レビュー欄は好意的な感想が多く、表現力のある踊りと照明演出、そして音楽の調和に観客が息を呑む瞬間があると語られていた。

画面を閉じた後も、シオンの胸にはじんわりとあたたかなものが残った。

 

──きっと、あの人も気に入ってくれると思う。

 

バレエや演劇の世界は、決して万人受けするわけではない。速さや強さを競うレースのような明快さはないし、派手な勝敗があるわけでもない。

それでも、彼女にとってはずっと身近にあったものだった。父が舞い、仲間と競い、そして情熱を注いできた世界。たとえ台詞がなくとも踊りだけで伝わる感情があることを彼女は知っていた。

レースで勝つこと。1着になること。それも大切で、譲れないものではある。

でも同じくらい、自分の大事にしている世界に少しでも興味を持ってもらえたら――そんな願いも偽らざる本音だった。

電車のアナウンスが響く。目的地の駅が近づいてきた。

シオンは立ち上がり、小さく息を吸った。胸の奥に小さな緊張と高揚感が同居している。まるでレース前にゲートへ向かうときのような、そんな感覚だった。

 

地図を頼りにたどり着いたその券売店は、駅から少し離れた住宅街の角にぽつんと佇んでいた。

昔ながらの木製の看板と、窓口越しにやりとりをする小さなカウンター。飾り気はないが近所の人には長年親しまれているらしい風情があった。

シオンは窓口にそっと近づき、控えめに声をかける。

 

「すみません。『月下の茶会は秘密の始まり』のチケット、まだ……残ってたりしますか?」

 

奥から出てきた年配の女性が記録簿をぱらぱらとめくり、申し訳なさそうな表情を浮かべる。

 

「ああ、ごめんなさいねぇ。今朝、最後の分が出ちゃったのよ。ちょっとだけ流れてきてたんだけど、やっぱり人気の公演で……」

 

その言葉に、シオンはふっと目を伏せた。

電車を乗り継ぎここまで来た道のりを思えば、落胆がなかったわけではない。むしろ、どこかで「自分が動けば何とかなる」と思っていた分、静かに胸が痛んだ。

 

「いえ、ありがとうございます。わざわざ調べてくださって」

 

そう微笑んで、深く頭を下げた。誰のせいでもない。遅かっただけ。ただ、それだけのこと。

窓口を離れ、静かな通りに出る。午後の陽射しがじわりと照り返しアスファルトの上に彼女の影を長く落としていた。

足取りは、思っていたほど重くはなかった。むしろ、この想いはちゃんと形にして届けたい。そう強く思った。

 

――なら、あとはトレーナーさんの方に、少しだけ期待してもいいだろうか。

 

彼も、今頃劇場の前で同じように頑張ってくれているはず。チケットが取れなかったとしても、その気持ちだけでもきっと自分にとっては大切なものになる。

ポケットの中、スマホがわずかに震えた。画面を見るとトレーナーからの短いメッセージが届いていた。

 

──「そっちはどうだった?」──

 

少しだけ、笑ってしまった。同じ気持ちで、向こうもきっと自分のことを案じてくれている。

シオンは指先で画面をタップし返事を打ち始めた。

 

 

 

劇場前は人の波でごった返していた。休日の午後、開演を待つ観客たちで入口周辺は混雑し、立ち見席を求める人々の列がずらりと伸びている。

その一角、列に並ぶトレーナーを見つけてシオンはほっと息を吐いた。

電車移動と落胆の疲れが滲んでいたが、その背を見た瞬間に胸の中に灯がともるような気がした。

 

「トレーナーさん……」

「こっちも、立ち見狙いで並んでみたけど……あんまり動いてないんだよな」

 

小さく会話を交わしながら、二人でしばらく様子を伺っていたがやがて係員が列の先頭に出てきて一言。

 

「立ち見席もすべて完売となりました。本日のチケットは、すべて終了です」

 

どよめきとあきらめのため息が、列全体に広がっていく。

トレーナーも思わず肩をすくめた。

 

「さて、どうするか……」

 

そんな彼の言葉に応える前に、けたたましい声が響いた。

 

「おーい、立ち見逃した兄ちゃん姉ちゃん! チケットあるよー! 二枚! 安くしとくよ!」

 

声のする方に視線を向けると、劇場から少し離れた歩道の端に目立つ格好の男たちがいた。

いわゆるダフ屋。転売目的でチケットを買い込みここぞとばかりに価格を釣り上げて売りさばく連中だ。

 

「これ、正規価格の……まあ5倍ってとこかな! ね、お得お得!」

 

強引な呼び込みに人の波がほんの少し揺れる。ちらりと足を止める人もいれば、無言で立ち去る人もいた。

トレーナーが視線を向けるよりも早く、シオンはきっぱりと首を振った。

 

「……だめっす」

 

その声は静かだったが、どこか凛としていた。

確かに、ここで手を伸ばせば舞台は観られる。

さっきまでの疲労も、諦めの気配も、吹き飛ばすような甘い誘惑。

でも、シオンはそれを拒んだ。

 

「無理やり、あんな風にして見たって……まっすぐ芝居を受け取ることなんて、できないっすよ」

 

その言葉に嘘はなかった。

演じる側も、それを受け取る観客も、舞台というひとつの空間を一緒に作る存在だと彼女は知っている。

父の背中を見てきたからこそ、誠実でありたいと思った。

熱意で作られた世界を、そんな風に歪んだ方法で手に入れたくはなかった。

 

――芝居は、正面から向き合いたい。

 

それが、彼女の譲れない美学だった。

 

沈む夕陽が劇場の屋根の上を赤く染めていた。

観られなかった悔しさは、確かに残っている。だけど、それでも胸を張ってここまで来た自分を肯定できる気がした。

ため息混じりに劇場前の広場を離れかけたその時だった。

 

「やっほー。あれ、二人ともどうしたの? そんなにしょぼくれて」

 

のんびりとした口調が背後から届いた。振り向けば、日差しの中からトランセンドがひょこっと顔を出していた。

 

「……トラン?」

「えっ、なんでここに……?」とシオンも驚きの声を漏らす。

 

彼女はいつも通りな笑みを浮かべながら、手に何かの封筒を持っていた。

 

「いやさー、たまたま近くの量販店に新しいSSDの展示見に来ててさ。で、キミたちが劇場前でうなだれてるの見えたから、もしかして……と思って」

「それは、ある意味すごい偶然……」

 

トレーナーが苦笑まじりに言うと、トランセンドは封筒をふわりと掲げた。

 

「んでさ、これ。今日のペアチケット。使う?」

 

二人が目を見開く。

 

「えっ……!?」

「今日の……!? この公演っすよね!?」

「そうそう、『月下の茶会は秘密の始まり』。前にさ、ガジェット使用感アンケート出したらさ、なんか抽選で当たっちゃって。

 正直、ウチら芝居とか全然興味なくて放置してたんだけど、よく見たら今日だった」

「今日……最終日ってことは……」

「そーゆーこと。いやー、ほんと偶然ってあるんだねぇ~」

 

まるでお菓子でも渡すみたいに、軽い手つきで封筒ごとチケットを差し出してくる。

 

「で、せっかくだし君たちに。興味ある方が行った方がいいじゃん。ウチとトレちゃんは、このあと自動湿度調整ネッククーラーの話でカフェ行くから」

 

その言葉にシオンの瞳がゆっくりと見開かれ、やがて柔らかな笑みが広がった。

 

「……本当に、いいんすか?」

「うんうん。なんか、あげた方が運気も上がりそうだし。人助けっていいよねー」

 

そう言ってトランセンドは手を振ると、どこか気の抜けた歩調で去っていった。その背にトレーナーがぽつりと呟く。

 

「……まったく、どこまで掴みどころないんだか」

 

けれど、手の中に残された二枚のチケットはまぎれもない本物だった。

偶然と、奇妙な縁に救われた形だが――今、目の前にあるこの機会を無駄にはしたくなかった。

シオンは静かにうなずいた。

 

「行きましょう。トレーナーさん」

 

その声には、はっきりとした喜びと少しの感謝がにじんでいた。

 

 

 

 

夜の街は、どこか舞台の照明がそのまま広がったように静かで幻想的だった。

劇場を後にし、学園の寮へと向かう帰り道。まだ胸の奥では、あの舞台の余韻が消えずにぽうっと灯り続けている。

 

ふと、シオンの足が止まった。そして気づけば、自然と一歩、二歩──バレエのステップを踏んでいた。

軽やかに、くるりとターン。踵が、舗道をさらりと撫でるように滑る。

 

「シオン……?」

 

不思議そうに声をかけるトレーナー。でも彼女はその声に答えるよりも先に、くすっと笑って片手を伸ばした。

 

「……プリンシパルが、目の前にいたら……踊りたくなっちゃった、っす」

 

その一言が、まるで魔法の呪文だった。トレーナーの手が自然と彼女の手を取る。リードするのはトレーナーではなかった。シオンが、彼を導いた。

夜の公園。月明かりの下、誰もいない小さな広場。ただふたりだけの、即興の舞踏会が始まる。

舞台で見たプリンシパルのステップを真似て、シオンはふわりと跳ね、回り込む。トレーナーもぎこちなくも必死に彼女の動きを追い、笑い声が混じる。

ふたりのステップがぴたりと重なった瞬間、音もなく時が止まったようだった。

交わした視線は、もう逸らすことなどできなくて。互いの瞳の奥に、息を呑むほど鮮やかに映るのは夜空でも星でもない──ただ、相手だけ。

 

トレーナーの手が、そっと彼女の背にまわる。その腕の内側に引き寄せられたとき、ふわりと甘い眩暈がした。

夜風に揺れる前髪が触れ合い、吐息が絡まる。ほんの少し傾いた顔が、静かに、ゆっくりと……近づいてきて。

 

──だめ。

──でも……もう、抗えない。

 

ただ、触れるだけのはずだった。それなのに、唇が重なった瞬間から、まるで身体の奥が溶けていくようなじんわりとした甘い眩暈がシオンを包み込んだ。

ほんの一瞬のはずだったのに。気づけば、その距離はさらに深く、もっと近く、もっと──。

彼の唇がそっと、ゆっくりと角度を変えてふたたび重なる。ただの触れ合いではなく、互いの熱を確かめるみたいにゆっくりと、でも抗えないほど自然に。

はじめは戸惑いもあった。けれど、彼の指先がそっと頬に触れると、それだけで心のどこかの糸がふっと緩んだ。抵抗なんて、もうとっくに消えていた。

わずかに開いた唇の隙間に、暖かい吐息が流れ込む。そのまま、導かれるように。ふわりと絡まる柔らかな感触。互いの熱が、ゆっくりと、でも確かに深く交わっていく。

 

──ああ……。

 

呼吸が絡まり、胸の奥がきゅっと締めつけられる。触れ合うだけじゃ、もう足りない。もっと知りたい。もっと近づきたい。そんな衝動が、無意識のうちに彼女の指先にも宿っていた。

彼のシャツの裾をそっと引き寄せる。彼の手は彼女の腰を、まるで大切なものを包むように優しく、でも決して逃がさない強さで抱き込む。

唇が離れては、また求めるように触れ合う。微かに湿った音さえも、この夜の静けさの中ではまるで誰にも邪魔されない秘密の旋律。

 

視界が揺れる。月明かりさえ滲んで見えるほどに、頭の中が甘い熱でいっぱいになる。

まるで深い海の底へと沈んでいくように、感覚がふわふわと遠のき、ただ相手の存在だけが鮮やかに心の奥深くへ染み込んでいく。

そして──自然と、そう、ごく自然と。シオンの唇がわずかに開き、戸惑いがちに……けれど確かに、柔らかな舌先がそっと彼の唇の隙間を探った。

ほんの僅かな勇気。不意のその熱に、彼は一瞬だけ身を強張らせる。だが次の瞬間には──驚きよりも、むしろ安堵するように、包み込むような温もりで、シオンのその小さな“侵入者”を優しく迎え入れていた。

 

「……ふぁ……っ、ん……ん……」

 

熱と熱が絡まり、呼吸の隙間に甘い音が微かに溶け込む。互いの吐息がとろけ合い、甘い蜜が唇の隙間を行き来するたび、胸の奥がきゅうっと締めつけられていく。

軽く触れ合うだけのはずだったのに──今は、もう。どちらが求めて、どちらが応えたのか、そんな境界さえわからない

 

──苦しいのに、苦しくない。

──むしろ、永遠にこのままでいたい……。

 

やがて、どちらともなく名残惜しそうに唇がゆっくりと離れる。そこに残ったのは、熱い吐息と、触れ合ったままの手の温もりだけ。

 

「……ぁ……っ……」

 

何かを言葉にしようとしたけれど、声にならない。頬どころか、胸の奥まで真っ赤に燃えてしまったようだった。

けれど、彼の視線は穏やかで、優しくて。その目に映る自分の姿が、どうしようもなく愛しくて、また恥ずかしくて。

 

「……すっごく……ずるいっすよ、トレーナーさん……」

 

そう言いながら、けれどシオンは微笑まずにはいられなかった。頬の熱は、まだ引かない。

けれど、夜風がそっと髪を撫でると、心の奥にぽつりと灯ったその熱は、不思議なくらい心地よく変わっていった。

ふと顔を上げれば、トレーナーが少しだけ困ったように笑っている。でもその笑顔がなんだか……あの舞台のラストシーンより、ずっと眩しくて。

 

「……ったく……ずるいのは、そっちだろ」

 

なんて、不意打ちみたいに言われたものだから。シオンは「あ、う、えっと……っ!」と訳の分からない声を漏らして、思わず踵を返して駆け出してしまった。

 

「お、お先っすーっ!!」

 

靴音がコツコツと舗道を叩く。その走り方は、なんとなくバレエのステップが混ざっていて──軽やかで、まるで踊っているみたい。

 

「おいおい、待てって! 寮はそっちじゃ──って、逆だ逆!」

 

後ろから聞こえるトレーナーの慌てた声に、シオンはぴたりと立ち止まって、ばつが悪そうに振り返る。

 

「……ち、ちょっと間違えただけっす!」

 

けれど、頬をふくらませたままのその顔は、どう見たって誤魔化しきれていなくて。そんなやりとりさえ、なんだかたまらなく楽しい。

ふたり並んで歩き出した道の先。夜空には、きらきらと瞬く星がまるでスポットライトみたいに輝いていた。

 

──うん。なんだか、これからの毎日が……ちょっとだけ楽しみになってきたっす。

 

そんな風に、シオンはこっそりと思いながら、小さく小さく鼻歌を紡いだ。

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