灰の神は、演じきった   作:ククルス

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滝本さんの声は、葛城ミサトで脳内再生して下さい。
多分読みやすいと思います。


幕間:滝本 梨沙の苦労人日誌

 

 

【一日目-天気:雨天】

 

――午前9時前。

 

 

普段よりも30分早く、滝本 梨沙は編集スタジオに到着していた。まだ誰も来ていない。

室内には機材の冷たい匂いと、未整理のコンテ資料が残されて、昨晩の熱が微かに残っている。

セミロングの髪を揺らして自動販売機に向かい、苦味の強いブラック缶コーヒーを買う。

プルタブを開ける音が、妙に響いた。

 

「……ああ、絶対、何か起きる日だわ。こういう朝は」

 

缶を握りながら呟く。

それから数分後、若林 紗綾がスタジオに入ってくる。

彼女の表情には、どこか決意と不安が入り混じった気配があった。

 

「おはようございます、滝本さん……。あの、ちょっと、相談が……」

「あー、はいはい。やっぱり来た。そういう顔してる」

 

座りなさい、とソファを指さす。

若林は手に抱えていた紙束を広げた。

 

「脚本の再改稿、させてください。どうしても……あのラスト、別離じゃ終われない気がして。

 白栞には、歩き出してほしいんです。蓮見と、手を取って……」

「ちょっち待って……トゥルーエンドに、書き換えるってことね?」

 

こめかみを押さえながら、缶コーヒーをひとくち。

 

「三神さんは?」

「……賛成です。あの二人の“今”を見て、あのままじゃ終われないって」

「西園ちゃんは?」

「どっちでもいいそうです。『画になれば正解』って」

 

私は腕を組んで、天井を見上げた。

視界に移るのはジプトーンの白い天井板だ、それ以外の何物でもない。

それははっきり言って、『再撮影とはプロデューサーを殺す呪文である』というアピールのつもりだった。

 

「二人の“別離”を元に編集してたのに、

 いまさら“結ばれる”って筋にするとなると……再編集だけじゃ済まないわよ」

「わかってます。だから、再撮影の必要なシーンを精査して、改めてスケジュール組み直して……」

「ふふっ、ああ、やってらんない」

 

自嘲気味に笑ってみせるが、手元のスケジュール帳はすでにページが開かれていた。

そりゃあ私だって、二人の若者が頑張って描いた映画。

お涙頂戴の展開が嫌いって訳じゃないけれど、若者なら未来があるハッピーエンドの方が好きだ。

 

ましてや、普段なら絶対言わないであろう無茶を若林ちゃんがお願いしている。

彼女の事をよく理解しているという自負がある。

 

「若林ちゃん。あなた、覚悟ある?」

「……はい」

「じゃあ、こっちは覚悟の上に地獄を被せてやるわ。

 今日中に、再撮影の候補シーンを全部出して……私は製作委員会を説得してくるわ。

 地獄の口を開けに、いざ行ってまいります」

 

そう言いながら、滝本はスマホを手に取った。

すでに苦味の残る缶の中身はほとんど空だ。

眉間をほぐすようにひとつ深呼吸し、

──誰かのわがままが、誰かの未来になるなら、と。

 

「──まったく、若い子の感情ってのは、いつもプロデューサーに重い十字架を背負わせるのよね……地獄の門はノックしたら負けだってのに」

 

その背中に、若林は深く頭を下げた。

そして、そのまま滝本は資料を抱えてスタジオを出る。外は、空気が乾いていて、やけに空が高く見えた。

その時、彼女はふと、思ったのだった。

 

──この映画は、きっとまだ終わらない。

 

まだ、続いていく。あの“映ってしまった感情”の続きを、私たちは掴みにいくのだと。

 

 

 

【二日目-天気:曇天】

 

──午前10時過ぎ。

 

 

朝イチで橋本駅。

山に囲まれたあの土地を離れて、南海高野線で“なんば”へ。早朝ラッシュの気配だけが鼻につく。

そこから地下鉄、そして新大阪。気づけば三回乗り換え、片道だけで約15,000円也。

──もちろん、交通費はまだ自腹。

どこぞの経理担当が「あとで精算しますぅ〜」って言ってたけど、

あれ、十二月分の精算、も一月上旬じゃないの。やってられないわ!

 

新幹線のぞみに滑り込み、二時間半。

「ゆっくり寝てください」って言われたけど、寝られるかっての。

どう“通す”か、どう“守る”か、頭の中はそのことでいっぱいだ。

 

東京に着いて、JRに飛び乗って新宿。

構内のアナウンスすら妙に冷たく聞こえるのは、きっと気のせいじゃない。

 

それでも私は歩く。

私の現場から持ち帰った“火種”を、ここで絶やすわけにはいかないから。

たとえそれが、何十人分の反対を押し切ってでも。

 

 

私が若林ちゃんから相談を受けて、すぐに済ませたのはアポイントメントだった。

こういうのは立場の上下はあまり関係なく、所属が違えば社長は勿論、

課長クラスでも当日直接は断られる。

『何日の何時に、何々の用件で時間をください』と伝えなければ誰だって困る、私だって困る。

本当だったら、今日中に約束も渋られたし……まぁ、当然よね。

こういう交渉には段取りが重要で、ゴルフや付き合いは決して道楽じゃないのよ。

同性同士で好きでもないのに呑み付き合い、太鼓持ちしてなんて誰がしたくするものか。

 

「あぁ……飲みたい。もう接待でもいいから死ぬほど飲みたい、でも請求書は増えるわよね」

 

ただ、時間の猶予がとにかく無かった。

PVはもう出してしまったし、ほとんどのシーンは撮影終了したこともあり

一部に至っては切り上げ準備に入っていた。

特に問題なのは、役者や製作会社には関係のない外部契約(車両・料理・警備など)の

スタッフたちとの契約期間の問題にあって、予算だって切り詰めて回しているのだ。

別に潤沢にある訳じゃないし、余れば良いという簡単な話でもない。

 

スタッフは演者や私たち全体で約80人以上。

それだけの関係者が、たった一カ月ロケ地に詰めるだけでも馬鹿みたいな金が飛んでいく。

そもそも一カ月というのも、あの三神監督が“自然な画”を重視したものだから

撮影可能な時間が限られることを鑑みれば、巻いている方だったのに!

 

撮影が上手くいきません、既定の日程で進みませんので追加で予算を下さい……とかなら、

怒られながらも頭を下げて、解決点を出しながら……まぁ、まだやり様はある。

 

 

「……ああ、やっぱり今日も地獄だったわね……」

 

重い足取りでエレベーターを降り、手に抱えた資料を胸にぎゅっと押し当てながら、

私は二度、三度と深呼吸を繰り返した。

映画プロデューサーになんてなるもんじゃなかった。

 

お世話になった先輩に推されるまま『お前には、才能がある』だとか

『プロデューサーってのは、人を選んで指揮者のように動かし、指示を出すんだ』だなんて

ヨイショされて、まぁ都合の良いところだけ聞けば何とも格好のいい話よね。

 

企画立案から原作選定、予算策定から可能な限り資金調達をするために方々で頭を下げ。

スタッフ・キャストの選定を監督との共同しながら選びつつ、受けて貰えるように頭を下げ。

制作スケジュールと全体進行の管理をしつつ、予算超過やトラブル対応で頭を下げ。

配給・販売の交渉と実行では劇場での公開やストリーミングなどの契約交渉に頭を下げ。

 

収支の管理・配当では出資者へのリターン設計を、

今回なら製作委員会方式なので配当構造を組んだ。

ここでも失敗すれば、詰め腹を切って補填だのなんだでやっぱり頭を下げる。

 

頭を下げない仕事は、広報・宣伝・興行戦略くらい……いえ、

こっちも広告費で頭を下げる時があるわね。

夢がないし、トラブルばっかりだし、製作中はなんで始めてしまっただろって考えてばかり

。

夢を売る仕事は、時に現実より重たい。

 

これから始まるのは、製作委員会との“交渉”である。戦である。

裁判であり、場合によっては処刑台でもある。

 

それでも。

 

「やるしか、ないっしょ。──やるって言ったもん」

 

昨日、若林ちゃんにあんな風に託された以上は、背中を預かってしまった以上は。

覚悟を決めて、もう進むしかない。

 

会議室。暖房がある筈だけど、肌寒い。

すでに数名の出資元関係者や企業広報担当者たちが、

私の説明資料に目を通しながら、ざわついた小声を交わしていた。

 

座る位置ひとつで、どこが“味方”か“敵”かがわかる。

私は、どこかで見たような広告代理店のプロデューサーの目線を感じながら、

正面のスクリーンにプレゼン資料を投影する。

 

「──ということで、脚本は一部改稿を行いまして。

 終盤における結末が、従来の“別離”から“再会”と“希望”を描くものに変更されます」

 

静寂が訪れた。スクリーンには改稿後のシナリオ構成表と、再撮影予定のシーンリスト。

一拍置いて、最初に言葉を放ったのは、映像配信プラットフォームを運営する企業の、

アジア統括部長の藤岡さん。彼女の表情は困惑の色が見て取れた。

 

「滝本さん。あの、結末を変えるって、そう簡単なことじゃありませんよね?

 すでに予算は終盤調整段階の筈ですが……」

「ええ。ですので今回は、部分的な再撮影と再構成により、最低限の上乗せで済ませます」

 

「つまり、予算の追加を要求されるということで?」

 

笑ってごまかす余裕もなかった。

自分の喉が鳴る音すらも聞こえそうな沈黙の中で、真っ直ぐに言った。

 

「──はい。お願いします。これは、“仕方なく”ではなく、“絶対に必要な再構成”です」

 

一部の者は眉をひそめ、反対に、ある者は腕を組みながら興味深そうに頷く。

 

「ふむ……しかし、ハッピーエンドというのは陳腐にもなりかねませんよ?」

「わかっております。ですが、これは“若者が選び取ったハッピーエンド”です。

 脚本家も、監督も、演者たちも、自分たちの中で見つけてしまった“結末の先”を──

 それを、封じたままでは、本当に伝えたかったものが伝わりません」

 

「……」

 

「予告PVの反響はご覧になったかと思います。

 あれは偶然ですが、確信でもあります。

 “映ってしまった感情”が、届いてしまった今、それに見合う“物語”を差し出すのが誠意ではないでしょうか?」

 

その瞬間、会議室の扉が開き、ひとりの男が足早に入ってきた。

 

「遅れて申し訳ない」

 

私が目を向けると、姿勢の良い、背の高い男がラップトップを携え席に着く。

メディアグループとスポンサー代表・梶原 昇だ。

 

「今の説明、概要は聞いていました。続けてください」

 

会議室に一種の緊張が走る。誰もがこの男の一声で空気が変わるのを知っているからだ。

私は一瞬だけ迷い、そして――一歩踏み出すように声を上げた。

 

「梶原さん。私たちは、演者に誠実でありたい。観客に嘘をつきたくない。

 たとえ物語の終わりが予定と変わっても、それが“彼らが見つけた真実”であるならば、

 私たちは受け入れるべきだと思います」

 

梶原は黙って彼女を見つめていた。

 

数秒の沈黙ののち、ぽつりと呟く。

 

「……編集された結末に、感動はあっても、納得はない。

 だが、彼らが選び取ったものなら……確かに、それは“生”だ」

 

そして、椅子を引き、背を預けながら笑った。

 

「──私の目に映るものが、世間に届くなら。いいでしょう、通してください」

 

その一言で、会議室の空気が一変する。

 

各出資企業が次々と追従し始める。

議事録係の社員が、滝本の言葉を速記しながら、「承認」欄にチェックを入れていく。

最終的に、製作委員会は「追加予算・再撮影を条件付きで承認」と決議。

 

地獄の門を叩き、無事に帰還した女の勝利だった。

 

午後8時、編集スタジオに戻ってきた私は、入り口のドアを閉めると

扉にもたれかかるようにして立ち尽くした。

若林ちゃんと三神さん、西園ちゃんが手を止めて振り返る。

 

「──ただいま。無事、地獄から帰ってきたわよ」

 

若林ちゃんが立ち上がり、心底ほっとした顔で「ありがとうございます!」と頭を下げる。

私は手帳を掲げて、にかっと笑った。

 

「さ、戦は勝った! でも次は再スケジュールよ! 出演者の再拘束、新しい契約書の締結、

 ……あー、飲みたい!! 明日は地獄の再営業祭りだわ、もう!!」

「まぁ、俺としては頑張ってくれとしか言えないな」

「私なら、死んでも嫌だが。プロデューサーのそういうところは尊敬するね」

 

どいつもこいつも、他人事のように言いよってからに!

 

 

 

【三日目-天気:曇りのち晴れ】

 

──午前11時過ぎ。

 

 

私は、スケジュール管理ソフトの画面とにらめっこしながら、ため息を一つ。

「再撮影をする」という決定が下された翌朝から始まったのは──“地獄の再営業祭り”であった。

 

出演者へのスケジュール確認、再拘束。既に一部撤収済みの現場スタッフの再手配。

外注契約のスタッフに機材も延長契約をしなくちゃならないわね。

こっちは依頼する側だから気は楽だけど、予定外になると契約料は割高になりがち。

あとは現在のロケ地の使用許可延長の手続きとかもあったわ。

 

すべてが綱渡りの再調整だった。

 

「……まったく、再撮影ってのは、時間と予算が倍じゃ効かないって、

 誰か教科書に書いといてくれないかしら」

 

電話を終えて、やっと一息つくために缶コーヒーを開ける。

今日に入って三本目だった。

 

午後の打ち合わせまでの時間で、私は改めて「再撮影スケジュール案」の最終確認をしていた。

当然、全員が一斉に揃う日などあるはずもなく、

それぞれのタレント事務所との交渉や調整が必要だった。

 

午後2時──まずは、影橋芸能へ足を運ぶ。

対応に現れたのは、かつて一世を風靡した名女優にして、

現在は芸能事務所《影橋プロダクション》の代表取締役社長──影橋 小百合。

 

「今回の件、北里からある程度は聞いております。……鈴のこと、よろしくお願いします」

「はい、誠心誠意。追加撮影について、必要な契約書はこちらになります」

 

こちらには若林ちゃんの話を引き受けてから、再撮影の可能性があると

鈴ちゃんのマネージャーでもある北里さんに事の経緯を、洗いざらいぶちまけて頼み込んだ。

 

交渉もなにもない、そんな情けない私の白旗を見てどう思ったのか、くすくすと上品に笑いながらも『大丈夫ですよ。鈴さん、最近は楽しそうなので歓迎ですよ』と簡単に話が通ってしまったのだ。

小百合はサインしながら、ふと私を見て小さく笑う。

 

「娘が、楽しそうにしているのがわかるわ。

 最近、少しだけメッセージもくれてまして……母として、とても嬉しいんです」

「若輩者で部外者の私が何を言うのかとも思われるかもしれませんが、

 撮影を通して、親子の関係が……いえ、違いますね。

 鈴ちゃんの可能性が少しでも開けてくれたなら、私共も幸いです」

 

 

 

次に向かったのは、八代芸能。

 

エントランスで出迎えたのは、黒髪を端整にまとめたスーツ姿の女性。

透のマネージャー──明石と名乗るその女性は、沈着冷静そのものの応対を見せた。

 

「本日はお越しいただきありがとうございます。

 専務の八代は現在別件で不在ですが、代理として対応いたします」

 

私が事情を説明し、必要書類を広げていく間、明石は一切の無駄なく目を通し、

ページをめくっていく。

表情には一切変化がなく、同じような無表情の鈴ちゃんとは違ってこちらは怜悧な印象が強い。

 

(苦手なのよね~、こういう冗談も雑談も出来ないタイプ……)

 

「──問題ありません。こちらとしても、透さんが納得しているのであれば、異論はありません」

「ご本人からは、何か……」

「“この作品はやりきる”と、彼は言っていました。……それだけで、十分です」

 

私はほっと息をつくと、感謝の意を込めて深く頭を下げた。

明石は書類に印鑑を押し、書類を一式揃えて手渡した後、私に静かに言葉を重ねてきた。

 

「この再撮影によって、現場が良い方向に向かうことを願っています。

 私からは、全力で支援させていただきます」

「……ありがとうございます。心強いです」

 

こうして、透くんの所属事務所・八代芸能との調整も完了した。

後回るのは剛士くん、神代さんと……まだまだ、ある。

令和にもなったんだし全部、電話でもネットでもいいから移動関係楽にならないかしら。

 

そして、夕方。

助監督たちが仕上げたスケジュールボードの前で、私はホワイトボードマーカーを回しながら

ペンと机上にドンと叩きつけるように置いて、静かに呟く。

 

「さて……明日は最終日。再契約まとめて、一気に片付けて……夜はビール飲むんだから!」

 

そう呟いて、彼女はPCを閉じ、電話の受話器を手に取った。

 

 

 

【四日目-天気:晴天】

 

──午前10時。

 

 

都心の会議室ビルの化粧室で腰に手を当てて仁王立ちのをする私の姿があった。

再撮影の最終確認と契約締結を行うため、各所と連絡を取りながら、

製作委員会への報告準備に入っていたのだ。

 

「今日は絶対、逃げ切るぞ……!」

 

気合とともに、テーブルに広げられた書類に目を走らせる。

各芸能会社・外注会社との契約文書、県庁・環境省に市役所での届け出の写し、

再調整スケジュール、試算された追加予算案の明細──すべてが揃っている。

 

午後1時、会議開始。

 

製作委員会の面々は、ビジネススーツを纏い、冷静なまなざしで資料に目を通す。

前回のはあくまで製作委員会のお歴々への再撮影の認可、追加予算打診の追認。

本番は今回、実際に試算したギャランティを含んだ追加費用が通せるかどうかの会議だ。

 

「──以上が再編集、および再撮影に関する提案内容となります」

 

私が一通り説明を終えた後、一瞬の沈黙。

 

その空気を破ったのは、梶原さんだった。

四十歳の若き実業家で冷静な数値主義者でありながら、対外的な物腰は柔らかく紳士、

何故か分からないけれど鈴ちゃんと透くんに対しては並々ならぬ興味を持っている男。

六割もの出資というスポンサー代表という立場もあるが

男性でありながら実業者として名が知れている彼だからこそ、

この場の流れを、その言葉の一声で変え得る存在。

 

「──公開PVの再生数とSNSでの反応はどうですか?」

「初動12時間で、想定の2.7倍の伸び率でした。

 予告映像の拡散力は計算を超えており、SNSの影響ですが今は緩やかで482万再生。

 再生/興収効率と比較しますと約半分ほどに該当しますので、

 邦画実写としては高効率水準に肉薄しており、前代未聞の成功期待が望めるかと」

 

「ほう……」

 

その場の誰よりも早く、彼はPCに数式を入力し、影響力の試算を始める。

 

「……ROI(投資対効果)の計算結果も悪くない。よろしい、追加予算を認めましょう」

 

私は安堵のため息をつき、心の中で小さくガッツポーズ。

 

「ありがとうございます……!」

 

会議が終わり、資料をまとめながら会場を出ようとした時、梶原さんが声をかけてくる。

 

「滝本さん。今回の改定、期待していますよ」

「……はい。命削って作ります」

 

 

 

──午後6時。

 

再契約の最終書類が全て整い、全スタッフにスケジュールと脚本の再配布が完了したのは、

その日の夜遅くだった。

ビルの廊下、夜の風が差し込む窓辺で、滝本は最後のメールを送信し終える。

 

「……ふぅ。ようやく、全部終わった」

 

その時、背後から声がかかる。

 

「滝本ちゃん、お疲れさま」 振り返ると、三神さんが缶コーヒーを二本手にして立っていた。

「はい、三神監督。やっと……ゴールが見えましたよ」

 

「そいつは良かった」

「強いて言えば、これが缶ビールだったら最高でしたねぇ」

 

三神さんと顔を見合わせ苦笑を浮かべた彼と二人並んで缶を開け、

夜風に吹かれながら静かに乾杯した。

 

「まだまだ終わらないぞ、俺たちの地獄は」

「そうですね、次は撮影地の山籠もり……あー、また虫除け買わなきゃ」

 

ふっと笑いながら、滝本 梨沙は疲れた身体を椅子に預けた。

 

 

 

三神監督と別れ、スタジオのロビーへと歩く途中で、私のスマートフォンが震えた。

ディスプレイには「八代 明石」からのメッセージが表示されていた。

 

《滝本プロデューサー、本日もお疲れさまです。

 追加スケジュールと新契約内容、確かに確認しました。

 なお、透さん本人からは『現場の皆さんの負担が大きくなりすぎないよう、

 調整をお願いします』との伝言も預かっております。それと──》

 

その下に、透からのメッセージが添えられていた。

 

《滝本さんも、無理なさらないでくださいね。季節の変わり目ですから、体調にはお気をつけて》

 

……それだけの文面。

それなのに、私は、足を止めてその画面をじっと見つめてしまった。

不意に胸の奥が、じんわりと熱くなる。

 

「なに、これ……こんないい男と付き合いたい……」

 

思わず、ぽつりとこぼした。

 

──お疲れの心に、優しさがいちばん効く。

 

スマホを胸に抱いたまま、しばらく立ち尽くす。

足は重く、心は少し軽い。

それでも歩き出す。

明日も“映ってしまう感情”を、誰かのために残すために

 

 

それでも、表情はどこか晴れやかだった。

 

 

 

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