日の差す多種多様の人々が息づく都会の喧騒。
振り返ってみればまるで“ 嵐のような”という表現が誇張ではなく正しかった撮影現場から、既に一カ月という時が経過しようとしていた。
ボクはもう恋する“白栞”ではなく、影橋 鈴としてに日常が戻ってきている。
高層ビルの谷間を抜けるように歩く鈴の姿は、かつてと変わらぬ──ように見える。
背筋は伸び、完璧な服飾に包まれたその肢体。
街中の視線を無意識に引きつけながら、彼女は誰も見ない。
だが、その“空っぽ”は、どこか形を変えていた。
影橋 鈴、ボクの人生は敗北者の人生“だった”。
伝説の女優、影橋小百合と鬼才と呼ばれた小津正芳の娘。
世間は今、再び期待してくれている。
両親の才能をしかと受け継いだ役者としての"影橋 鈴"を。
あの容貌しか持たなかったと思っていたモデルの"影橋 鈴"は、これから何処に行くのだろうと。
撮影を終えた翌週。
その件の少女、鈴はなんなことはなく──これまでのようにモデルの現場へ戻っていた。
思考をまた彼方に飛ばしながら、ライティングされた閃光を顔に浴びる。
カメラの撮影音のパシャパシャと響く音にも、やはりというべきであろうか。表情を一切変えることなどない。
控室、光の加減を確認するカメラマン。眞鍋さんの明るい声が飛ぶ。
「鈴ちゃん、なんだか……雰囲気変わった?」
「……そうですか?」
「うん。前は“静かな器”だったけど、今は──“内側で燃えてる”って感じ」
「……」
「え、違った?ごめん、変なこと言っちゃった?」
「──いいえ、少しだけ、うれしいです」
その“少し”を拾い上げられたのは、たぶん初めてだった。
マネージャーの北里さんが鏡越しに小さくガッツポーズを取りながら唇を動かして私を褒めてくれる。
『すごく綺麗でした』
この言葉を、ボクは前とはやや別の意味合いに感じ取った。
鏡の向こう、髪を直しながらふと映る自分の顔を見つめた。
笑っているのに、目は……少しだけ、潤んでいる。
「……あ」
感情の湧く予兆に、ボクは驚いていた。
あの夜の光、あの祈りの余熱が──まだ、心の奥で静かに燃えている。
“白栞”を演じたあの時間は、演技のための虚構じゃない。
誰かと繋がるという“現実”だったのだと──ようやく、気づいた気がした。
ボクは小さく微笑んで北里さんに無言で返す。
休憩中、鈴は街角の小さなカフェでホットコーヒーを飲んでいた。
スマホを開くと、あの映画のスレッドが更新されていた。
【芸能】影橋鈴で今日も白米がすすむ 54合目【モデル女優】
581:名無しの食卓:87kOEbqP6dYz
鈴ちゃん、最近のCMよりも“映画の余韻”がまだ残ってる感あるな
というか、感情ってこんなに表に出る人だったっけ?
582 :名無しの食卓:07LgSidMxEk0
このまま“戻らない”でいてくれたら嬉しい!
モデルじゃなくて、私って鈴ちゃんには役者でいてほしいなぁ。
582 :名無しの食卓:LgSi12SNEKN2
早く上映しないかしら、上映って春なんでしょう?
待ちきれないですわ。
スクロールする指が止まる。
戻らないで、という言葉。
それは、どこか自分の内側に刺さるものだった。
モデルとして、街に立つ私はその実。
レンズの向こうで、無表情を作っていたのではないか?
それは──ボクにとって、とても「慣れた」ことだった。
けれど、今日。ほんの少し、何かが引っかかった。
あの頃のボクは、きっと“無表情”を浮かべていただけだった。
笑顔も、哀しみも、憂いさえもひた隠してはいなかっただろうか。
無駄だと諦め、誰かが望む影橋 鈴をなぞっていたのではないか?
でも、映画で演じた“白栞”は違った。
あの子は、目で語った。沈黙で伝えた。
同じ無表情でも、望まれたボクでも感情を隠しはしなかった。
役になった自分が、誰かの視線を受けて、共鳴していく。
……それは、カメラの向こうにはない実感だった。
撮られるだけじゃない。
映されるだけでもない。
ボクは──誰かに“見られている”ことを、初めて“嬉しい”と思った。
いま、街を歩く視線を浴びても、もう怖くはない。
そこに「ボク自身」がいると、そう思えるから。
「……ただいま」
「お帰りなさい、鈴」
映画の撮影が終わってからは、両親のどちらかが夜には家にいてくれることが増えた。
広いだけだったはずの家。壁に音が吸い込まれるたび、
自分の声が“なかったこと”になる気がして悲しさと寂しさを感じていた筈の自宅でただ一言「おかえり」と言って貰える幸せが嬉しくて。
「お父さん、今日はね──」
「……ああ」
困ったように相槌を打つ父の姿に、この無愛想で口下手の部分は、きっと父に似たんだろうな。
ふと、そう感じた。ちゃんと受け継いでいるんだと。
お母さんの役者としての血も、お父さんの特徴も──ボクは二人の娘なんだ。
自宅のソファで、鈴はスマホに向かって動画を再生していた。
それは、白栞ではなく、“影橋 鈴”として生きる日々の中で──
ふと撮られた舞の練習映像だった。
あの儀式の夜、透と共に創った《帰座の詞》。
鼻歌から生まれた旋律、父が形にしてくれた曲。
地域の人々と共に舞い、祈ったあの時間。
──本当にあったのだろうか。
あまりにも幻想的で、夢のようだった。
けれど、その映像には、確かに彼女自身が“演じている”姿があった。
「……これが、“ボク”……?」
誰に見せるでもない、ただの確認。
けれどその呟きは、ほんの少し、揺れていた。
一方、透は次の作品『ナンバーセブン -烏龍ウーロン-』の稽古に入っていた。
コネを全力で使って人を集め、新しい脚本と、衣装合わせまで済ませ漸く形になり始めた頃には
何故かスポンサーが勝手に増え、映画の規模が想定の数倍に拡大し広告まで始めた。と言っても俺はSNSとかは肌に合わず、しずえもんに任せっきりな訳だが。
婆ちゃんからプロデュースを任されて、やると決めてからは正直、舞台稽古よりも関係者の人たちに挨拶に回った時間の方が長いと感じるくらい、一日の経過が目まぐるしい。勿論、基本がアクション映画であるから形稽古だってたっぷりやっちゃいる。
まあ、でも一度流れに乗ってしまうと、流れ始めてからはあっという間だ。
現場ではスタッフの人たちに「さすが」と褒められながらも、
俺はどこか浮つかない、視線の行き場をなんだか持て余していた。
カメラが回れば、今まで通りに特に違和感もなく役になっている感覚はあるんだけどなぁ。
こうして振り返ってみると十二月から一月までの田舎のロケ、すごい短かったな。
俺は休憩室のソファに身を沈めたまま、ゆっくりと天井を見上げる。
「……なんか、違うんだよな」
セリフも演出も悪くない。照明だってばっちりだ。
でも、なにかが足りない気がしてならない。
作風の違いだろうか。
「“あの子”といた時は、ちゃんと役が“生きてた”感じあったんだよなぁ」
目の前の台本を閉じ、透は立ち上がる。
あれは蓮見だったのだろうか……それとも。
鏡の前、ふと目が合った自分に呟いた。
「──あいつの目に、俺はどう映ってたんだろうな」
そして、思い出す。
あのラストシーンの舞台裏、白栞が振り返って見せた、あの“感情の目”を。
共演。それはただ台詞を交わすことじゃない。
相手の感情と向き合い、重なり合い、“生きる”ことだ。
「あ、八代さ〜ん、お疲れさまですぅ!」
女性スタッフの誰かが、先に休憩していた俺を見て元気そうに挨拶してくれたので俺も同じく「お疲れさまです」と返すと、向こうは嬉しそうに隣に座りあれやこれやと、雑談を振ってくる。
その場に合わせて相槌を打っていたところ、「最近、とても魅力的になったモデルさんが居まして~」とある動画を見せてくれた。
モデルねぇ、と思いながら脳裏に浮かぶのは鈴と真野さんだ。
八代芸能にもモデル部門があるので、名前だけならそこそこ浮かぶがあまり接点はない。
ボンボンの孫が下手にモデルさんや女優さんに近付いた日には、きっと翌日の
雑誌で炎上まったなし……と思うとあまりに怖い。
君子危うきに近寄らず。
俺はいいけど……いや、良くないが相手が可哀想に過ぎた。
そんなことを考えながら、スマホを覗き込むとタイトルは、よくある化粧品のタイアップ。
映画やドラマなんかと違って限られた時間の動画には、音も台詞も少ない。
だが、そこに映っていた彼女は──“影橋 鈴”だった。
白い空間の中で、風に髪をなびかせながら、ゆっくりと振り向く。
ただそれだけのシーンに、息を呑んだ。
無表情に見えるその横顔に、確かに“何か”が宿っていた。
あれって、演技なのか? それとも、素の彼女なのか?
休憩終わりの女性スタッフが名残惜しそうに「また〜」と言いながら廊下を駆けていく。
その背を見送りながらも、さっきの動画が気になってしまって俺は自分のスマホ取り出して検索する。
目的の動画を見つけると目を細め、再生しては映像を巻き戻す。
ワンフレームずつ見る中で──
自分が、かつて“共演した”あの“白栞”を思い出した。
鈴の目線が、かすかに何かを“見て”いる。
カメラの先、レンズの向こうに、確かに“誰か”を。
……いや、違う。
あれは、誰かを“想っている白栞の”目だ。
着信履歴。
数少ないお気に入りのリストの中に、ひとつだけ何度もためらっては押せなかった名前がある。
『影橋 鈴』
今なら、かけてもいいのかもしれない。
いや、きっと「今しかない」。
ワンタップ。通話のコール音が響く。
1回、2回──その緊張を指先に感じていた時。
『──はい。影橋です』
声がした。
静かで、けれど、確かにこちらを向いている声だった。
「あ──俺だ。透」
『……うん。知ってるよ』
会話が始まった。
それは、演技でも台詞でもなく。
素の“声”で交わす、再びの“共鳴”だった。
その記憶は、透を“次の演技”へと導いていく。
『……久しぶり』
「ああ。ほんとに、久しぶり」
『透、元気そうでなにより』
「元気は……まあ、どうにか。相変わらず芝居の海で溺れかけてるよ」
一カ月ぶりに聞いた共演者の声に、俺はなんだか気恥ずかしくなって、頭を掻く。
そんな様子を知ってか知らずか鈴は淡々と指摘する。
『溺れてるのに、楽しそうな声してる』
「……そっちこそ。今日、CM見たんだ。例のやつ。あの透明なやつ」
『……そう。あれ、最初は断ろうと思ってた』
「えっ、なんで?」
『……ボクの顔だけが、勝手に喋るから』
そう呟いた鈴の声は、冗談めいていた。
けれど、その奥に潜む小さな傷のような違和感を、俺はすぐに感じ取った。
今になってきっと感じているんだろう、本当に“鈴”が演じていたのか?
それとも、また“誰かの影”が顔を借りただけなのか?
俺も実感のないまま、何か出来てしまっているだけで、それが自分が演じたのか。
自信がなくなるときは時折ある。
そういうのは声にしなければ、きっと誰にも伝わらない。
けれど、今の俺には痛いほど──伝わった。
「……」
『でも……ね。スタッフの人が言ったの。“鈴ちゃんの目、なんか語るよね”って』
『それで──少しだけ、勇気が出た』
「……語ってたよ。すげぇ、語ってた。むしろ俺の方が、聞かれてる気がして、ちょっと焦った」
『ふふ。……変なの』
「変か?」
『変。透は、いつも“見せる側”だったのに』
「たぶん──お前と演ってから、変わったんだよ」
『……』
鈴の何を見通す瞳に映る俺が、まるでカメラのようだった。
全てを見て感じるという気概を感じたから、普段以上に調子が良かったのかもしれない。
「あの時、お前が“見てくれた”から。
初めて、演技が“通じた”気がした」
『……演技って、不思議』
「ああ。不思議だ。……でも、ちゃんと届いた。お前の白栞」
『……じゃあ。透の“蓮見”も──ちゃんと、来てたよ』
「……ありがと」
『また、一緒にできるかな?』
「……言おうとしてた。先に言われた」
『じゃあ、ボクが主役。透くんは──また助演で、ね』
「……ちぇっ」
『ふふっ』
しばらくの沈黙。
無言のまま、通話の向こうにいる気配を感じていた。
「なあ、鈴」
『なに?』
「お前が“戻らないで”って言われてた意味、分かった気がする」
『……うん。ボクも、そう思う』
その声は、確かに微笑んでいた。
街の灯りが揺れていた。
冬の終わりを告げるような風が、鈴の髪をふわりと撫でて通り過ぎる。
交わした言葉は少なかった。
けれど、それだけで十分だった。
二人の間に残ったのは、声よりも確かな、
ひとつの余韻。
やがて来る春に向けて、
誰にも気づかれないまま、
ふたりは、同じ方角を見つめていた。