あたし、飛鳥 明日香の情緒は“初号試写”からずっと……ううん。
去年の十一月、『鈴が鳴るとき』のオーディションを影橋 鈴が受けると──
オーディションを受けるとマネージャーから聞いたその時から。
元を正せば、あたしという人間が狂ったのは、……それよりももっと前。
──子役モデルとしての鈴に負けたあの時から。
初号試写の五人分の招待枠に、あたしを誘ってくれた時は確かに嬉しかった。
作品だって良かった。映画の“完成度”は本当に良かったんだ。
恋愛になんて興味がないあたしですら、胸がドキドキした。
と──同時に見たことのない表情をする鈴に、八代 透と見つめ合う鈴に。
頭の奥が、胸の奥が刺されたように痛かった。苦しかった。
鈴と、顔を合わせることもできなかった。
あたしは上映後、皆が拍手しあの二人を称える中、走るように逃げ出した。
見たくなかったんだ。
あれからモデル活動も上の空だった。
頭の中はあの映画の事ばかりで、四月上旬の初回上演からはずっと、
何度も何度も……あたしは映画を観続けてきた。
この気持ちに踏ん切りをつけるため、いっそ受け入れられない粗を探すように。
──でも、駄目だった。
このままじゃあたしは、あたしじゃなくなる。
そう思って舞台挨拶のある上映先で、関係者として楽屋に向かうことにした。
ぐいっと帽子を深く被る。
サングラスもマスクも完備。
だって、今日ばかりは“飛鳥 明日香”じゃない。“ただの明日香”でいたいんだ。
──はああああああ、どうすんのこれ!
心の中で十周ぐらい叫びながら、スタジオの廊下を歩く。
手には握りしめたスマホ。見ちゃったんだ、上演後のTbitterのつぶやきの数々。
鈴の、あの表情。あの男の、あの演技。
誰もが絶賛していた、鈴が満たされた表情と変化を。
あの映画。
“あたしが──
「……っずるいよ……」
足音が響く。誰かとすれ違っても目もくれず、まっすぐ突き進む。
モデルの飛鳥 明日香が、演技になんか負けてたまるかってずっと言い聞かせてきたのに。
なのに──なにあれ。
“空っぽだったあんた”が、あんな顔するなんて。
ドアの前で足を止める。鏡の中には、静かにメイクを直す鈴の姿。
──見つけた。
ドアを開ける。
「──アンタ、ずるいよ」
控え室の空気が凍りつく。
飛鳥 明日香の声は鋭い剣のように響いた。
インタビューとして同室していたスタッフがそっとカメラを降ろす。
鏡の前の鈴が、静かに振り返る。
「“鈴の鳴るとき”、見たよ。あの後も、何度も!」
無音。
「なんで……あんな顔できんのよ」
明日香は、感情を抑えきれなかった。
「ずっと空っぽで、何も映さなかったアンタが!
なんであんな……“白栞”になれるの。あれじゃ、あたし──勝てないじゃんか!」
「ずっと、あたしの推しだった。あたしだけが分かってた。
“あの鈴”は誰にも真似できないって──!」
彼女の叫びは痛烈で、でもどこか泣き声のようだった。
「それなのに、あたしがオーディション受けても通らなかったあの役をさ……なんで、あんたが……っ。
しかも八代 透の隣で! あいつ、何してくれちゃってんのよ! あたしの……!」
叫びは途中で千切れる。
控え室の扉が突然、力強く開かれたとき、ほんの少し驚いた。
何年もボクのことを知っている。ボクの数少ない知り合いで、
ボクじゃ足元にも及ばないモデルの飛鳥 明日香。
彼女はいつも自信満々で、黙っているボクの代わりに率先してスタッフさんに意見して。
駄目な所、良い所はいつだって指摘してくれた。
モデルとしての振舞い方、『アンタ、上辺の真似だけは……才能あるから』と
参考に一流のモデルの資料や動画を教えてくれたのも彼女だった。
だから、見てほしかった。家族ではない彼女に──役者としての影橋 鈴を。
「……ありがとう、見てくれて。……明日香さんのおかげだと思うよ、ボク」
怒鳴り込むように部屋に来たことは、ちょっとどうかと思うけれど。
これがボクの知る彼女らしさだった。
ほんとうはちょっぴり怖かったけれど、初号試写の関係者枠に招待した。
明日香さんのいつものような駄目だしや感想が聞きたかった。
でも、あれから彼女は上映室から姿を消していたし、仕事先で会うこともなかったから。
安堵の気持ちで、思わず口から出ていた。
「え?」
明日香さんの眉が跳ねる。
「“空っぽだ”って、気づかせてくれたの、あなたでしょ。
……だから、最初は辛かったけど、ちゃんと自分を見ようって思えた」
「…………」
「モデルはやめないよ。……あれもボク。
今なら分かる。モデルとして立ってたボクも、演技をしたボクも、どっちも本当だったんだって」
しばしの沈黙のあと──
「……は?」
明日香さんが目を見開いた。呆れたように、そしてどこか誤魔化すように苦笑いを浮かべて。
何かを言葉にしようとしては、口を閉じて。
「──なにそれ、……ズルすぎるんだけど……」
そのままドアを開けて、ガン、と音を立てて出ていった。
ズンズンと歩く。とにかく歩く。後ろから誰かに呼ばれても絶対に振り返らない。
少しでもあの場所から離れたかった。
「……くっそ……」
呟いた声がかすれる。
「なんで……なんで好きになったんだろ」
あんな冷たい目して、感情なんか無いような顔してたくせに。
なのに、今の鈴は。
(……はじめて、あたしに笑った)
心臓が、爆ぜた。
ただ“ドクン”なんてもんじゃない。
全身を内側から蹴り上げられたみたいだった。
胸の奥に爆弾でも仕込まれてたのかってくらい、破裂しそうな衝動が駆け上がる。
(やばい……やばいって……)
静まれ、じゃない。そんなの無理だ。
脈打つたびに、全身の血が煮え立っていく。
呼吸の仕方もわからない。
息を吐くたび、名前が漏れそうで、怖かった。
“あの声”を思い出すだけで、鼓膜が熱くなる。
“あの目”が浮かぶたびに、世界が霞んで見える。
拳を握りしめてもダメだった。爪が食い込んでも足りない。
──どうして、あたしの心臓は、あんな奴に反応するの?
(くっそ……マジで無理……なのに……)
好き、なんて言いたくない。
でも、否定すればするほど、胸の中でその言葉が暴れる。
心臓が、あたしの裏切り者みたいに暴れてる。
(……最悪)
涙は出ない。でも、鼻がツンとした。
八代 透への恨みつらみは、あとでたっぷり詰めるとして──
まずは次のステージで、鈴の隣に立ってやる。
「ヒール盛ってでも、あんたの目線を見下ろしてやるからな……!」
そんな負け惜しみを吐きながら、明日香はスタジオの出口へと消えていった。
7/11 9:18 誤字修正(緒方さま報告感謝!)
本当に終わるのか?