◆第三章《風の気配と紙の少女》
大学の民俗学研究室で、廻は一冊の古びた資料集を見つけた。
表紙には手書きで「鈴ノ杜——境界の神々と供儀」とある。
数十年前に地元の民俗学者がまとめた未刊のフィールドノートであり、大学の誰も読んでいないようだった。
紙は黄ばみ、インクはかすれ、それでも何かが彼を惹きつけて離さなかった。
その中には、風の神を祀る古社、鈴ノ杜神社についての記録が断片的に記されていた。
──春先に神隠しが起こる。
──白装束の少女を見た者は、夢の中で神に逢う。
──かつて境界を越えた者の記憶は水面の泡と消える。
幾つかの逸話に共通していたのは、「白」の存在と「音のない風」の描写だった。
それらは伝承でありながら、どこか現実を含んでいた。廻はページの隅に記された走り書きに目を止める。
──実地調査は困難。かつて訪れた者は、帰路を忘れる。
「本当にあるのか、鈴ノ杜」
彼は独り言ちた。学術的関心以上に、呼ばれているような感覚があった。
その数日後、彼は教授の元を訪ねた。
教授は古民俗の権威であり、古文献の解読に長けた人物だったが、鈴ノ杜という名を聞いた瞬間、言葉を濁した。
「……聞いたことはある。だが、実際にそこへ行った学生はいない。いや、戻ってきた者がいないのかもしれんな」
冗談めかした口調だったが、どこか本気のようでもあった。廻は深く頭を下げ、その夜、旅の準備を始めた。
春の始まり。風が湿気を含み、街を軽やかに吹き抜けていく。
廻の祖母は山間の村に住んでおり、幼い頃から不思議な話を幾つも語ってくれていた。たとえば、夜に鈴の音が聞こえると翌日は誰かがいなくなるとか、白い影が川沿いを歩くと大雨になるとか。
「昔、あんたくらいの年頃の子がね、白装束の娘に連れられていったのよ。翌朝、村中探しても姿はなかった。なのに三年後、何事もなかったように帰ってきたって話」
その時はただの昔話として聞いていたが、教授室を出たあとでふと祖母の言葉を思い出し、心がざわついた。まさか、あの話と鈴ノ杜が——。
地図に記された位置を辿り、彼はバスと徒歩を乗り継ぎ、幾重にも折り重なった山道を進んだ。舗装されていない獣道を抜けた先、静謐な森の奥に、忽然とそれは現れた。
鳥居が、あった。
古く、苔むし、風雨にさらされながらも、なお凛とした姿を保っている。
鳥居をくぐった瞬間、風が止み、世界が音を失った。
廻は息を呑み、境内へ足を踏み入れる。そこには、時の流れを忘れたような静けさがあった。
祠は小さく、けれど祭壇には丁寧に供物が並べられていた。
誰が手入れしているのか——その答えを探すより早く、彼の背後で紙が擦れる音がした。
振り返ると、そこには少女がいた。
白無垢のような衣装をまとい、手には細く折られた紙垂が揺れていた。
その瞳は、こちらを見ているようで、見ていなかった。
──死人の白。
──この世とあの世の間を歩く白。
資料にあった語句が脳裏をよぎる。だが、怖いとは思わなかった。
少女は一歩、また一歩と彼に近づき、紙垂を彼の手に握らせると、そのまま静かに去っていった。
紙垂には、墨で一文字だけ書かれていた。
「聞」
風が再び吹いた。
音を取り戻した世界の中、廻はその意味を探し始める。
この地には、何かがある。
この少女は、何者なのか。
彼は立ち尽くしながら、境界に足を踏み入れた自分を理解し始めていた。
森の奥、風に揺れる草の音さえも凪いだその場所に、ひときわ大きな御神木が立っていた。
幹に巻かれた注連縄は新しく、傍らには供え物の跡があり、小さな皿に米や塩が置かれていた。
廻はしゃがみ込み、皿の一つをそっと指でなぞる。器は土製で、指先にまだ温もりが残っている気がした。
「誰かが……生きて、ここを守ってる?」
そのとき、視界の端を何かが横切った。
紙のように軽い足取り。白い影。少女だ。
今度は遠ざかる気配がなかった。彼女は御神木の前で立ち止まり、静かに振り返る。
廻は導かれるまま、その背に続いた。
ふたりの間には言葉がなかった。だが、不思議と意味は伝わってきた。
鳥の声も、風の囁きも、遠い別世界の出来事のように聞こえる中、少女は再び紙垂を手に取ると、今度は神前に向かってそれを差し出した。
供物台の前には、紙垂を結ぶための細い枝が何本も立てられていた。少女はそれを器用に使い、一つひとつを結んでいく。その所作には祈りのような、あるいは儀式めいた重さがあった。
廻もまた、渡された紙垂を見つめた。彼の手の中には、最初のものとは違う文字が書かれていた。
「問」
聞く。そして、問う。
神との対話とは、こうして始まるものなのか。
彼はその場で静かに座り込み、目を閉じた。次に風が吹いたとき、耳元で誰かの声が囁いたような気がした。
『ようこそ、境界へ』
風の音が止み、空気が澄んだように感じられた。
その時だった。背後で、草履の音が微かに響いた。
「……ようやく来たか」
低く、歳を重ねた男の声。
廻が振り返ると、鳥居の傍に一人の老人が立っていた。
白い法衣のような装束。手には箒を持っている。
その目は厳しく、けれど慈しみの気配を孕んでいた。
「南條……明彦?」
「俺の名を知っているか。なら話は早い。
この社は、ただの遺構じゃない。ここは“答えを得る場所”だ。
だがな、問いの意味を知らぬ者に答えは降りてこない」
少女の姿は、いつの間にか消えていた。
だが風は、紙垂の揺れに残響を遺していた。
「……君は、ここの……神職なのか?」
「いや。俺は“見届ける者”さ。
ここで神と人との間を保ち、記録を護る。
だが本当に必要なのは、見ること、問うこと……そして、応えることだ」
南條は、廻をまっすぐに見た。
「君が、その役目を継ぐのなら、あの子たちが迷うこともなくなる」
◆第四章《石段を下る声》
あの神社で風が止んで以来、廻の中には、ひとつの感覚が根づいていた。
まるで誰かに見守られているような、あるいは見張られているような。
その目には悪意も善意もなく、ただ淡々と、ひとつの存在を“観て”いる——そんな印象だった。
白い少女から渡された二枚目の紙垂、「問」と記されたそれを、小さなノートの間に挟みながら、廻は神社の奥へ進んでいった。
山の神社としては小ぶりな規模の境内だが、御神木の裏手には苔むした石段が続いていた。
下る道だ。森の深部へと向かっている。まるで、地の底へ誘うかのような錯覚さえあった。
──ようこそ、境界へ。
耳に残る声は幻だったのか。それとも、本当に何かが語りかけてきたのか。
確かめるように、廻は一段ずつ石を踏みしめていく。
そのとき、風が戻ってきた。
今度の風は、前と違う。湿り気は薄れ、乾いた、秋を想わせるような冷たさを含んでいた。
そして風の中に、音があった。
しゃん、しゃりん、しゃらん。
鈴の音。
誰かが歩いている。
彼より先に、あるいはずっと前から、この石段を下っていた者がいる。
足音はない。あるのは、風に紛れて耳に届く細やかな鈴の響きだけ。
廻は振り返ったが、少女の姿はなかった。
ただ、彼の歩んだ後方に、紙垂がひとつ、落ちていた。
拾い上げると、今度の紙にはこう記されていた——「返」
「……返す、か。何を?」
自問した声は、森の奥に吸い込まれていった。
やがて石段が終わり、視界が開ける。
そこは、開けた草地だった。まるで神域の奥に隠された中庭のような空間で、円形の地面に白砂が敷かれ、中央には小さな石祠がひとつ。
風が円を描くように吹いている。その風が、石祠の周囲に舞う紙垂を運び、まるで祈りの舞をしているかのように宙をめぐっていた。
「返す、か……」
廻はもう一度呟き、ポケットから最初の紙垂、「聞」の文字が記されたものを取り出す。
そして「問」と「返」、三つの紙垂を手の中に重ねたとき——
風が止まり、世界が静止した。
音が消えた。風も、虫の声も、遠くの梢のざわめきさえも。
そして、祠の奥から声が響いた。
「—なぜ、問う?」
それは男とも女ともつかぬ声であり、ひとつの存在がただ“言葉”を使っているだけのような無機質さだった。
「……僕は、知りたいんだ」
廻は自然と答えていた。自らの意思ではなく、何かが彼の内側から言葉を引き出しているようだった。
「なぜ、この神社は忘れられたのか。なぜ、誰も帰ってこないのか。
なぜ、僕がここに来たのか……なぜ、あの子は紙を渡すのか」
沈黙。
だが、すぐに新たな紙垂が彼の足元に舞い降りた。
「返」——今度は、赤い墨で。
「……まだ、“返して”ない、ということか?」
そのとき、森の奥から別の気配が近づいてきた。
音もなく、しかし確かに重みのある何か。
それは、人ではなかった。
木の枝を擦るような音。獣のような吐息。
そして、不意に光が閃く。
白い狐だった。
ただの狐ではない。片目に紙垂を結び、尾が二股に割れている。
妖の気配。神の使い。あるいは神そのもの。
狐は彼をじっと見つめると、祠の周囲を一周し、最後に廻の足元で座った。
そして、その口元から、かすれた女の声が漏れた。
「問いは届いた。返礼を求む」
廻は震える指で、三枚の紙垂を祠の前に置いた。
「これで……いいのか」
狐は頷いた。そして祠の奥からもうひとつ、紙垂が吹き出される。
「供」
第四の言葉。
風が、また吹いた。
物語は、まだ終わっていなかった。