灰の神は、演じきった   作:ククルス

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文庫版『鈴がなるとき』第五章 ~ 第六章

 

 

◆第五章《前編:供物の記憶》

 

 

山道を削るようにして築かれた苔むす石段を、蓮見は慎重に降りていた。

午後の気配はすでに沈みかけ、樹々の間から覗く空も、どこか濁った灰の色を帯びていた。

 

彼の足元を覆う落ち葉の層が、乾いた衣擦れのような音を奏でる。

だが、それを掻き消すように、もう一つ──

誰かの足音が、数段下から微かに響いた。

 

誰かが、先にこの参道を下りている。

そう直感して、蓮見は立ち止まった。

 

葉擦れではない。

獣の気配でもない。

人の音だ。しかも、どこか痛々しいまでに、静かで──律儀だ。

 

恐る恐る、一歩を踏み出す。

石段の先、霧に近い陽光の中に、それは現れた。

 

少女だった。

白いワンピース。足元は裸足に近く、爪先の皮膚は、地面の湿気に濡れて光っていた。

彼女の背に風が通り抜け、裾を揺らすたびに、まるでその身体がこの世から浮かびかけているような錯覚を覚える。

 

──白栞。

 

名を知らぬままに、蓮見はその存在をそう呼んだ。

この場所にずっといたのだ。誰にも見つからずに、誰にも知られずに。

風鈴の音を纏いながら──風もないのに、どこからともなく、微かに“ちりん”と響いた。

 

声はなかった。目も合わない。

だが、彼女は明確に、蓮見を視界に入れていた。

彼を、認識していた。

 

「……待って」

 

無意識に言葉が漏れた。足音は止まらない。

蓮見は駆け出そうとした。だが、どうしようもない“ためらい”が彼の足を縫い止めた。

 

あれは、触れてはならないものではないか。

いや──あれは、まだ、触れるには早すぎる。

 

だから、蓮見は立ち尽くす。

少女の影が、淡い陽光に揺れて石段を下りていく。

 

風鈴が鳴った。

一度、そしてもう一度。

それは彼の胸の奥で、鼓動のように反響し──

 

やがて、音は消えた。

 

 

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◆第五章《中編:風の名を呼ぶとき》

 

 

蓮見は、白栞と目を合わせた。

それは言葉よりも遥かに明確な問いであり、そして応えだった。

 

君は誰だ、と問う代わりに。

私は此処にいる、と答える代わりに。

 

ただ、その視線だけが交錯する。

 

その刹那、空気がわずかに震えた。風鈴の音が鳴ったわけではない。

だが確かに、風が吹いたのだ。二人の間にだけ、音なき風が。

 

──風が、通った。

 

その感覚に、蓮見は初めて理解した。言葉が通じなくても、伝わる何かがあることを。

 

白栞は何も言わなかった。ただ、僅かに視線を外し、そしてまた戻した。

それだけで十分だった。

 

境界の先にいる者──幽霊か、神か、あるいはただの少女か。

そのどれでもあるようでいて、どれでもないような“空白”。

 

蓮見は一歩、踏み出した。

だがその足音は土に吸い込まれ、音を持たなかった。

 

「……僕は、蓮見っていいます」

 

誰に向けてというわけでもなく、そう呟く。届くかどうかさえ分からない。だが、言わずにはいられなかった。

 

白栞は応えない。けれども、視線は逸らさなかった。

 

そしてまた、風が吹いた。

 

その風に、小さく吊るされた風鈴が、かすかに鳴った。

 

──チリリ。

 

その音が、世界と白栞の境界線を撫でた。

 

蓮見はその音に、身を委ねるように目を細めた。

風鈴の音が、何かを呼び起こす。記憶でも、感情でもない。

 

もっと曖昧で、もっと古くて、もっと“根源的な何か”。

 

白栞が、ほんの少しだけ歩いた。

 

それは、誰かのためではなかった。

自分の意思かさえ分からない。

 

ただ、風鈴が鳴ったから。

ただ、その音が、そこに在るから。

 

廻の心臓が、脈打つ。

この感覚は、なんだ。

恐怖ではない。

興奮とも違う。

 

けれど、確かに“何かが始まった”という実感だけが、彼の内側を満たしていた。

 

 

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◆第五章《後編:風に還るもの》

 

 

廃寺の庭には、夏の終わりを惜しむかのように、風がゆるやかに通り抜けていた。

白栞の視線が地を這う苔の上でとまり、蓮見の息は風鈴の音に誘われるように浅くなった。

 

午後の光は傾きながら、欄干を照らしていた。寺の建物は傾きかけた軒を支え、風の通り道を残していた。

 

「白……い……」

 

それは声にならない呟きだった。

 

蓮見はその姿に、何度目かの喪失を覚えた。

白栞という少女がこの世に存在していること、それ自体が、すでに何かを失ったあとに残されたもののようだった。

 

石段をのぼるときも、彼女は靴の音ひとつ立てずに歩いていた。風が鳴ったのか、彼女の気配が揺らいだのか、蓮見には区別がつかなかった。

 

会話はなかった。

名乗りもなかった。

ただ、視線が交差した。

 

それだけで、蓮見の世界の構造がひとつ、静かに書き換えられた。

 

彼女は、なにかを探しているようだった。

なにかを、ずっと、待っているようでもあった。

 

その夜、蓮見は宿に戻ると、持参した録音機を取り出し、風鈴の音を再生した。

けれど、昼間感じた“あの音”とは似ても似つかない無機質な響きしか戻ってこなかった。

 

──あれは、風の音ではなかったのかもしれない。

──あれは、少女の内側から漏れた、何かの共鳴だったのかもしれない。

 

思考の霧が濃くなる中で、蓮見は眠れないまま、古地図と古文書を並べた。

 

翌日、寺の奥へ踏み入ると、木彫りの狛犬と、注連縄のほどけかけた鳥居があった。

その奥、半ば崩れかけた本堂の横に、石板が打ち捨てられるように置かれていた。

 

“白姫”

 

そう、読めた。

 

白姫とは、ここ鈴ノ杜の地に伝わる神霊の名だ。

正体不明の女神でありながら、幾度も集落の災いを鎮めたと記される“無言の御霊”だった。

だが、あるときを境に、その神は祀られなくなった。

 

「封じられたんだ……」

 

蓮見の呟きに応えるように、木々の葉がざわめいた。

 

それは恐怖ではなかった。むしろ、胸の奥に触れた感覚に近かった。

 

夜、再びあの場所を訪れると、白栞はいた。

蝋燭の火を灯し、古びた経文のような紙片を、ゆっくりと風に放っていた。

 

光ではなかった。

風でもなかった。

──そこに、音が在った。

 

蓮見の足が勝手に動く。

近づくたび、彼女の表情は何も変わらず、それでいて何かを語りかけるようだった。

 

「貴女は……白姫なのか?」

 

思わず問うと、白栞の唇が、ごくわずかに開いた。

否定でも肯定でもない。

──ただ、風が鳴った。

 

翌朝、蓮見は教授へ連絡した。

件の寺の神霊伝承、白姫という存在の詳細を問うた。数日後、届いた文献の写しには、こう記されていた。

 

──白姫とは、かつて境界を歩いた少女。

──神にも人にもなれず、死者にもなれず、ただこの地に“鈴”として囁き残る存在。

 

ページの端には、経年劣化でにじんだ墨で、こう添えられていた。

 

“鈴の音を聞く者、共鳴せし者。いずれその身を失うことあらん”

 

蓮見は、再びその廃寺へ向かった。

 

彼女がいると信じて。

 

そして、白栞はいた。

風の中、紙片を舞わせる少女の姿として──。

 

彼女の唇が、わずかに動いた気がした。

 

蓮見は、耳を澄ませた。

 

だがそこには、言葉ではなく、

──静かな鈴の音が、ただ、鳴っていた。

 

 

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◆第六章《祀られた記憶》

 

 

霧が、出ていた。

 

それは朝の帳がまだ地表を手放さぬ時間。

鈴ノ杜の外れにある旧街道沿いの分かれ道、かつて学校だった建物の裏手には、廃屋と化した旧校舎が、眠っていた。

 

白栞はその廊下の突き当たりにいた。

 

立ち入り禁止の赤札が風で煽られている。

雨に打たれた板壁は斑に腐食し、硝子の一部はすでに割れ、そこから侵入することすら造作もない。

 

それでも、誰も踏み入れようとしない場所。

 

それでも、彼女はそこにいた。

 

廊下の奥に佇む白い影。瞳も、姿勢も、何ひとつ動いていないのに、なぜかその気配だけが、確かにこちらを見ていた。

 

蓮見は足を止めた。

 

声をかけるべきか、それとも逃げるべきか。

 

だが、そう考えるよりも早く、彼の足は軋む廊下を踏みしめていた。

 

旧校舎の扉を押し開けたとき、辺りの空気が変わった。

湿気の匂いが混じる。古い木材の呼吸が鼓膜の裏に沁みるようだった。

 

境内の手前に、ひとりの男がいた。

住職、南條明彦。

 

山の気配が冷え込む朝、彼は手に箒を持ちながら、ただ神社の奥を見つめていた。

 

声をかけるべきか、蓮見は迷った。

だが、南條はふと、空を見上げて言った。

 

「……また、鳴るのか」

 

その声は、独り言というにはあまりに深く、澱んでいた。

何のことか尋ねる前に、南條は鳥居の奥へとゆっくり姿を消した。

蓮見は、かすかな胸騒ぎを覚えたまま、旧校舎へと向かった。

 

 

白栞は、振り向かない。

ただ、そのまま、廊下の先を見つめていた。

 

「……君、どうしてそんな目をしてるの?」

 

蓮見はその前に立ち、問いを投げる。

その表情が、あまりにも悲しそうに見えたから。

実際には無表情だとして何かに忘れられた、子供のように感じて。

 

白栞の視線が、ゆっくりと持ち上がり確かに蓮見を“見た”。

 

──そこには、音があった。

 

窓の外で、風鈴が鳴っていた。

吹き込む風が音を撫でるように、静かに、低く響く。

 

風鈴など、つけられているはずのない廃屋だ。

だが、そこには確かに音があった。

 

白栞が、ゆっくりと右手を持ち上げた。

人差し指を、目の前の空へ向けて差し出す。

 

すると、鈴の音が止んだ。

 

時間が、固まった。

 

廊下の先に見えていたのは、黒板のある教室ではなかった。

白い障子のような扉。畳敷きの空間。そこに、紙垂(しで)を垂らした柱が見えた。

 

神棚だ。

否、それは──

 

──祀られていた、何か。

 

視界が揺れる。足元が頼りなくなる。

だが、蓮見の隣にいる少女だけは、何も変わらない。

 

「……見えているのか?」

 

声にならぬ囁きだった。

 

白栞は、頷きもせず、ただ前を見つめていた。

 

蓮見は、大学に戻れば“幻覚”と一蹴されるような体験をしている自覚があった。

それでも、信じざるを得なかった。

彼女が視ているものを、感じていることを。

 

──彼女と共鳴してしまっている。

 

それが何を意味するのか。

知ってしまえば、もう元には戻れない気がした。

 

そのとき、不意に白栞が歩き出した。

廊下の先、誰も入れないはずの教室へ向かって。

 

足音はしなかった。

 

蓮見もまた、無言のまま後を追った。

 

教室の奥には、光があった。

割れた窓から射す朝日が、埃の粒を照らして舞っていた。

 

白栞はその中心に立ち、じっと見つめていた。

 

風鈴は、もう鳴っていない。

 

だが、その沈黙の中で、蓮見には確かに何かが届いた。

言葉ではない。

音でもない。

 

──視線。

 

彼女の視線が、なにかを伝えようとしていた。

 

“この場所が、過去だった”

 

“この場所で、なにかが壊れた”

 

“そして、今も、癒えぬままここに在る”

 

蓮見の胸に、かすかな痛みが走った。

 

白栞は、振り返らない。

何も言わない。

だが、彼女の立っている場所こそが、なにかの“中心”なのだ。

 

教室の中央。

かつて子供たちの声が響いたはずの場所。

 

今は、沈黙だけが、空間を満たしていた。

 

蓮見は、歩み寄った。

少女の隣に立ち、静かに目を閉じた。

 

すると──

 

耳の奥で、かすかに鈴が鳴った。

 

それは、誰の手にもよらない音だった。

それでも、確かに“存在していた”音だった。

 

そして蓮見は、悟った。

 

──この廃校もまた、“祀られていた”のだと。

──そして、忘れ去られたのだと。

 

白姫。

あの名前が、再び脳裏をよぎる。

 

白栞という少女は、ただの幽霊などではない。

彼女は、存在の“記録”だ。

ここにかつて在ったもの。

 今もなお、消えずに囁きつづける“声”。

 

蓮見は、そっと息を吐いた。

 

目を開けると、白栞はもう、そこにはいなかった。

 

だが、彼女の気配は、まだその空間に漂っていた。

 

──そして、蓮見の中にも。

 

 

その朝、鈴ノ杜の霧は晴れ、静かな光が山影に満ちていた。

 

蓮見は、あのときの会話を思い出していた。

出発の朝、住職の南條がふと漏らした言葉だ。

 

「貴方は、この場所を知っているんですか」

「旧校舎――白姫社の跡地だよ。今はもう地図にも残っていないが、昔はこのあたり一帯、神域だった」

 

白姫社。

かつて、何かを祀っていた社(やしろ)の名。

記録はほとんど消えているという。だが、南條はわずかな文献と土地の言い伝えを頼りに、それを探し当てたのだという。

 

「社が焼け落ちたあと、人の手でこの校舎が建てられた。

 けれど、“祀る”という意思は残っていたらしい。

 この建物は――いわば神域の抜け殻だ。失われた祈りの形見のようなものだよ」

 

蓮見は空を仰ぐ。

雲の隙間から差し込む光が、崩れかけた屋根を照らしていた。

この場所はただの廃墟じゃない。

過去と今が交わる“なにか”が、きっとここにある。

 

その日、蓮見は研究ノートにこう記した。

 

『旧校舎の位置を、地図と照らし合わせた。

 すると……そこは、かつて“白姫社”と呼ばれた神社の跡地だった。

 風鈴で死者を弔う“封鈴の儀”が行われていたという。

 誰も覚えていないが、確かにその社は存在していた。鈴の音を封じる社──。

 白栞がそこにいる理由を、少しだけ理解できた気がした。』

 

 

 

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