前編:ばぁばのことば、あたしのはじまり
たぶん、あたしが初めて“演じる”という言葉に触れたのは、小学校の低学年のときだった。
でも、あの頃のあたしはそんな大層な言葉を知っていたわけじゃない。
もっと言えば、「モデルになりたい」とか「女優になりたい」とか、そんなことを考えていたわけでもない。
ただ、目の前の“それ”が、すごくキラキラして見えたんだ。
──ばぁばの話す舞台の話が、
──テレビに映る綺麗なひとたちが、
──演劇雑誌の中で笑う人たちが。
けれど、それ以上に、家の中で流れていた静かな時間が、あたしには何よりも大事だった。
あたしのママ(麻里絵)は、いわゆる“キャリアウーマン”ってやつだった。
仕事ができて、都会の会社で役職に就いて、毎日時間に追われるように働いていた。
朝は早くに出て行って、夜はあたしが眠るころにようやく帰ってくる。
そんな日が続くと、だんだん“家にいるママ”の記憶が薄れていった。
ママはきれいで、頭もよくて、あたしのことをちゃんと愛してくれてるってわかってた。
でも、少しだけ──ほんの少しだけ、寂しかった。
代わりに、家の中にいたのはパパだった。
武(たけし)パパは、あたしが起きると台所にいて、お弁当を詰めたり朝ごはんを作っていた。
洗濯も掃除も買い物も、なんでもそつなくこなして、何よりも“あたしの話”をちゃんと聞いてくれた。
学校であったことや、疑問に思ったこと、誰に聞いても分からなかったこと
──全部、パパは「一緒に調べてみようか」と言ってくれた。
ばぁば──佐和子とパパと、そしてときどき帰ってくるママ。
その3人と過ごす時間が、あたしにとっての“世界の中心”だった。
あたしは当時、クラスの中でも背が高いほうだった。
というより、7歳にしては異様に背が伸びていて、ランドセルが小さく見えるくらいだった。
それに加えて、気になったことはとことん調べずにいられない性格だったから、
周りからはちょっと浮いていた。
クラスの話題に首を突っ込んで、話を正そうとすると、空気を壊すとか言われたこともあった。
男子の人数も、そもそも少なかった。
クラスの四分の一くらい。中性的で物静かな子が多くて、強く主張する子はほとんどいなかった。
優しい子はいたけど──なんというか、“男の子らしい”ってなんだろうって、あたしは疑問に思ってた。
だから、ばぁばの言葉にはびっくりした。
「昔はな、男の人ってのは強かったんだよ。
外さ出て、働いて、戦って……んでも、それがえらい時代だったんだ」
「うそだぁ!」
思わず、あたしは声を張り上げた。
「だって、今の男の子って、全然そんなじゃないよ?
クラスの男子なんて、泣き虫で、ノートとってばっかりで、給食のトマト残してる子ばっかりだもん」
「……んだんだ、いまはな。変わったのさ。そいでも、そういう時代もあったっちゅうだけの話でな」
「ふぅん……でも、女の人のほうが、いろいろやってると思う」
「んだべなあ。あんたのママなんて、ほんとよくやってるわ」
その言葉に、ちょっと胸がちくっとした。
ママのことは尊敬してる。でも、もっと家にいてくれたらいいのに、って思ってた。
だからこそ、ばぁばやパパがいてくれてよかったと思う。
家の中の静かなぬくもり。
あたしが“演じる”という夢を抱く前に、そこに確かにあった、小さな愛の積み重ね。
あたしにとって、家族と過ごす時間が一番好きだった理由。
それは、あたしの中の“不安”や“違和感”を、誰も否定しなかったからだ。
だからこそ──ばぁばの話が、こんなにもあたしの胸に残った。
「……なんで男の人ばっかりじゃないの?」
家でたまたま見ていた舞台番組。いま思えば、『鏡ヶ丘(かがみがおか)歌劇団』の特集だったんだと思う。
舞台に立っていたのは、すらっとして背の高い人たち。だけど全員、女性だった。
しかも、その中には“男の役”を演じてる人までいた。
それが幼いあたしには、不思議でたまらなかった。
「ばぁばぁ〜、この人たち、なんで男のフリしてるの?」
「……んだなあ、それが“お役”ってもんよ」
襖の向こうでお茶をすすっていたばぁば──佐和子(さわこ)ばぁばは、そう言って笑った。東北なまりの柔らかい言葉。
「女が男を演じるっつうのはな、昔っから“夢”だったんだ。叶わねぇ夢を舞台の中でだけ、叶えてみせるんだっけ」
「ふぅん……へんなの」
「へんでえぇんだよ、舞台ってのはよ。現実じゃねぇ世界なんだから」
ばぁばの手は、いつも乾いててあたたかかった。
膝に座っているあたしの頭を、ぽんぽんと撫でながら、ばぁばは時々、自分の“若いころ”の話をしてくれた。
「ばぁばも昔はな、“鏡ヶ丘歌劇団”さ、入りてがったんだども……
うちのばっぱに“嫁に行く前にそんな恥ずかしいことすんな”て怒られてなあ」
「ばっぱ、って?」
「ばぁばの母ちゃんだな。……昔はな、女が表に立つのは“恥”だったのよ」
ばぁばの語り口にはいつも、“笑い”が混じってた。けど、笑ってるのに、どこか“寂しさ”が残るような声だった。
「ばぁばの旦那──あんたのじっちゃはな、戦争で南の島さ行って、そのまんま帰ってこなかったのよ」
「……死んじゃったの?」
「んだ。誰も“死んだ”とは言ってねぇけどな。骨のひとつも帰ってこねえ。置いてかれたこっちゃ」
あたしは、それが“笑って言える”ことなのかどうか、まだわからなかった。
でも、ばぁばは続けた。
「そっからだよ。世の中が、ぐるんと変わっちまったのは。
あんたのパパも知ってっぺ? 武(たけし)な、ほんとはもっと“男の子らしい”世界に生きてたかったんだども、あの人も言ってたよ。“男は減る一方で、女に養われる時代になった”ってな」
「……どうして、男の人って減ったの?」
「神様が、怒ったんだべさ」
それはきっと、ばぁばの冗談混じりの“答え”だったんだろう。
でも、その一言が、あたしには妙に印象に残った。
「神様が、戦争と欲張りと、力ばっかり信じる人間に呆れてな
……もうちょっと優しい生き物だけにしてみっか、って思ったんだっぺ」
「……それって、あたしたちのこと?」
「んだ。女の子ってのはな、“繋ぐもん”だ。命も言葉も、想いも。ばぁばはそう思ってっから」
ばぁばは、そんなことをさらっと言って、また茶をすする。そこには力も飾りもなかったけど、妙に重たかった。
そして、それを黙って聞いていたうちのママは、何も言わずに、ばぁばの横で編み物をしていた。あの人もまた、口数は少ないけど芯が強い人だった。
その言葉は、幼いあたしにはちょっと難しかったけど、でも──何となく、ばぁばの悔しさだけは伝わってきた。
「……でも、舞台に立つの、かっこいいよ。ううん、ばぁばの話、全部かっこいい」
「ほぉ〜ら見でみろ、ばぁば泣いちまうでば」
その時、笑いながら目尻を拭ったばぁばを見て、あたしは思った。
(──いつか、ばぁばの分まで、何かになりたい)
その“何か”が何なのか、わかるのはまだ少し先のことだったけど。
好奇心は、それからじわじわと形を成していった。
授業で出てきた「男女平等」という言葉が、教科書の中だけじゃなく、身の回りでもずっと“違って”聞こえてきた。
男子の方が評価されやすい。
女の子は目立たずに、控えめにしてろ。
男らしい、女々しい──その言葉たちの意味。
(……なんで“女々しい”って悪口みたいに言われるの?)
調べていくと、それは戦後の価値観がいくつもひっくり返ってきた歴史だった。
昭和二十五年、令和七年からさかのぼって七十年前、
いわゆる“改正婚姻法”が施行されたという記述を見つけた。
男性の四重婚、男性保護法──どれも今の感覚では到底信じがたい言葉。
でも、それがあったから、今の男女の在り方がある。
あたしの周りにいる、強くて美しい女性たちがいる。
「……あたし、知りたい」
学校の図書室で、ひとり調べものを続けるうちに、いつの間にかノートは“言葉”でいっぱいになっていた。
“雄々しい”は、かつては誉め言葉だった。
“女々しい”は、繊細さの象徴だった。
“男役”がかつての“理想”で、いまや“現実の選択”になりつつある社会。
ばぁばの言っていた「夢を叶える場所」が、あたしにとっても、“現実にする場所”になり始めていたのかもしれない。
その夜、ばぁばの入れてくれた番茶の匂いを嗅ぎながら、こたつの中で足をくっつけて、ぽつりと訊いた。
「ねえ、ばぁば。……あたし、舞台に立てるかな」
「……立てるさあ。あんたは、ばぁばよりずっと利口だもの」
「利口、じゃなくて……きれいになれる?」
ばぁばは、ふふっと笑った。
「きれいなんてのはな、他人が決めるもんじゃねぇ。
……あんたが、自分を好いと想える日がきたら、その日が一番きれいなんだべさ」
……あたしは、何も言えなかった。
ただ、ばぁばの横顔が、夕方の蛍光灯に透けて、やけに美しく見えた。
あれが、最初のきっかけだったんだと思う。
ばぁばのことば。
舞台の映像。
あたしの問いと、ばぁばの答え。
すべてが、あたしの“はじまり”だった。
設定として、第二篇ではあべこべになった理由を掘り下げていくつもりです。
原作で語られていた改正婚姻法というのが有ったので……。