ばぁばが亡くなったのは、寒い冬の朝だった。
その日は学校から帰ったあたしを、パパが玄関で待っていた。
普段は台所で晩ご飯の準備をしている時間なのに、手を前で組んで、困ったように立っていた。
「……麻里絵(ママ)と一緒に、病院行ったんだ」
ばぁばは眠ったまま、目を開けなかったという。
穏やかな顔だった、とママが言っていた。
パパは言葉を選びながら、「苦しまなかったよ」とだけ繰り返した。
葬儀の間、あたしは不思議と泣けなかった。
親戚の大人たちが形式的に集まり、僧侶の読経が響く中、あたしはただばぁばの“空席”をじっと見つめていた。
だけど、その夜、納戸の鏡の前でぽつんと一人きりになったとき、涙が止まらなくなった。
「……ばぁば……見ててよね……あたし、ほんとにやるから」
小さく、誰にも聞こえないように、そう呟いた。
ばぁばと交わした約束が、胸の奥で小さく灯った。
それでも翌日から、生活は何も変わらなかった。
学校にも行ったし、給食も普通に食べた。
でも何かがぽっかりと抜け落ちて、何もかもが空っぽだった。
そんなある日、リビングでぼんやりとテレビを観ていたあたしの目に、
ある舞台のダイジェストが飛び込んできた。《鏡ヶ丘歌劇団”》──ばぁばが好きだった劇団だ。
女優たちの姿が、まるで光を纏ったように舞台を動き回る。
その中に、あたしの知らない誰かの姿に、なぜかばぁばの面影が重なった。
(……あの中に、ばぁばがいた気がした)
そのとき、ようやくあたしの中の“喪失”が、じわじわと実感に変わった。
あの世界に、立ちたい。ばぁばと見た光の中に、今度はあたしが立ちたい。
「モデルに、なりたいの」
その言葉を最初に伝えたのはパパだった。
夕飯の後、食器を片づけるタイミングで、ぽつりと打ち明けた。
「ばぁばとの約束なんだって」
食器を拭いていたママが、手を止める。
「本気で?」
「本気だと思う。今まであんな目で何かを見てる明日香、見たことない」
ママはしばらく黙って、真顔で立ち尽くしていた。
「……現実は厳しいわよ。コネもない。芸能界なんて、ほんの一握りの成功者だけが生き残れる世界」
「でも、一握りに入らないといけない決まりもないだろ?
明日香が“やりたい”って言ってる。やらせてやってもいいんじゃないか?」
「……せめて、学校を疎かにしないこと。中途半端な夢を追いかけて、何も残らなかったってことだけは避けたい」
それが、ママなりの“折れ方”だった。
その夜はパジャマ姿で、パパとふたり並んでパソコンの画面を覗き込んだ。
芸能事務所、オーディション、応募方法、エントリーフォーム──子供でも応募できるような事務所やモデルエージェンシーの情報を、手探りで探していった。
「エントリーシートってこんなに細かいんだ……写真も要るんだね」
「スリーサイズ……身長140cm超……あれ、これ逆に不利か?」
※補足:芸能プロのジュニア枠では、平均身長100〜130cmを基準とする子役枠が主流であり、
衣装コストやキャスティングの都合から規格外の子供は敬遠されやすい。
オーディション会場には、光があった。けれど、その光はあたしには眩しすぎた。
女の子たちはキラキラのワンピースを着て、リボンを揺らしながら元気に笑っていた。
──小動物のような可愛さ。それが“求められる子供像”。
ロビーには、まるでカタログから抜け出したような女の子たちが並んでいた。
純粋に“可愛い”としか言いようのない子──くるくるの髪に、アイスクリームみたいな色のワンピース。
目が合っただけで笑みを浮かべるその仕草が、反射的に「守ってあげたい」と思わせる。
その隣には、元気いっぱいの子がいた。
背負ったリュックを上下に揺らしながら、スタッフにも「こんにちはー!」と大きな声で挨拶していた。
声だけで場が明るくなるような、太陽みたいな存在感。
もう一人──大人びた雰囲気の子。多分あたしより年上。
言葉数は少ないけれど、姿勢や視線の使い方が洗練されていた。
それでもふとした拍子にこぼす笑顔は、誰よりも自然で、柔らかかった。
あたしはというと、どこにも当てはまらなかった。
愛される“枠”に自分の居場所がないと、すでに分かってしまっていた。
小さな頃から、気づけばそういうふうに身構えて生きてきた。
可愛くも、元気でも、器用でもない。
だから、笑えない自分を責めるのではなく、ただ黙って、そこに立ち尽くすしかなかった。
「はい、次の方! 笑顔で、元気にお願いしますね!」
あたしは黙って、背筋を伸ばして立った。笑えない、動かない。
でもそれが、あたしの精一杯だった。
審査員の一人が、目を伏せるように視線を逸らした。
もう一人の男性審査員は、あたしを見る前からメモに何かを書いていた。
あたしの番になっても、誰も期待している顔をしていなかった。
期待のない目線というのは、言葉よりも冷たい。
“場違い”って、こういう空気のことを言うんだって思った。
目の前にあったステージが、急に壁みたいに感じられた。
“ここにいてはいけない”って、全身が言っていた。
「……ありがとうございましたー」
その一言が、あたしをまた外に弾き出した。
廊下に出た瞬間、視界が少し揺れた。
さっきまでいたロビーの喧騒が遠のいていく。
自動ドアが開く音が背中を押すようで、思わず早足になった。
外の空気は冷たかった。
けれど、それすらも体温を冷ますほどの敗北感には敵わなかった。
歩道を歩くたび、靴の裏がアスファルトを踏む音だけが耳に残る。
ふと立ち止まって、自販機のガラスに映る自分を見た。
笑っていない。目が死んでる。
「ほら、またそれ」と心の中で誰かが言った気がして、思わず顔をそむけた。
──だって、どうすればよかったの。
あの場で無理に笑って、ぎこちない笑顔を貼り付けて、空っぽの声で「よろしくお願いします!」って叫べばよかった?
そういう“ふり”ができなかった自分が悪いんだって、頭ではわかってる。
でも、あたしにはどうしても無理だった。
だって、そこにいた子たちは本当に輝いていた。
演じてなんかいなかった。
キラキラの笑顔、元気な挨拶、柔らかな眼差し。
あたしには、どれひとつとしてなかった。
わかってた。最初から。
でも、いざ突きつけられると──傷つく。
鼻の奥がツンとした。
泣くものか、と思った。
でも心臓のあたりがうるさくて、拳をポケットの中でぎゅっと握った。
「ばぁば……こんな時、なんて言うの……」
聞こえるわけないって分かってるのに、口に出してしまった。
その声は、街のざわめきにかき消された。
帰り道、パパと入ったラーメン屋は、駅前の古びた暖簾の店だった。
お冷のグラスが曇っていて、カウンターの隅に二人並んで座った。
あたしは味玉ラーメン。パパは醤油の大盛り。
「……ねぇパパ」
「ん?」
「ばぁば、ほんとにあたしがなれるって思ってたかな」
少しの沈黙のあと、パパは自分のラーメンの卵を、あたしの器にそっと移した。
「思ってたよ。ばぁばはな、あすかはやるときはやる子だって、よく言ってた」
「……でも、今日も落ちた」
「落ちても立ち上がるってことは、もう一歩前に進んだってことじゃないか?」
「……変なこと言う」
「パパは、あすかの一番のファンだから」
そう言われて、ようやく鼻の奥がツンとした。
その数日後。
スマホに通知が来た。
『子役モデルオーディション:二次選考通過』
──審査コメント:
『大人びた静かな表情と立ち姿に、独自の魅力がある』
あたしはスマホの画面を見つめながら、胸の奥で誰かが小さく頷いた気がした。
“ばぁば”だ。
追記エピローグ:合格の、その先で
「おめでとうございます。今後のレッスンスケジュールや撮影同行について、事務所から改めて連絡差し上げます」
通知のメールを読んでから三日後、あたしとパパは都心の片隅にあるオフィスビルの一室にいた。
子供向け芸能事務所──いや、“子供向けの育成機関”という方が近いかもしれない。
対応してくれたマネージャーは、はっきりとした声で言った。
「モデルとしての現場に出るには、まず“立ち方”からです」
足元の揃え方、視線の置き方、ターンの方向。何一つ、知らなかった。
知っていると思っていた“立つ”という行為が、ここではゼロからの再教育だった。
初日のレッスンでは鏡の前に並んだ。
「そこ、もっと膝伸ばして!背骨は棒、笑顔はつける!はい次!」
インストラクターの女性の声が飛ぶ。──無理だ。常になんて笑えない。
というか、どこをどうすれば“正解”なんだ。
「動かない子は映らない。映らない子は使われない。わかった?」
レンズの向こうに立つ資格。
それが“無言の表現力”だというなら──今のあたしには足りないものだらけだった。
他の子は違った。
あのオーディション会場にいたような子たちが、ここにもいた。
ふわふわのスカートに笑顔を貼り付けたような子。
動作一つ一つが可愛らしく、挨拶だけでその場が明るくなる。
元気いっぱいの子はレッスン前に自分の持ち歌を口ずさみながらストレッチをして、見ているこちらが気圧されそうだった。
そして、大人びているけれどふっと笑ったときの破壊力がすごい子。
あたしより年上で、すでに広告で見たことがある顔。キャリアの差。努力の差。全部、見せつけられていた。
それぞれに“強み”がある。あたしには、それがわからなかった。
「笑顔うまいねって言われた」
「今日、スチールの仕事ついたよ!」
楽しそうに話す声が、まるで別の世界の音のようだった。
レッスンでは「姿勢を意識して」と何度も言われた。
ポージングレッスンでは、基礎のウォーキング(スキャットウォーク)、
ターン時の軸足操作、表情筋トレーニングまで、ひたすらに繰り返し。
「明日香ちゃん、どう?慣れた?」
「……うん、まあまあ」
嘘だ。
全然慣れてない。むしろ、心が擦れて、毎日少しずつ痛い。
帰りの電車で、パパがそっと尋ねた。
「悔しいかい?」
あたしは迷わず答えた。
「……悔しい」
「じゃあ続けてみよう。向いてるかどうかは、そのあとで決めような」
あたしは少しだけ口角を上げた。
──悔しい。でも、やめたくはなかった。
オーディションに受かったのは、始まりじゃなかった。
「やる」と言った以上、やらなきゃいけないことが、山ほどある。
ばぁばに届くのは、ここからだ。
あたしは“子供”として扱われながら、“誰より大人びた立ち居振る舞い”を求められる。それが、“モデル”って仕事だった。