──STUDIO NEST(ネスト)、編集スタジオ。
倉庫内に設けられた編集用スタジオブースは簡単な壁で囲まれただけの簡素な代物で、
天井はそのまま倉庫の天井まで突き抜けている。
撮影されたばかりの写真や映像をここで流しで確認し再撮影となれば、
ブースを出てすぐ撮影スタジオで再撮影ができるのが利点だろうか。
白壁に囲まれたブースで、雫川がパソコンに向かい、数百枚の撮影データを高速で確認していた。
スタジオの空気には、まだ撮影現場の熱が残っていた。
天井から吊り下げられたソフトボックスがぼんやりと光を落とし、モノブロックの熱が床の端にまで残響している。
スタッフたちは各所でヘッドセットを外しながら、スチール素材を囲んで意見を交わしていた。
カラーチャートや反射板が壁際に立て掛けられ、脚立の上に三脚がまだ残っている──撮影の興奮が、まだ完全には収束していない現場。
その少し離れた場所、壁に背を預けて腕を組む明日香の耳に、FIGAROte編集部の副編集長の何気ない言葉が刺さるように突き刺さった。
「……明日香、覚醒したねぇ」
──は?
“覚醒”。勝手にラベルを貼るな。
感情を吐き出した瞬間を、都合よく演出に回収するな。
「ねえ、見て見て、この目線。完全に泣く寸前じゃない?」
「これとか、完全に“堕ちた女”の絵面。天才だよあの子」
──堕ちた、だって? あたしが?
……誰に? 透に? よりによって、あいつに?
喉が焼けるように熱かった。
叫びたかった。暴れたかった。
この机を蹴飛ばし、モニターをひっくり返してやりたかった。
だが明日香は何も言わない。ただ、奥歯を噛み締める。
静かに、胸の奥で噛み殺す。いままでだって、そうして生きてきた。
パパとママ、才能を見出してくれた澁谷社長やカレンに迷惑は掛けられない。
なによりも……ばぁばに恥じる生き方をしたくなかった。
こっちの気も知らず、編集者たちの笑い交じりの賞賛が、明日香の耳に鋭く突き刺さる。
──勝手に“覚醒”なんて括るな。
──あれは、あたしの怒りだ。恥も、悔しさも、血の味さえ混ざった、剥き出しの叫びだ。
「なあ、鈴ちゃんとはまた違うけどさ。あいつも“投影型”かもね。情動に憑依するタイプ」
「うんうん、彼女とは違う形で、見る側を飲み込む。今後もっと“使える”よ」
“使える”。
その言葉に、喉の奥が焼ける。
──まただ。あたしの感情は、あたしのものじゃない。
誰かの都合で切り貼りされる。勝手に共感され、勝手に“わかった気”になって語られる。
本当はわかってなんかいないくせに。
あのとき、あたしは透の目線を受けて崩れた“ふり”をしたんじゃない。
本当に崩れた、あたしが勝手に自爆しただけ。
恥も、過去も、鈴への感情も──すべて剥がされていた。
でも、それすら他人の口から語られるとき、すべてが意味を失う。
感情はいつも、他人の道具。
あたしの痛みは、絵になれば褒められ、売れれば正解。
──そう、諦めてた。
何度もそうされてきた。
だけど、やっぱり、腹が立つ。
このまま“そういう商品”で終わってたまるかって、心が叫びたがっている。
「……外、行く」
誰にともなくそう言い残して、明日香は編集ブースを出た。
足音が、怒気を抑えたリズムで室内にも響いた。
背後から聞こえてきた副編集の軽い声が、今はとにかく耐えられなかった。
倉庫裏手の喫煙可能な休憩室にもなっているエリア。
風がコートの裾を撫でる。ビルの谷間に沈む陽が、静かに傾いていた。
明日香は壁にもたれて空を見上げた。ビルとビルの狭間に切り取られた青の隙間。
その空気だけが、唯一の味方のように思えた。
──もう、大人は誰も信じたくない。
口を開けば企画の話。目が合えば“可能性”の話。
言葉ひとつで他人の価値を決める大人たち。
あたしの感情を燃料にして、勝手に車を走らせてるような人間たち。
“堕ちた”とか、“使える”とか……わたしの何を知ってんのよ。
溜め息をつこうとしたそのとき。
煙草の煙が一筋、視界を流れる。
視線を向けると、数歩隣。
雫川が静かに火をつけていた。
「……あんたもか。気付いたら横にいるタイプね」
悪態のつもりだったが、語気は弱かった。
雫川は無言で煙を吐き、いつものように何も言わない。
この会社の編集部で、黙々とカメラマンという業種にのみ徹する堅い大人。
雫川という大人があたしは嫌いじゃなかった。
むしろ、こうして何も押しつけてこないところを、少しだけ信じてさえいる。
撮るときも、黙って見ているだけ。
でもその“見る”は、本物だった。
仕事としても信頼してる。撮る腕もある。嘘はつかないし余計なことも言わない。
「勝手に撮られて、勝手に褒められて。あたしの何を知ってんのよ……」
あたしの吐き出すような声に、雫川はしばし沈黙する。
だからこそ、彼女の口から飛び出した一言が、胸に刺さった。
「でも、写ってたよ。ちゃんと、見てた」
「……誰を?」
「八代くんじゃない。影橋さんでもない。
あのときの飛鳥さんは──『影橋さんに見られていた自分』を、見返してた」
言葉が、胸の奥に突き刺さる。
「……なに、あんたまで“あたしの中の鈴”を見抜いてんの?」
「見抜いたんじゃないよ。八代くんを通して、君は自分と戦ってた。だから写った」
雫川の声は静かだった。感情の起伏もない。それが逆に、重たく響いた。
「写真って、嘘つかないよ。表情は作れても、瞳は濁る。あの時の飛鳥さんは──全部剥き出しだった」
あたしは、何も返せなかった。
言い返そうとした。
余計なことを言い始めたと、いつものように噛みつくつもりだった。
──でも、雫川の言葉は、どこにも逃げ場がなかった。
透を通して、鈴を見ていた。
いや、鈴に“見られていた”自分を、ようやく見返した。
図星だった。
そして、それを見抜かれた自分の浅さに、胸が痛んだ。
「……くそ……っ」
唇を噛んだ。
怒りとも悔しさともつかない感情が、喉の奥でうずいた。
こんなところまで、見透かされているなんて。
あたしは、まだまだ“演じているつもり”でしかなかったんだ。
「でもあれは、飛鳥さん自身が撮らせた表情だよ」
雫川は紫煙を吐きながら、小さく呟く。
自分の未熟さが、煙とともに空に逃げていくようだった。
──パルティール南青山、午後19時過ぎ。
──帰宅後。
シャワーを浴び、髪を拭きながらリビングへ戻った明日香は冷蔵庫から、
水のペットボトルを取り出すと一気に飲み干す。
──あたしは、また……やられたんだ。
誰にでもない、自分の身体がそう叫んでいた。部屋の電気もつけず、あたしはソファに体を投げた。
モノトーン基調の、必要以上に家具のない部屋は、まるでモデルルームのように整っている。
無駄がなく、虚しさすらある。
何もかもが整いすぎていて、どこにも“自分”がいない。
その事実が、今さらのように胸にのしかかってきた。
無意識にテレビを点けた。
画面に映っていたのは、モード特集のダイジェスト。
だがその中で、あるワンカット──鈴がリハーサルで魅せた、例の“あの構図”が、不意に現れた。
一瞬で、空気が変わる。
明日香の手が止まり、濡れた髪から水滴がぽとりと落ちた。
喉の奥がきゅっと締まり、ふくらはぎの裏側がぞわりと逆立つ。
心臓が、ひときわ強く鼓動した。
──カッ、と目の奥が熱くなる。
足の指先が冷たくなるほど、全身の血が一箇所に集まる錯覚。
熱いのか、寒いのか、もうよくわからなかった。
言葉も、息も出ない。ただ、見つめてしまった。
その一秒が、永遠のようだった。
そのまま過去の録画を流す。CMのアーカイブ。鈴と共演した日の素材。
──鈴は、何も喋っていないのに、空気を持っていく。
鈴の顔が映った、その刹那。
指に力が入りすぎて、リモコンを持つ手の関節が白く浮き上がった。
「……っ」
肩が跳ねる。まるで不意にナイフでも突きつけられたようだった。
──その無表情が、なぜか胸を抉る。
見ているのに、見透かされているようだった。
ただ立っているだけなのに、なにかが語られているようだった。
それが、悔しかった。
羨ましかった。
憎らしかった。
「あたし、あのとき、見えてなかった……」
シャワーで冷やして、拭いて、整えたつもりだった。
けれど、あの子は──画面越しに、あたしの肌に爪を立てた。
喉が詰まりそうだった。
言葉にした瞬間、何かが決壊しそうで、恐ろしかった。
気がつけば、ソファの背もたれにあたし自身が爪を立てていた。
レザーの表面が軽く爪痕を残すほど、無意識に。
胸がきしむ。身体の奥から何かが這い上がってくるようだった。
“見てほしかった”んじゃない。
“見ているつもりだった”。
でもその視線は、自分の期待と不安とエゴばかりで、
本当に相手を“見て”いたとは言えなかった。
そのことに、今さら気づくなんて。
──あたしはずっと、認めてほしかった。
鈴に。あの静かな瞳に。あの無言の芝居に。
「あたしはあんたに勝ちたかったんじゃない。
……あんたに認めてほしかっただけかよ」
吐き捨てた声が、壁に吸い込まれていく。
滑稽だった。
誰にも言えない本音を、独りごとのようにぶつけるしかない自分が、哀しかった。
ふと、思った。
──鈴も、こうして勝手に“解釈”されることが、悲しかったんじゃないか?
あの無表情の裏側で。
誰にも分かってもらえないまま、切り貼りされる言葉の檻の中で、
ただ“立っている”しかなかったのかもしれない。
だから、何も言わなかったんだ。
何も期待しなかったんだ。
それが彼女の強さで、同時に……。
明日香は、そっと目をそらした。
視界の端。画面に映る“白栞”の横顔。
それに、重なる鈴。
そこから目を逸らしたのは、
涙が視界を揺らすのが嫌だったから。
目元を押さえず、何も拭わず、ただじっと動かずにいると、
一筋、頬を伝うものがあった。
一滴だけだった。
けれど、それは、胸を裂くほどに重かった。
スズが寝ている。その寝息が、唯一の音だった。
……そのとき、寝息とは別に、羽音が小さく鳴った。
スズが羽をふるわせる。
まるで、誰にも言えぬ感情の波動が、空気を通じて伝わったかのようだった。
「……ばぁば、今の、見てた?」
呟きは、誰に届くこともなく、ただ部屋に溶けた。
深夜。窓辺で、スマホを開く。
新着メールがひとつ。
件名:FIGAROte 次回案件案内
件名を見た瞬間、一瞬、鈴からの連絡かと錯覚した。
ありえない。何年も業界で仕事をして共演もして、でも番号もアドレスも、知らない。
幼いころの焦がれが、いつからか踏み込むことの恐れに変わった。
勇気をもってあの頃のあたしが聞けば、あの懐の甘い鈴はきっと教えてくれただろう。
それでも、そうはしなかった。
ライバルという関係性が変わることが怖かったのかもしれない。
一生、敗北感を味わい続けて──それでも良いと思ってしまう自分になることが。
でも、どこかでずっと、待っていたのかもしれない。
……いや、待っていたんだ。ずっと。
あの静寂を割って、自分に振り返ってくれる“なにか”を。
馬鹿だ。
そんなものはどこにもなかった。
あたしはスマホを伏せ、鏡の前に立った。
その姿は、涙の名残で少し目の縁が赤かった。
髪も乱れている。
でも、そこにいたのは──まだ終わっていない、獣だった。
「“勝つ”だけじゃ足りない……」
低く呟いた声は、怒りと熱を孕んでいた。
「“喰らって”、骨まで噛み砕いて、飲み込む。あたしはそのためにここまで来たんだ」
熱が戻ってきた。心の奥が焼けるように、煮えたぎっていた。
透にも、鈴にも、雫川にも、編集部の連中にも。
誰にも渡してやらない。
あたしの舞台は、あたしが奪る。
鏡に映った自分に、静かに言い聞かせた。
「勝つんじゃない。“超える”。それが、あたしだ」
呟きは、誰にも届かない。
でも、自分には響いた。
それは、誓いだった。再起の咆哮だった。
静かなる、野獣の息づかいだった。
そしてふと、再び画面に目を向けた。
──この映像も、いまこの瞬間、どこかで再生されている。
──誰かが再投稿し、誰かが消費し、誰かが賞賛し、誰かが評論している。
それが“仕事”だと、分かっている。
でも──それでも。
自分の震え、焦り、嫉妬、劣等感。
その全てが“コンテンツ”として流通している現実に、どうしようもない怒りがこみ上げる。
──あたしは商品じゃない。
鈴に焼かれ、透に焦がされ、雫川に撮られ──あたしは、誰かの玩具じゃない。
あたしの“物語”は、あたしが奪る。
そう、これは咆哮だ。
市場じゃなく、心に響け。
演出じゃなく、生に刻め。
画面の向こう、静かに目を伏せる“白栞”に、
明日香は、真っすぐな目を返した。
「……あんたの物語があるなら、あたしの物語もある」
スズが小さく羽をふるわせた。
まるで、その言葉に呼応するように。
部屋の静寂が、いっそう深くなった。