灰の神は、演じきった   作:ククルス

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撮影日和、共鳴の朝

 

 

朝靄が晴れきらぬ山の中腹、

旧校舎を囲む木々の葉がざわりと揺れる。

 

その風の音は、昨日までの沈黙よりも、ずっと温かかった。

 

「今日も……ここから、ですね」

 

若林はポニーテールを結い直しながら、深く息を吐く。

彼女の横で、三神浩史は黙って煙草を吸っていて。

 

二人が見つめる先、モニターには白いワンピースの少女が立っていた。

 

昨日と同じ立ち位置。昨日と同じ表情。

──だが、まるで違う。

 

「昨日ほんの一瞬、だったけどな……」

 

若林の言葉に、三神が煙を吐く。

 

「彼女の目が、揺れた」

 

それだけの変化に、今、現場は賭けていた。

初日に進んだのは僅か3シーン、シーン32と34の二つと導入に使う風景撮影だけだった。

シーン32では確かに時間を使ったが、理由は三つあった。

 

 

真野が抉っていった一言は、八代透と影橋鈴の撮影に魅せられても

なお続行できるとは言い難かったのが一つ。

曇天の下、撮影されたシーンだったがあの後は快晴になってしまったのが二つ。

三つ目は影橋鈴にあった。

撮影シーンの順番に、気を使わなければならなかったのである。

白栞が感情を自覚し、蓮見に恋をする。それ早すぎても遅すぎでも良くはない。

百歩譲って、彼女が役者として器用に演じ分けられるとしてもそれは真実ではなく”演技”になってしまう。

他の役は兎も角、白栞は生きていないとならないのだと三神は考えた。

そして、必要以上の二人の接触は避けるべきだとも。

あれらは劇物に近い化学反応を引き起こすと、昨日の撮影で三神は感じたのだった。

 

彼女の無感情性は最早、一種の才能と言ってもいい。

両親が芸能関係で高名でなければ……モデルとして受け入れられていなければ、そのコミュニケーション能力は彼女を容易く排するだろう。

人間の武器は、知恵と共感性にある。

──が、共感出来ない異物にはとりわけ厳しいのも人間の本質だった。

 

この作品『鈴がなるとき』は音楽などの収録音響と実撮影、広告にのみ力を入れる。定まった制作費の予算配分からロケ地もスタジオも既に存在し、可能な限り使い回せるものを使う。

仕事を依頼され、若林の脚本を読み終わり、影橋鈴という少女に出会ってから決めた三神なりのルールだった。この作品に派手さなど不要である、と。

流行りのSFXや映像効果は入れねば観客が入らぬというならば、好きにすればいいとまでに製作委員会へ断言した。

 

初めての事柄で人間が花を咲かせる、その一瞬は”一度”しか訪れない。

三神は特にそう信じていたから、今回の自身の作品に監督としての名声を全てを賭けていた。

影橋鈴が、世間からは役所として三流から無能の烙印を押された少女が

花開く──その一瞬に。

 

準備が進む中、現場ひときわ目を引く人物が現れる。

和装の上に大判ストールを羽織った女優──神代 雅(かみしろ・みやび)だ。

その所作は一挙手一投足すらも絵になる。

 

「……本当に、演じていないのね、あの子」

 

白栞の立ち姿を見て、彼女はぽつりと呟く。

その口調には侮蔑ではなく、むしろ“畏怖”に近いものがあった。

 

「そういう子なんですよ。まだ、“女優”じゃないんです」

 

後ろから声をかけたのは、マネージャー・北里だった。

 

「……でも、“何か”がいる。昨日の彼女、そう見えた気がしたわ」

 

神代はそう言って、白栞と演じる少女を一度だけまっすぐに見た。

その視線が、鈴の背中を通して、確かに何かを測っているように思えた。

 

カメラが設置され、フレーミングが整えられる。

モニターの前には、映像撮影を担う西園 桐子(さいおん・きりこ)が静かに座っていた。

今日から現場入りした彼女は、三神に急遽呼び出された昔馴染みの撮影カメラマンだ。作品にも、役者にすら一切頓着しない業界の異端児。

「才能と、俺に出会わなければ人間社会で生きてすらいけない」と三神に言わしめる人間不適合。急に呼ばれたとはいえ彼女は台本すら読んでおらず、

昨日撮られたという映像にも、撮影現場の誰とも会話すらしていない。

見たのはこれから撮影するシーンのカット割りだけだ。

 

「……いい。今日の光は、やさしいわ」

 

それだけ言うと、彼女は黙り込む。

その目はただ、フレームの中に立つ“気配”を見ていた。

 

「位置、確認よーし。音、回す」

「……シーン35、テイク1──スタート!」

 

クラッパーボードが鳴る。

廊下の奥。

そこに立つ少女は、まるで風景に取り込まれた幽霊のようだった。

 

その静止に、透がゆっくりと歩み寄っていく。

 

足音ひとつ、呼吸一つを“演技の間”として計算しながら。

──鈴の目が、わずかに揺れる。

 

「……君、何か、聞こえた?」

 

透がそう囁くように問いかける。

台本にないセリフ。だがそれも、“蓮見 廻”として放たれたものだった。

 

その瞬間。

 

西園の視線が鋭くなった。

ファインダー越しに見えたのは、“誰かに反応してしまった少女”の瞳。

拒絶でも、恐怖でもない。

むしろ、その奥に一瞬だけ浮かんだのは──

 

「……好奇心?」

 

西園の唇が、かすかに動いた。

そしてカメラは、その“揺らぎ”を正確に捉えていた。

 

 

 

「──カット!」

 

三神の声が、控えめに響く。

ざわり、と現場の空気が動いた。

 

スタッフたちが互いに視線を交わす。

音声担当の女性が、手元のレベルメーターから一瞬目を離して、ぽつりと呟いた。

 

「今、……彼女、音を“返した”」

 

言葉ではない。けれど、確かにあった。

“問いに対する、気配の返答”。

 

カメラの前の鈴──白栞は、微動だにしていないように見える。

だが、その「立ち姿」に宿る“呼吸”が、はっきりと変わっていた。

まるで、「問いかけた者に、世界を少しだけ開いた」ような──そんな静かな兆し。

 

(……ボクじゃない。いま、反応したのは“白栞”だ)

 

廊下の奥で、鈴はただ静かに思う。

声にもならず、感情にも昇らないその感覚が、

しかし、身体の内側からじんわりと広がっていく。

 

(“応えた”んだ……)

 

休憩の合間、メイクルーム。

白い照明が無機質に並ぶ鏡前、

鈴は一人、映った自分を見つめていた。

 

髪をまとめ直してくれているメイク担当が、そっと問いかける。

 

「さっき、すごく良かったよ。……なんか、空気変わったよね」

「……ボク、なにかしました?」

「さぁ。でも、透くんの声に、ちゃんと反応してた。私には、そう見えたな」

 

返答に困り、沈黙を返すボクにメイク担当はそれ以上は言わず、道具を片付けて去っていった。

鏡の中に映る“白栞”。

──けれど、そこにいるのは誰?

 

「……ボク、反応した?」

 

言葉がぽつりと落ちる。

その時、控え室のドアがノックされた。

 

「失礼するわね」

 

神代雅が、ゆっくりと入ってきた。

鈴は思わず立ち上がりかけて、途中で止まる。

この人は“格が違う”──そういう空気をまとう人だ。

 

神代は鈴に近づき、鏡越しに目を合わせる。

 

「……あなた、本当に“空っぽ”なのね」

 

鈴は何も言えなかった。それは言われ慣れた言葉。

ボクの心を掻きむしる単語。

彼女ほどの役者に、いやだからこそ最も言われたくなかった。

でも、と続く言葉があった。

 

「でも、面白いわ。あなたの“無”は、私の“演技”を揺らす。台本よりもずっと強く」

 

神代はふっと笑って、鈴の肩に手を置く。

 

「今日は、楽しみにしてるわ。“千鳥”としてあなたを見るのを」

 

控え室を出ていく彼女の背を、鈴は黙って見送る。

ほんの一瞬、心の奥に奇妙な音がした。

 

(……期待、された?)

 

それは、これまで誰にも向けられたことのなかった視線。

鈴にとって、“無”を認められたことそのものが初めてだった。

 

自分の“存在”が、誰かの“演技”を揺らがせる。

 

──それは、演技だったのか?

それとも、まだ“反応”でしかなかったのか。

 

鏡の奥で、白栞が微かに首をかしげていた。

 

 

 

陽は高く昇りきらず、曇天の白が校舎を包んでいた。

その光の中、旧神社跡を模したセットに神代雅と影橋鈴が立つ。

 

境内の奥。

千鳥が現れ、白栞に近づくシーン。

 

初めて、白栞が“異界の存在と目を合わせる”場面だった。

 

「白栞ちゃん……」

 

その第一声は、神代雅の脚本にない“囁き”だった。

あまりにも自然すぎて、音声担当が一瞬拾い損ねかける。

だが、マイク越しに届いたその声は、

“誰にも届かないはずの優しさ”でできていた。

 

「……やっと、会えたのね」

 

その視線は、ただの演技ではなかった。

雅は、“影橋鈴”に触れていた。

 

まるで、「この子にこそ、自分の演技を捧げたい」と言わんばかりに。

 

鈴は、視線を逸らさなかった。

今までは、ただ「そこに立っている」だけだった白栞。

だがこの瞬間だけは──確かに、“演技を受けていた”。

 

(この人は、ボクを──見てくれてる)

 

演技ではない。

でも、演技を“理解しよう”としていた。

 

自分の中にある“何か”が、

ほんの少し、声の方へと傾いた。

 

“反応”ではなく、“応答”に近いものとして。

 

西園のモニターが揺れる。

ファインダーの奥、鈴の肩がわずかに呼吸で膨らむ。

 

まるで、胸の奥に押し込めていた何かが、

ようやくひとつ、解けたかのように。

 

「……その目は、まだ、生きてるのね」

 

神代の台詞が、深く、鈴に刺さる。

 

その言葉に、鈴は“演じることなく”目を見開き、

その一拍後──ゆっくりとまぶたを伏せた。

 

まるで、答えを出せない少女が、

それでも何かを“受け止めよう”としているかのように。

 

「カット、良い……今の、使おう」

 

三神の声が柔らかく響く。

続けてリテイク無し、その判断に現場に安堵の息がこぼれる。

西園がヘッドセット越しに「入ってる」と答え、

若林がそっとペンを台本の隙間に挟んだ。

 

メイクの一人が、涙を拭い目を逸らした。

 

誰もが──“何か”が通ったのを、感じていた。

 

その日の撮影終了後、鈴は静かに、神代雅のもとに歩み寄った。

何も言わず、ただ頭を下げる。

神代は驚いたように目を見開いた後、やがて、微笑む。

 

「ありがとう。……今のあなたは、白栞じゃなくて、影橋鈴だった」

 

鈴は、その言葉に──初めて、自分の名前が肯定されたような気がした。

 

夕方。撮影班が片付けを始めた頃。

三神監督は灰皿の前で黙って煙草を吸っていた。

その横に立つ西園が、ふと呟く。

 

「……“演技”が、始まりましたね」

「いや──まだ“始まる前”だ。ようやく“立った”だけさ」

 

三神は煙を吐き出すと、遠く校舎の方を見やった。

そこには、撮影が終わってもなお、

その場に立ち尽くす少女の姿があった。

 

影橋鈴。

 

彼女は今、

初めて“演じる者”として──世界に触れた。

 

 

 

神社跡のセット裏手に設けられた控えテント。

風除けのシートがぱたぱたと揺れている。

 

神代雅は衣装のまま椅子に腰かけ、銀の携帯灰皿の蓋を開け閉めしていた。

喫煙は許可されていない。だが、煙が要るわけではなかった。

この動作が彼女の“舞台下”を保つ儀式だった。

 

「こんなに早く呼び出されるとはね」

 

話しかけてきたのは榊原澄夫(さかきばら・すみお)

かつて“南條”を演じるはずだった男であり、

いまは“その役を真野に奪われた”男でもある。

 

「失望したろ、現場」

「別に。想定通りよ、あの子の“演技”は、見てないもの」

 

榊原が静かに笑った。

 

「君は相変わらず正直だ」

「でも──」

 

雅は銀の蓋を閉じた。

 

「あの子。影橋鈴。あれは、“何か”がある」

「演技じゃないのにか?」

「……演技じゃないからよ」

 

しばらく沈黙が続く。

 

雅の視線は、校舎の奥。白いワンピースが静止しているその一点へ。

 

「あの子には、感情がないんじゃない。“感情が入ってこない”のよ、こっちに。

 でもその代わり……なにか“ものすごい空洞”が見えてしまうの」

「空洞ね……」

「そこに誰かが触れたとき、どうなるのか。私はそれを、確かめたい」

 

榊原は腕を組んだまま、鼻を鳴らした。

 

「その“誰か”ってのが──八代か?」

 

雅は視線を戻し、頷く。

 

「読み合わせのときだった。あの子──八代透が、突然台詞を遮ったの。

 台本の蓮見じゃなくて、“彼自身”の声で」

「聞いてたよ。まるで、自分が脚本を書いたみたいだったな」

「違う。“彼が脚本を見透かしてた”の。あのとき、若林紗綾が一瞬息止めたの、見た?」

 

榊原は小さく笑った。

 

「見た。……それが面白くて、引き受けたんだろ? 千鳥」

「そう。白栞にだけ優しくする“異界の存在”。

 今のあの子に、届く役なんて、これくらいしかないと思って」

 

「届かせるのが、“演技”じゃないのか?」

「……そう思ってた。けど──」

 

雅は肩越しに校舎のモニターを振り返った。

 

「昨日の、八代との共演シーン。

 ……ほんの数秒だけ、彼女の目が“動いた”。」

 

榊原が目を細める。

 

「それを、演技だと?」

「違う。あれは、“本能”よ。

 ──彼の声が、あの空洞の中に届いた瞬間だった」

 

しばらく風の音だけが、テントを撫でた。

 

「……澄夫さん。私、あなたの後に来る女優としてね、

 この現場で何を残せるか、ずっと悩んでた」

 

榊原は頷く。

 

「そして、いまは?」

「確信したわ。“この物語は、あの子にしかできない”。

 だから、私は“千鳥”として傍に立つ。

 あの子の初めての“感情”が芽吹く場所に、私はいたいの」

 

「──神様役が、憧れるってか。面白いな」

「馬鹿言わないで。“人間らしさ”に触れて震えるのは、神様のほうよ」

 

神代は席を立った。

テントの幕がめくれ、曇天の光が覗く。

 

その向こう、白栞として立つ影橋鈴がいた。

 

演技ではない。だが、確かに──

あの身に“なにか”が宿りはじめていた。

 

(やっと、出会えたわね)

 

声には出さず、そう呟いた。

 

そして千鳥は、舞台へ向かった。

“共鳴”の場面は、すでに始まりかけていたのだから。

 

 

 

 

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