やはり好きなもの、実体験したものは情熱を持って書きやすいです。そう思うと、一度刺されたり撃たれたりしてみたいものですね、不謹慎ですが。
『演習問題③
半径Rの円に内接する△ABCにおいて、3cos A+5cos(B+C)=0が成り立つとき、cosAの値を求めよ。』
その問題を読みながら頭の中で図形が動き出す。半径Rの円、そこに内接する△ABC、cosAを求めるためにはどうするか。(B+C)をAを使って表すといい。
「おい拓海」
その言葉で全ての図形と文字たちは、思考の奥の薄暗闇に走り去っていった。
「もう閉めるから早く出なさい」
「あの先生、今日も7時までではないんですか?」
「言ったろ、明日は講師の研修があるから今日出なきゃいけないって。悪いけど自習は家でやって。それか図書館なら6時までは空いてるけど」
追い出されるようにして塾を出た。まだ抱えたままの問題集が寒風にあおられ、めくれたページからは演習問題の解答が見え隠れしている。
演習問題③
三角形の内角の和は180
以下のようになる。
B+C=18
次に、与
C
それを漠然と見つめている間にも、暖房で温められただけの体はみるみる冷えていく。後ろで鍵の閉まる無機質の音が孤独を掻き立てた。母親が車で迎えにくるのは毎日7時だ。母親お下がりの腕時計の針は5時11分を指している。予定表になかったから母親も気づかなかったのだろう。
ともかく、今、あと1時間49分の自由が生まれた。
あなたならどうするだろうか。突然に約2時間の空白が存在したならば。7時に塾の前に戻れば決して勘付かれることがないとしたら。
拓海は、今まで自由の存在を考えたことがなかった。だから、ただ茫然としていた。そうしている間にも哀しい音を立てて吹き続ける風が拓海の体温を奪い続ける。ジャケットは母親の車の中だ。
寒さの耐えかねた拓海は暖房を求め、行くあてもなく移動し始めた。
暖房があって入りやすい場所。拓海にとってのそれは、駅だった。母親の実家に帰る時にごくたまに入ったことのある場所だ。小さなショッピングセンターに隣接している駅は、歩くとそれなりに時間が潰せるかもしれないと拓海は考えた。数年振りに行くのだから、新鮮な気持ちで見てまわれるだろうと。
建物内は温まりすぎて澱んだ空気で満たされていた。それでも、拓海にとっては問題集をしまう余裕を取り戻すことのできる空気だった。
太くなった鈍い指でファスナーと悪戦するのに疲れ、なんとなく顔を上げると、上へと動く黒い階段が見えた。それは拓海以外の人には何度見ても平凡なエスカレーターだ。しかし拓海にとってそれは、ささやかな悪行へと誘う悪魔の階段のように見えた。
拓海の判断力を鈍らせた原因は、その階段に導かれて上の階へ行った先にあった。その緑の看板を見た時に初めて、拓海は自分が空腹であることに気がついた。拓海は匂いの縄に引かれるように入店し、曖昧な気持ちで席に座る。
楽しそうな家族連れの声、明るく笑う若者の集団の声。拓海は通路の向かいの、会社員だろうか、スープをスプーンいっぱいにすくって口に運ぶ男性を見ながら、しばらくその声を聞いていた。それを遮ったのは視界の端の端を素早く通りすぎた何かだったが、それはガチャコインを握りしめて走っていく子供だった。
流石に何か注文をしなくてはいけない、拓海はようやく思った。しかし方法がわからない。まずメニューを開いてみる。と、色彩豊かで華やかな料理たちが目に飛び込んでくる。とても見慣れない拓海は目をぱちくりさせた。
大きなページをめくるたびに姿を見せるのは、無機質で正しい文字と図形ではなく、生命力にあふれる食べ物達だ。紙に印刷されたものを見る、それだけで唾液が出てくるような味の濃い食物。またしばらく、拓海は静止してしまった。
とうとうまともに注文をしなければ店員に怪しまれてしまう。急に焦る気持ちになってページをめくる。そこに、『人気No1!』とあるものを見つけた。茶色いグラタン皿に米とチーズ、さらにその上に赤いソースがのっているようにみえる。拓海は見たことのない料理だったが、人気No1とあるのだからきっと美味しいのだろう。なんと言っても、拓海には他の選択肢を考える余裕が、お腹と時間の共になかった。
しかし注文しようにもやり方がわからない。店員を呼ぶためのボタンか何かがあるのか、それもわからない。
料理を運んでいる店員がいた。話しかけようとして、その両手にある重りを長くは持たせたくないと考えた拓海は、違う道から厨房に戻る店員を呼び止め損ねた。拓海の視線に気づいてくれた店員が笑顔でこちらにやってくる。
「お困りですかー?」
「あの、どうやって注文すればいいのでしょうか」
その質問は想定していなかったのだろうか、店員は一瞬警戒するような目つきで静止したが、髪を耳にかけると先程より不自然な笑顔で対応した。
「スマートフォンでこちらのQRコードを読み取っていただければ、そこから注文が可能ですよ」
「すみません、スマホ持ってないんです」
母親がいつも時間ぴったりに迎えに来るからと、頑なに連絡機器を持たせようとしなかったのだ。店員は明らかに拓海を訝しみながら、今度は真顔で答えた。
「でしたら、こちらの紙にメニューの注文番号を記入いただいて、また私たちに渡してください。そちらのボタンで呼び出すことができますので」
言い終わると店員はさっさと立ち去った。本当はこの場で紙まで渡したかった拓海はもう一度店員を呼び出すというプレッシャーに項垂れたが、空腹のままに手を動かして注文番号を書き留める。またあの店員が来ませんようにと願いながらボタンを押したが、来たのはあの店員だった。
「ご注文お決まりですかー」
店員はもう愛想良くする気もない。
「これですね、わかりました。お待ちください」
店員が去った後、拓海は大きく息を吐いた。レストランというものはこんなにも疲れるものなのかと。
通路向かいの会社員は、ほうれん草のソテーをフォークで刺しては頬張り、少なくなったスープに丸いパンをちぎってつけては充実した表情で咀嚼していた。人の流れによって微弱な風が生まれ、それが春風のようにやさしい香りを運んでくる。拓海は塾で終わらなかった問題集を開こうとしたが、それよりもこの束の間の安息に浸ることを優先した。
行き来する店員たちを目で追っていると、そのうちの1人がこちらに近づいてきた。運ばれてきた『なんとか風ドリア』という食べ物は、湯気がたちのぼっていて最上の香りがする以外は画像を全く同じだった。また十数秒の捜索の後に見つけ出されたスプーンを持ってひと掬いする。目の高さまで持ち上げると、かすかな手ぶれが赤いソースを震わせているのがわかる。湯気を吹くのも忘れて口内に突っ込む。
「あっつ」
まだものすごく熱かった。口を尖らせて口の中に空気を通す。それでも舌がひりひりする。二口目は慎重に冷ましたが、味がわからない程に熱い。
半分食べた頃に、やっと味を感じられるようになった。はじめに急いて食べ進めたことを後悔する。チーズかと思っていたものは白色のソースだった。それが肉の味が染みているソースと温かいお米と混ざり合って、口内の筋肉を震わせて唾液を出させる。本当はよく噛みたいのに、もっと口いっぱいに入れたくてどんどん飲み込んでしまう。
食べ終わった時もまだ物足りなさともっと食べたいという欲望が湧き上がってくる。
しかし、拓海はようやく冷静になった。
自分はどうかしていた。
自由時間ができた興奮で熱くなっていた。
今までは考えたことのない罪深い悪行、母親に報告もしないで1人でこんなところで食事をしてしまって。
幸い、非常用に母親に持たされたお金で食べ逃げをせずに済む。が、もし発覚したら母親は自分を責めるだろうか。それとも、いつものように教育の至らぬ母親自身を責めて髪を掻きむしって本で額を叩いて毛布の塊の中で泣くだろうか。拓海は、自分が攻撃されるより、他人である愛憎の母親が傷ついているのを見る方が苦痛だった。なんとしてでもばれることのないようにしたい。
壁の時計は6時23分を指している。そろそろ塾の向かわなくてはいけない。母親は7時に外に出た時には既にいるのだから。
会計の方法もわからない。メニューの表示に従って100円玉を2枚と10円玉を10枚取り出しながら周りの様子を伺うと、例の会社員も立ち上がるところだった。なんども彼の方を見ながら、皿をテーブルに置いてくことに驚いてそれで本当にいいのか不安になりながら、彼の行く方へ拓海も歩いていく。
会社員の向かった先は入り口の近くのレジだった。後ろに並んだが、170後半はあるだろうか、思ったより会社員の身長が高いのに威圧感を感じてしまう。しかしその広い背中からは満足感が滲み出ていた。
拓海も手探りで会計を済ませ、外に出る。会社員は空を見上げながら反対方向に歩いて行った。名残惜しかったが、彼が角を曲がるまで見つめている余裕はなかった。拓海は塾の方向に向けて歩き始めた。いつも母親は何時ごろに塾の前に着いているのだろう。50分だろうか、40分には塾の窓を見つめているのだろうか。
そう考えるともっと急がなくてはいけないような気がして、どんどん速足になっていく。気が急いて、息も荒くなってくる。拓海は終いには走っていた。
母親は拓海が塾の前に着いて息も整わないうちにやってきた。車内の母親はいつもの通り、神経質な目で拓海を見た。
「早いね。今日はもう終わりなの」
「うん…そうだよ。今日は先生が出張行くから早く閉めないとって言ってた」
「そう。いつも7時までやる分、それだけのお金を払っているはずだけど」
「家でやるから。それに先生、今度埋め合わせするって」
「埋め合わせ?……そう」
また拓海は嘘を重ねてしまった。罪悪感に苛まれようとした時、右手の中に何か感触を感じた。手を開くと、その中には強く握られて手汗で湿ったレストランのレシートがあった。
「母さん、ちょっと窓を開けて欲しいです」
母親は無言のまま、拓海の座る席の窓だけが半分開いた。夜風が風を掠める。コンビニの明るすぎる看板越しにレシートを見て、それを外に投げ捨てなければならないと思う。証拠隠滅は大切だ。母に悟られてはいけない。
しかし、何かが拓海にそれを止めさせた。そのレシートの皺を広げ、問題集の適当なページに挟み込んだ。
拓海は、何かに一歩近づいたかもしれない。