野生動物を見た。それは鳥となって、雲の隙間に微かに見える青空にその嘴を突き立てた。それは魚となって、先の見えない闇の底へ深く深く潜った。未来へも過去へも、その動物ならば行けるだろう。
そんな大層なことを考えさせるのは、自分の先輩だ。名は伏せて、仮にA先輩とする。自分はこの高校に入学してから彼と共に1年間、この文芸部で活動をしてきた。
入学して少し経った頃、ある人に、他の文芸部員とは違うものを感じた。自分も彼も頻繁に部室に来たため、必然的に距離は近づいた。それと同時に、その先輩の底の知れなさを感じた。それが、A先輩だ。文芸の、文章の、文学の、自分の全く知らない領域を知っている。単純な感嘆の重なりが尊敬に、畏敬に変わっていった。そんな彼は、課題が終わらないと嘆き、開き直るような、普通の高校生の一面も見せた。少し驚きを感じつつも、先輩の新たな一面を見れたようで嬉しかった。先輩はたまに勝手な行動を見せた。先輩を取り巻く何人かの文芸部員はそれに振り回され、自分もその渦の中に揉まれた。その時は先輩を嫌った。
いつからだろうか、A先輩を意識し始めたのは。自然なことだったと思う。最初は自分の中でも冗談のつもりだった。しかし、考えれば考えるほど、先輩が好きでたまらない。信者のように好きな状態が、最近は恋愛感情のようにも感じる。先輩のことを考えると感情が昂って涙が出てくる。悲しくも嬉しくもない。感動の涙に近い。ドキドキするという言葉が正しい。先輩の顔とか見た目じゃなくて精神面が好きなのだ。
自分は思春期なので、少し親密になったらすぐその感覚に名前をつける候補として恋を考えてしまう。そうしたら対象が増えすぎるから、恋である定義を作り、条件を付け加えて対象を絞ろうとする。
「その人を、最終的には性的な部分まで含めて知りたいと思うか」
という条件だ。先生は性格が好みなだけ。友達はただの友達。クラスの人は他の人といちゃついているのを面白く観察したいだけ。
その話を親とした時、「その絞り方をしたら恋愛対象がいなくなった」と言ったが、嘘だ。いる。先輩のことは知りたい。今は性的なものは全て気持ち悪く感じるのでそれはないが、精神面は全て知りたい。好きなもの嫌いなもの嬉しいこと悲しいこと将来の輝かしい理想まで。苦しい悩みを叫んで泣いて欲しい。それを慰めたい。逆に全てを打ち明けて抱きしめてもらいたい。
A先輩になら殺されてもいい。その怒りを自分の体で受け止められるだけ精一杯受け止める。
A先輩に追いつきたい。先輩の様な文章が書けるようになりたい。でも追い越したくはない。ずっと先輩の背中を追いかけたい。立ち止まってほしくない。立ち止まったら自分が押すし、自分が立ち止まったら引っ張って欲しい。
普段映画とかでは絶対泣かないのに、先輩の文章がいいとか、そんなことを考えると説明のつかない変な涙が出そうになる。多分感情の昂りによるものだ。
先輩に支配されたい。でも先輩はそんな人じゃない。
世間は自分をなんというだろうか。純愛、歪んだ愛、ただの承認欲求、思春期の気の迷い、ドM。全くその通り。だから、どうすればこの気持ちを抑えられるかを考えた。このままだと先輩に嫌われるような行動をしてしまいそうだった。そうなれば、先輩はこの俗世から逃れるようにイヤホンを耳に押し込み、中原中也の詩を聴きながら帰ってしまうだろう。
勝手な気持ちだが、A先輩は多分一部の人を狂わすようなカリスマ性か、独裁性の高いリーダーか、そうでなければ教祖になりそうな力があると思う。彼は交友関係が広く、校内にはたくさんの友達がいたし、交流会では「A先輩を推している」と公言する人までいた。驚いたことに、実際に小説を書き、賞もとっている本物の小説家とも仲がよかった。その小説家はA先輩の文に興味を持ち、個人的に文章のやり取りをしていると、誰かから、覚えていないけれど、そう聞いた。そんなA先輩だから、自分以外にも先輩に好意を寄せる人がいるはずだと思うと、嫉妬で胸の真ん中に熱く細い棒を突っ込まれたように苦しくなる。
先輩の文は全てとても素晴らしい、少なくともそう思う。その気持ちが急激に膨らみすぎて、おかしなくらいに大きくなってしまって変な気を起こしてしまうのだ。恋愛感情に近いほどの惹かれる気持ちがある信者みたいになり、好きかと思ったら先輩の苦手な部分も感じてしまって、変な愛憎がある。
きっとあなたも自分と同じくらい先輩に接すれば、同じ状況になるだろう。
いや、自分は先輩のことが嫌いだ。
考査と部誌の完成前で忙しいのに、綴じ作業をしないくせに何度も部室に来て、愚痴を吐いてくる。しかし、一度の中で正しいと決まったことに関しては、誰の意見も聞かない。その嫌悪感が必要以上に自分の中で渦巻き、イライラする。
憎いほどに嫌いだ。もう絶対にA先輩には誑かされないぞと決めた。あの魔力にはかからないぞと決めた。
ある日、夢を見た。自分と、数人は屋敷の中に入った。その数人は夢の中では何となく知っているけど明確な関係はなく、現実では知らない、人間かもわからない人々。しばらく探検した後、出ようとしたが、何となく出づらい。ドアは遠く、窓は鍵が開きづらい。やっと開いたと思ったが、そこは狭い中庭で、芝生以外に何もなく、3mくらい先には数mはありそうなほどの頑丈な壁があった。その窓がある部屋は広く、一辺が1mくらいありそうな四角い柱がたくさんあり、他の部屋以上に散らかっていた。地面に爆竹の破片がたくさんあることに気づき、同時に、過去そこにA先輩がいたということに気づいた。なぜ気づいたのかはわからないけれど、夢によくあるご都合展開だ。その部屋にはA先輩と共に何十人もがいる。A先輩はリーダー的存在なのだが、何か気に入らないことがあったのか、思い通りにならなかったのか、そこにいた6割の人々の腰を銃で撃って殺してしまった。自分はそれが信じられなかった。先輩はそんなことをする人間じゃないと。しかし、自分と共にいた数人は、先輩を擁護するような者は拘束しておかなければならないと言った。自分はとても困惑して混乱した。
また、ある部活の帰り、早めに部活から抜けたはずのA先輩に会い、そのまま2人でバスに乗った。自分は、将来何かやりたい、なりたいと思っても行動できない。高校に入る時、勉強はできなくてもせめて文芸をやると決めたと言った。A先輩はいつもの苦笑いを浮かべた様な微妙な表情をしながら、それでも、将来文芸で生きていくためには勉強ができなくてはいけない、国語力、文章力、語彙力とかね、と言った。そしてまた、A先輩に対する情熱が湧き上がってきた。
また、好きになった。前と違うところは、どこが好きかはっきりしたところだ。自分は、彼が好きなのではなく、彼の書く文章、文章を書き、文章のことを考えているA先輩が好きなのだ。先輩がただの高校生になったら冷めてしまうだろう。前冷めた時も、嫌な部分、普通の高校生の部分を強く感じたからだったような気がする。一時的に距離を置き、悪い部分を忘れかかっている。そのせいだろうか、また先輩のいい部分だけを見ている。きっと、「文芸を追う先輩が好き」なのだろう。その像としての、姿、声、文章、そして文章を書く手が好きなのだ。
部室に落ちていた封筒を拾ったら、A先輩の私物だった。小説家からの手紙で、普段先輩から匂うものと同じ、防虫剤の匂いがした。興奮した。封が切られていた。開けてみた。先輩の中を覗くことへの罪悪感を減らすため、焦点をずらしながら読んだ。小説家は先輩が以前書いた文章への賞賛の文句をA4用紙の2枚に渡って書いていた。また嫉妬した。しかし、今回は嫉妬だけではなかった。諦めだ。どう足掻いてもA先輩に追いつくことは不可能だと。とても小さい頃から本を読み漁り、小学生の時から小説を書いていた先輩には。きっと、自分が何か小説を書いて、それが世間に認められた時、先輩はとっくにその章の審査員席にいて、苦笑いのような笑みでこちらをみているのだろう。針金が回転しながら心臓を傷つける苦しさ。
熱意がまた変化した。今は少し嫌い。今まで先輩として無条件に尊敬する代わりに、色々なことを頼っていた。綴じ作業にはあまり来ない先輩でも、外部とのやり取りや、文芸部をまとめていたのはA先輩だったから。実際能力があり、自分たちがやるよりも先輩がやった方がよい状態で、それに甘えていた。
昔に戻りたいと思う。先輩というだけで無条件に尊敬していた1年前に。アーモンドを噛んでいるような感触が口内にある。必要以上に油分が多く、古いのか、苦い。湿気っているのか、ずっとギュムギュムと砕けない。苦い油分だけが溢れてくる。
A先輩は小さな文芸部で燻っているべき人間ではない。もっと外で羽ばたいてほしい。鶏口となるも牛後となるなかれ、と言うが、鶏口になれば、それ以上はない。牛後となれば、牛口にも牛角にも、なって行けるかも知れないではないか。もちろん自分は、A先輩は牛角になった時、その能力には裏の努力も知らずに嫉妬するだろう。全力で追いついてやろうとしてやろう。たくさん走って、全速力で走って、息が切れて筋肉が切れて倒れそうになっても、全力で先輩の背中を置い続けたら、いつか先輩の横に立てるだろうか。
自分がそんなことをずっと書いていたAIが言った。
「今のまま「先輩の背中」だけを追い続けて全力で走っても、残念ながら彼の真横に立つことはできません。 背中を追っている限り、あなたの足跡は常に「彼の通った跡」をなぞるだけになってしまいます」
やっぱり、先輩が好きだ。先輩に近づくまでは、背中を追いたいと思う。
先輩はこの文章を読むかもしれない。読んでいるのならば、この文章の拙さと癖と際限のない熱さに苦笑しているだろう。きっとそうでしょうね。笑ってください。先輩が笑ってくれると自分は嬉しく思います。