クリスがミシェイルと初めて出掛けた日の夜、彼からLINEが来た。
Misheil:チケットがあった。来週土曜日のチーム・アリティア対チーム・ドルーア戦で構わないか?
Kris:はい。俺はアリティアの大ファンなので、とても楽しみです。
Misheil:それはよかった。当日は車で迎えに行く。時間と場所はまた連絡する。
「え……車で?」
クリスは思いもかけないミシェイルからの申し出に戸惑った。養父も車を持っておらず、車で移動するという発想自体がクリスにはなかったからだ。それでも、せっかくミシェイルが段取りを組んだのだから、彼に任せることにした。
*
「はっ、はあっ!」
ミシェイルと出掛けた日から数日後。自宅に隣接する道場で、クリスが養父のマクリルに厳しい目で見守られながら武道の型をなぞっていると、漸くマクリルが『そこまで』と言い、クリスはゆっくりと構えを解いた。もう外はすっかり暗くなっている。マクリルは平日の夕方から夜にかけて年代ごとに武道の教室を開いているため、必然的にクリスの指導はその後になってしまう。学校から帰宅すると、クリスは夜の稽古までに勉強やその他諸々を済ませておくのが常だった。
「今日はもう終いじゃ」
マクリルが柔和な笑みを浮かべて言い、その日の稽古を終えたクリスは深く息を吐いた。そしてそのとき、クリスはマクリルに話さなければならないことがあることを思い出し、口を開いた。
「じいちゃん……」
「ん? なんだ? クリス」
「来週の週末、サッカー観戦に行く予定なんだけど……」
「ルーク君たちとか?」
「いやルークたちとじゃなくて、この前一緒に出掛けた孤児院の活動で知り合った友達」
「ああ……別に構わんが……チケット代や交通費、スタジアム内での飲食代を合わせるとけっこうかかるじゃろう? 臨時の小遣いをやった方がいいかね?」
クリスは稽古があるため、バイトはしていなかった。
「あ、ううん。そういうつもりでじいちゃんに話したんじゃないんだ。チケットは俺の分も友達が用意してくれるっていうし、車で行くから……」
「車? その友達というのは年上なのか?」
クリスは17歳でまだ運転免許は取れない。学校の友達たちも進路が決まってから教習所に行き始めるだろう。
「うん、そう。それで……さ」
クリスは言い難そうに、
「チケットはたぶん市や民間会社の懸賞に当たったんだろうけど、俺てっきり電車とシャトルバスで行くと思っていたからさ。俺の方から誘ってるし、車を出してもらうことになって悪くて……」
とクリスは後頭部に手を遣った。
「それで何かお礼をしようと考えたけれど……そんなに高価なものは買えないから……後日、その友達に家に遊びに来てもらってもいい?」
来てもらって、手料理を御馳走するつもりだった。食材を買うのに困らない程度の小遣いは毎月養父にもらっていたから。
「来てもらうのは構わないが……」
「よかった。ありがとう、じいちゃん」
養父の許可にクリスはほっと胸を撫で下ろしたのだが、マクリルは少し考えて、
「儂はその日いない方がいいのか?」
と聞いた。
「えっ!? いや、全然いてくれていいよ。寧ろいてくれた方がいいかも」
「そうか。それならその新しい友達とやらを見てみようかのう」
クリスは何となくミシェイルと二人きりだと緊張してしまう気がして、マクリルはマクリルでクリスの新しい友達に少なからず興味が湧き、二人は顔を見合わせて笑い合った。
*
そしてサッカー観戦の日。クリスはミシェイルが待ち合わせ場所に指定してきた“飛竜谷不動産”という会社に、彼がLINEで送ってきた地図を頼りに向かっていた。そこがクリスの家から一番近いマケドニアHDの子会社だったからだが、それでも電車で数駅、最寄り駅からも多少離れていた。クリスの家に駐車スペースがなく、周辺の道路も道幅が広いとは言えないので、そこの駐車場を使うことにしたらしい。
「飛竜谷不動産……ここか。けっこう大きな会社だな」
駅から歩いて数分。目的の場所に辿り着き、クリスは会社の表札を確認して呟いた。腕時計を確認すると待ち合わせ時間の15分前だった。
――よかった。間に合った。
ホッとしたクリスは『門は開けておくから入ってきてくれ』とミシェイルに伝えられていたことを思い出し、その言葉通り開け放たれている門から中へと入った。
「ええと……あっ」
クリスが駐車場を見渡すと、黒いセダンに寄り掛かりスマホを操作しているミシェイルを見つけた。彼は高そうな黒いスーツを着用していた。
――俺、こんな格好でよかったのかな?
前回会った時と同じことを思う。サッカー観戦に行くのだから今のようなTシャツ・ジーンズ・パーカー+リュックで何ら問題はないはずなのだが、クリスは近づくと前回と同じく些か引き攣った笑顔で声を掛けた。
「こんにちは、ミシェイルさん」
「クリス」
ミシェイルはクリスを見ると嬉そうに微笑んだ。
「待たせてしまいましたか?」
「いや、今来たところだ。では行こうか」
「はい」
また前回と同じような会話の後、二人は車に乗り込んだ。ドアが閉まった瞬間、ふわりと良い香りがして、クリスは初めて触れる上質な香りに一瞬クラッとした。
「あ……」
「うん?」
「何か、……その。良い香りが……」
「ああ。オードトワレをつけているからな」
「オードトワレ……」
「香水の一種だ」
ミシェイルは答えて車を発進させ、会社の門を出ると一旦停車し、リモコンを操作して門を閉めた。次にカーナビを操作して「アリティア・スタジアム」を設定する。カーナビの画面をふと見てクリスは到着予定時間が試合開始時間の20分前であることにぎょっとした。
――えええええ!? 周辺の臨時駐車場はスタジアムに近い処から埋まっていくから、この到着時間だとかなり遠い場所に停めることになってしまうんじゃ……?
と内心焦るが、乗せてもらう身でそんなことは言えない。
――走れば間に合うかもだし、最悪キックオフに間に合わなくても仕方ないっか。
と覚悟を決める。そんなクリスの胸の内など意にも介さず、ミシェイルは黒のセダンを静かに発進させた。車は滑るように一般道を走った後、高速に乗る。ちょうど夕暮れ時で空は茜色に染まっていた。
「うわぁ、綺麗!」
フロントガラス一面に広がる夕焼けにクリスが感嘆し、思わず同意を求めるように横のミシェイルを見て言葉を失った。サイドウインドウに映る黄昏に沈みゆく街を背景に、夕陽に照らされた彼の横顔は絵画のように美しく、恰も映画のワンシーンであるかのように錯覚する。クリスは自分でも信じられないほどドキドキして、慌てて視線を前方に戻した。
「ああ、綺麗だな」
そのときミシェイルが遅れて相槌を打ち、クリスは一層動揺して顔が熱くなる。それからは何を話していいかわからなくなり、暫くの間、クリスは緊張した面持ちで沈黙していた。そんな中でふいに、
「……武道大会、優勝おめでとう」
ミシェイルが言った。
「え……何で知って……?」
「ネットで見た」
「ああ……あはは……そう、ですか……」
クリスが落ち着きなく頭に手を遣る。
「大学へも推薦で行けるレベルだろうが……進学するのか?」
「……じいちゃんは進学を勧めてくれるけど、俺自身は高校を卒業したらじいちゃんの道場を継ごうかなと思っています。じいちゃんももう歳だし……それに俺、養子なんです。成人してから四年間も学生でいるのは……」
「尤もらしい理由をつけて自分を納得させるのは止せ。養父が進学を勧めてくれるなら、何はばかることなくそうすればいいだろうが」
「ミシェイルさん……」
「やらずに後悔するより、やって後悔する方がずっといいからな」
とミシェイルはクリスの方を見てニヤリ、と不敵な笑みを浮かべた。すぐに視線を前に戻したものの、クリスはその笑みにもドキリとしてしまう。何故かその時また、オードトワレが香った気がした。
――何か俺、変? だよな。
クリスはぼんやりと目の前のエアバッグの辺りに目を落とす。徐々に昏くなっていく夕焼け空も、もはや目に映っていなかった。
漸くスタジアム最寄りのインターに着き一般道に降りる頃には、地上近くに僅かに橙色が残る空はインディゴブルーに変わっていた。車を走らせ続けると、やがてまばらに民家が点在する整地されていない平地が広がる中に堂々と聳え立つ巨大なスタジアムが遠く前方に見えてくる。
――この辺で車を停めないと、スタジアム近辺の駐車場はもう空いていないんじゃないだろうか?
道路の端をスタジアムに向かって歩いて行く人たちを追い越す度にクリスは心配になるが、ミシェイルは全く気にしていないようだった。そのうち、通り過ぎる臨時駐車場も“満車”の札が出ている処ばかりになっていた。
――うーん……ミシェイルさんが駐車できないと気づいて引き返して、改めて遠い駐車場から徒歩でスタジアムに向かうとなると……試合の前半をかなり見逃しちゃうな……
駅とスタジアムを行き来するシャトルバスが通る、スタジアム前の四車線の国道に差し掛かった時点でクリスは試合の開始時間までに観覧席に着くことをほとんど諦めていた。その時、
「えっ!? ミシェイルさん、スタジアムの敷地内に車で入っちゃっていいんですか!?」
ミシェイルが国道を過ぎてスタジアムの裏手に廻り、敷地内に車を乗り入れたのでクリスは焦った。だが彼は、
「問題ない」
とだけ言って空いている駐車スペースにセダンを停めた。
「着いたぞ。降りよう」
「え……と、ここ、選手たちやスタッフさんの駐車場じゃ……?」
「俺の持っているチケットはここの駐車場を使う権利も込みだ」
クリスが戸惑って聞くが、ミシェイルがそう言って車を降りたので、半ば呆然としながら降りた。
「さあ、行こう」
呆気にとられるクリスにミシェイルは微笑み、言った。
クリスがミシェイルの後についてスタジアム裏手の階段を上って行き、上階の外回廊に着くとそこには受付があった。ミシェイルはそこでチケットを見せて通り過ぎ、その先にある自動ドアの中へ入る。クリスも彼に続いて中へと入ると……
「え……」
そこはマンダリンオレンジの絨毯床の上に座り心地の良さそうな四つの一人掛けソファーがセットされた正方形のローテーブルが等間隔で配置された、まるで高級ホテルのラウンジのような、横長の広い部屋だった。