私には、最近どうしても目で追ってしまう人がいる。
バイト先のカフェに、毎日のようにコーヒーを飲みに来る青年。いつも静かに現れては、静かに去っていく。落ち着いた仕草と、どこか知性のにじむ佇まい。まるで、私とは住む世界が違う人みたいに思える。
「休憩、行ってきます」
スタッフルームに声をかけ、いつもの路地裏へ。
ライターの火をタバコの先に灯して、ふう、とひと息つく。街の喧騒から少し離れたこの場所が、私のひそかな逃げ場だ。
白い煙を吐きながら、自然と彼の姿が頭に浮かぶ。
「……今日も来てたな、あの子」
頼むのはいつもホットのアメリカーノ。席には長居せず、スマホも触らず、ただゆっくりと一杯だけ飲んで、静かに帰っていく。まるで日課のように。
きっと同じ大学生なんだろうな、と勝手に思っている。黒髪で清潔感があって、真面目そうな雰囲気が、どこか“ちゃんとした人”っぽい。
金髪に染めて、バイトが終われば遊び歩いてる私とは、大違い。
──不思議だな。話したこともないのに、なんでこんなに気になるんだろう。
「……ん」
ベッドの上で目を覚ます。スマホの画面には、まだ十分に1限に間に合う時間が表示されていた。
昨日は珍しく寄り道もせずに帰宅して、ちゃんと寝た。たぶんそのおかげで、今朝はわりとスッキリ起きられた気がする。
ゆるく髪を整えて、アパートを出る。大学までは徒歩圏内。こういうとき、やっぱり近くて便利だと思う。
通い慣れた道を歩いていると、前方に見慣れた後ろ姿があった。どこかで見たような——というか、見てる。いつもバイト先の喫茶店に来ている、あの青年だった。
「あ……」
思わず小さく声が漏れる。イヤホンをつけていたから聞こえてないだろうと思ったけど、その瞬間、彼はふと立ち止まり、こちらを振り返った。
「……喫茶店の子?」
え。
覚えられてた。え、ちょっと待って。今の私、顔、寝起きで死んでない? 服も適当だし、化粧も薄いし、っていうかなんでこんな朝から遭遇するの?
「あ、えっと……そ、その、はい」
やばい、うまく言葉が出てこない。完全に挙動不審。
自分でもわかる。こういうときの私はめちゃくちゃコミュ障になる。うわ、やっちゃった、絶対変なやつって思われた。
「金髪だから、一発でわかったよ」
彼はそんな私の内心をよそに、やわらかく笑った。
もっと堅物っぽいイメージだったのに、話してみると意外とフレンドリー。なんか、ちょっと拍子抜けする。
「あの、もしかして……XX大の人ですか?」
「うん、そうだよ。君も?」
「……あ、はい。一応、そうです」
「それなら、どこかで見かけたことあるかもね」
彼は自然にそう言って、また前を向いて歩き始めた。私はその後ろ姿を、ほんの少しの間、慌てて追いかけるように歩き出す。
「あ、あの……名前、教えてくれない?」
彼は立ち止まり、振り返ってくれる。
「俺はヒロ。君は?」
「私は──ユイ」
ちょっと緊張してしまって、語尾がわずかに震えた。でも、ヒロは優しい笑みを浮かべてうなずく。
「ユイさんね、覚えとくよ。それじゃ、また」
さらりとそう言って、彼は歩いていってしまった。
……ヒロ。ヒロっていうんだ。
名前を知っただけなのに、なんだか胸がくすぐったい。思わず小さく笑ってしまう。
授業が終わって、特に予定もない。
帰ろうか、それとも。
ふと思い立って、大学の図書館に向かう。レポートでも書こうかな、なんて建前を頭の中で用意しながら。
静かな空気の漂う図書館。
本棚の間を歩いていると、見覚えのある後ろ姿が目に入った。——ヒロだった。
彼も私に気づいたようで、目が合う。視線をそらそうか迷ったけれど、逃げたくなかった。
少しだけ勇気を出して、ゆっくりと近づいていく。
「あの……なにしてるの?」
「読書。……本読むのが、好きなんだ」
想像どおりの答え。でも、言い方はどこか照れくさそうで、ちょっとだけ嬉しくなる。
「ユイさんは? 何しに来たの?」
「えっと、レポート。やらなきゃなーって思って」
思ってるだけで、まだ1行も書いてないけど。
そう言いかけてやめた。
不思議と、ヒロの前ではちゃんとした人間でいたくなる。遊び歩いてばかりの私じゃなくて、もうちょっと“まとも”な私で。
「そっか。静かだし、集中できるよ。あっちの窓際、空いてたよ?」
ヒロが目線で示した先には、陽の光が差し込む明るい席があった。
「じゃあ、そこ行ってみるね。……また後で」
「うん。がんばって」
ほんの少しだけ、距離が近づいた気がした。
レポートもひと通り終わって、席を立つ。図書館の静けさを背にして出口へ向かう途中、ふと視線が自然とヒロの方へ向いた。
彼は、変わらず黙々と本を読んでいた。
けれど、私の視線に気づいたのか、そっと顔を上げて、小さく手を振ってくる。
──ドクン。
胸の奥で心臓が跳ねた。音が聞こえてしまいそうで、慌てて目を逸らす。
こんなちょっとの仕草で動揺してるなんて、私、どうかしてる。
夕暮れ時のアパートに戻り、窓際にもたれて一服。ライターの火をつけて、タバコの先が赤く染まる。
──タバコ、やめたほうがいいかな。
いつもなら無意識に吸ってるだけなのに、今日は少しだけ引っかかる。
もし、ヒロの好みが「金髪でタバコを吸う女」だったらいいのに。そんな都合のいい妄想をしてみる。けど、自分でもちょっと笑ってしまう。
スマホを手に取り、何気なくインスタを開く。
この前あげたストーリーズには、いつものようにたくさんの“いいね”がついていた。
それが普段なら嬉しかったのに、今日はなぜか、心が空っぽのままだ。
誰かに見られることよりも、喫茶店の窓辺でコーヒーを飲むヒロの横顔を、そっと眺めている時間のほうがずっと、自分の中を満たしてくれる。
なんでだろうな。
ほんの少し前までは、こんな気持ち、知らなかったのに。
明日会ったら勇気出してインスタのアカウント聞いてみようかな。そもそも、ヒロはインスタしてるのかな。真面目そうだししてないかも……。
授業が終わると、私は真っ先に図書館へ向かった。
理由なんて単純。ヒロに会いたかった。ただ、それだけ。
期待と不安を胸に扉を開けると——いた。
今日もヒロは窓際の席で、本のページをゆっくりとめくっていた。
その仕草ひとつひとつに、静かな品が宿っている。まるで現代の貴族みたいだなって、ちょっと思ってしまう。
私の気配に気づいたのか、ヒロが本から顔を上げて、ふわりと微笑んだ。
「今日も来たんだ」
穏やかな声。でも、私の心臓はまるでアラームのように激しく跳ねていた。
今日は“レポート書かなきゃ”っていう建前もない。
本当は、ただヒロに会いたくて来た。それだけなのに。
「レポート書きに来たの?」
「え、いや……。たまには本でも読もうかなーって、思って」
言いながら、自分でも苦しい言い訳だと思う。けれど、ヒロは少しも疑う様子を見せず、いつもの柔らかい笑みのまま続けた。
「そうなんだ。なに読むの?」
「それが……まだ決めてなくて。何かおすすめ、ある?」
自然と出た言葉だった。たぶん、もっと話したくて、理由が欲しかっただけ。
ヒロは一瞬だけ視線を宙に泳がせてから、本棚の方に顔を向ける。
「じゃあ、一緒に探してみようか。面白そうなやつ」
「……うん!」
思わず声が弾んでしまった自分に気づいて、少し恥ずかしくなる。
でも、ヒロは気づかないふりをしてくれたみたいだった。
その背中について歩きながら、私は心の中でそっとつぶやく。
——今日、来てよかった。
ヒロは棚から一冊の本を手に取ると、そっと私に差し出した。
表紙には、やわらかな筆致で描かれた椿の花。
タイトルは『ツバキ文具店』。
──あ、なんか聞いたことある気がする。けど、ちゃんと読んだことはない。
「これ、文章も読みやすいし、人の気持ちを手紙にする仕事って、ちょっと面白いよ。
日常の中にある優しさが丁寧に描かれてて……疲れてるときに読むと、なんか救われる感じがするんだ」
ヒロの声は穏やかで、どこか遠くを見ているような優しいトーンだった。
話すときに少し目を細めるクセがあるんだなって、今さら気づく。
「面白そう。……読んでみようかな」
そう答えながら、表紙をなぞるように親指でなでてみる。
なんだろう、本を受け取っただけなのに、ちょっとドキドキしてる。
「うん。いいと思う」
ヒロはふわりと笑った。
その笑顔に、また心臓が跳ねる。
さっきからずっと胸がうるさい。落ち着け、私。
近くの席に座ってページをめくってみる。
最初の数行を読んだだけなのに、なんとなく空気が変わった気がした。
言葉が優しくて、穏やかで、まるでヒロみたいだと思った。
(この本……好きになれるかも)
ふと横を見ると、ヒロはまた自分の本に目を落としていた。
その横顔が、さっきより少しだけ近く感じた。
本を読む時間は、思っていたよりもあっという間だった。
いつの間にか外は夕暮れ。窓の外が少しずつオレンジから藍色に変わっていく。
静かにページをめくる時間。こんなの、これまで退屈だと思ってた。
でも、ヒロの隣で黙々と読むのは、不思議と悪くなかった。
図書館内に、閉館を知らせるアナウンスが流れた。
「本、借りて帰れば?」
ヒロが私の方を見て、やわらかく言う。
「……そうしようかな」
促されるまま、本を持ってカウンターへ向かう。カードを差し出す手が、少しだけ震えていた。
図書館を出ると、空気がひんやりとしていた。
なんとなくこのまま別れるのが名残惜しくて、私はヒロの横に並びながら、ちょっとだけ勇気を出す。
「あのさ、ヒロくん……インスタ、やってる?」
「うん。やってるよ。どうして?」
「そ、その……もしよかったら、交換しない?」
自分の声が思ったよりも小さくて、途中でかすれてしまいそうになる。
ヒロは少しだけ間を置いて、何か考えるように視線を落とした。
(あ……やっぱり迷惑だったかな)
心臓がギュッと縮こまる。そのとき——
「いいよ。ちょっと待ってね」
そう言って、ポケットからスマホを取り出す。
ホッと胸をなでおろしながら、私も慌ててアプリを開いた。
「はい、これ」
「ありがとう」
提示されたQRコードを読み取ると、猫のアイコンが画面に表示された。
目がくりっとした白猫の写真。アカウントの投稿を少しスクロールしてみると、どの写真にも猫が映っている。
「猫? かわいいね」
「でしょ? 実家で飼ってる猫なんだ。名前はミルクっていうの」
ヒロの目が、ふわっと和らぐ。
その目を見ていると、その猫が本当に大切にされてるんだなってわかる。
ミルク。愛されてるんだなぁ。
ヒロの優しさが向けられているその存在が、ちょっとだけ羨ましくなる。
その後、ヒロとは駅の手前で別れた。
手を振って背を向けたあと、私は小さくガッツポーズ。
——目的、達成。インスタ交換、成功。
胸の中でこっそり大喜びして、少し早足でアパートへ帰った。