寝ようとしてベッドに潜り込んだけど、まったく眠くならない。
目は閉じているのに、頭だけがずっと起きている感じ。惰性で、ただ時間をやり過ごしている。
なんとなくスマホを手に取って、インスタを開いた。
ヒロのアカウントをのぞく。最新の投稿は、相変わらず猫の写真。丸まって寝ている姿や、窓辺でじっと外を見ている後ろ姿。
その合間に、ときどき映画館の看板やチケットの半券が混じっている。
(ヒロって、映画もけっこう見るんだ……)
その人の趣味を少しずつ知っていくのって、なんだか秘密を覗いているようでドキドキする。
DMを開いて、誰かから通知が来てないか確認してみたけど、ゼロ。
まぁ、そんなもんだよね、とひとりごちて画面を閉じかける。
そのとき、ふとインスタの「ノート」が目に入った。
みんなの近況やぼやきが並んでいる中に、ひとつだけ目に留まる名前がある。
「あ、ヒロの……」
ヒロも、ノートに何かをあげていた。
それは音楽だった。
──『レイメイ』/さユり × MY FIRST STORY
(え、この曲……)
たしかアニメ『ゴールデンカムイ』の主題歌だったはず。
ちょっと意外だった。ヒロって、もっとクラシックとか、洋画のサントラとか、そういうの聴いてそうなイメージだったから。
(もしかして……アニメとか、見るんだ)
そのギャップに、ちょっと胸がざわつく。
なんか、またひとつヒロのことを知れた気がして嬉しくなる。でも同時に、不安にもなる。
——私って、ヒロにとってどう映ってるんだろう。
ただの喫茶店のバイトの子? 金髪の軽そうな子?
そう考えると、胸のあたりがきゅっと苦しくなった。
気を紛らわせるために、ネトフリを開く。
(……アニメでも見るか)
何を観ようか迷って、ふと思いつく。
(次、ヒロと会ったときに話題にできるかも……)
迷いながら、『ゴールデンカムイ』を検索する。
再生ボタンを押したその瞬間、自分の指先が少し震えていることに気づいた。
昨日の夜は、思ったより『ゴールデンカムイ』が面白くて、気づいたら夜更かししていた。
何話まで見たんだっけ……? 気がつけば朝の4時。多分、寝たのはほんの3時間くらいだ。
(絶対、肌荒れてる……)
鏡を見るのが怖いまま、バイト先に向かった。
そして今日も、ヒロは来た。
扉が開いたとき、すぐにわかった。思わず背筋が伸びてしまう。
うれしさと緊張が同時に押し寄せてきて、心のどこかがそわそわする。
ヒロは、いつもと変わらずコーヒーを一杯だけ注文する。
その立ち居振る舞いには、どこか品がある。言葉では言い表せないけど、背筋が自然に伸びていて、所作が美しい。
それを見ていると、自分がちょっとだけ“安っぽく”見えてしまって、少しだけ自信がなくなる。
(やっぱり……ヒロって、住んでる世界が違うな)
注文されたコーヒーを運びながら、そう思ってしまう自分がいた。
そっとテーブルの上にカップを置く。
「ありがとう」
ヒロが微笑む。
その一言だけで、心臓が跳ねた。思わず息が止まりそうになる。
(やば……声出そうになった。ていうか、出てたかも)
ドキドキが全身に響いて、コーヒーの香りすらもうよくわからない。
平常心を装って、その場を離れるのに必死だった。
そしていつも通り、ヒロはコーヒーを飲み終えると、静かに会計を済ませて帰っていった。
終始、平然としていたのは彼のほうだけ。私だけがひとりで慌てて、舞い上がって、勝手に緊張して……なんだかそれが、少しだけ恥ずかしかった。
バイトの時間が終わり、更衣室でエプロンをたたみながら、なんとなく「真っすぐ帰るのもなぁ」と思う。
(寄り道、しようかな)
どこかに行きたいわけじゃない。誰かに会いたいわけでもない。
ただ、今のこの胸の高鳴りを、少しだけ冷ましたかった。
喫茶店の近くの本屋に、なんとなく立ち寄った。本当に、なんとなくだ。
本屋なんて、普段なら絶対に来ない。行くとしても、資格の参考書を買うときくらいだった。
文庫の小説コーナーをゆっくり歩いてみる。
ずらりと並ぶ背表紙を眺めていると、一生かけても読み切れないんじゃないかって思えるほどの物語がそこにあった。
自分の知らない世界が、こんなにもあるという事実に、不思議と胸がざわつく。ワクワクするような、落ち着かないような。
(……なんか、前まではこんなふうに思わなかった気がする)
ヒロの影響かもしれない。
彼が本を読む姿を見てから、「読書」がちょっと特別なものに思えるようになった。
そのときだった。大量の背表紙の中で、ひとつだけ、不思議と目を惹かれるタイトルがあった。
『舟を編む』 三浦しをん
手に取って、裏表紙のあらすじを読む。
出版社に勤める営業マンが、辞書をつくる物語。
「辞書?」と一瞬思ったけど、不思議とページをめくってみたくなった。
(読んでみようかな)
本なんて、ほとんど読んだことがない。買うのも、たぶん初めてだ。
レジに向かう足が、少しだけすくむ。
(私らしくないかも……)
金髪にピアス、バイトでは愛想良くやってるけど、家ではアニメとネトフリとスマホばっかり。
そんな自分が、文学っぽい文庫本を持ってレジに並んでいる。なんだかちょっと照れくさい。
でもいいんだ。
今の自分の気持ちに、正直でいたいと思った。
アパートに帰って、袋から本を取り出し、ゆっくりとページをめくる。
最初の数ページで、物語に引き込まれた。
言葉を集めて、積み上げて、辞書という「舟」を編んでいく人たちの地道な仕事。その中で少しずつ変わっていく登場人物たちの姿。
(言葉って、誰かに思いを伝えるためにあるんだ……)
読み終えたとき、そんなことを思った。
もっとちゃんと、話せたらいいのに。
ヒロと向き合って、自分の言葉で、自分の気持ちを届けられたら——
心のどこかで、そう願っていた。
次の日。少しの期待を胸に、大学の図書館に向かった。
ヒロ、いるかな……。いや、たぶんいる。そう思いながらドアをくぐる。
館内の静けさに身を沈めると、やっぱりいた。
いつもの席で、ヒロは本を読んでいた。ゆっくりとページをめくる姿に、昨日読んだ『舟を編む』の主人公の姿がふと重なった。
(……声、かけてもいいかな)
迷いながらも、そっと近づいていく。
「あの……」
小さな声でも、ヒロはすぐに顔を上げた。
あいかわらず穏やかな目。空気がふっと和らぐ。
「どうしたの?」
それだけで勝手に安心してしまう自分がいる。
「この前、選んでくれた本……すごく面白かった」
ヒロの口元がふっと緩む。
「よかった。そう言ってもらえると、うれしいな」
心臓が跳ねる。鼓動が速くなって、耳の中で血の音が響いてくる。
落ち着こうとするけど、無理だった。
「あの、ヒロくんって……ゴールデンカムイ、好きなの?」
「うん。そうだけど……どうして?」
「インスタのノートに……『レイメイ』、流してたから」
言い終わる前に、なぜか声が詰まった。自分から話を振っておいて、なんでこうなるの。言葉がうまく出てこなくて、情けない。
「そっか、気づいてたんだ」
ヒロは少しだけ照れたように笑った。
「実は、最近また観返しててね。あれ、何回見ても飽きないんだよ」
「うん……わかる。私もこの前ネトフリで一気見しちゃって」
「アシリパさん、いいキャラしてるよね」
「うん、めちゃくちゃ好き。あと、変顔が……インパクトありすぎて笑った」
ヒロがくすっと笑う。
その笑顔を見て、なんだかうれしくなった。
「杉元もさ、最初はただの狂戦士かと思ったけど、意外と繊細っていうか……優しさが見え隠れしてて、そこがいいんだよね」
「それ、すごくわかる。敵にも情けをかけたりするし……あと、“不死身の杉元”って名前、最初ギャグかと思ってたけど、ちゃんと理由があるのがかっこよかった」
「そうそう。物語のテンポもいいし、シリアスとギャグのバランスも絶妙だし……あれ、ほんとすごい作品だと思う」
いつの間にか会話が続いていた。
こんなふうに、ヒロと自然に話せていることが嬉しくて、夢みたいで。
言葉を交わすたびに、心が少しずつ近づいていくような気がした。