心が折れてしまった青年が真夜中に不思議なお姉さんに出会って交流する話。

人間は、特定の香りを嗅ぐと、過去の記憶や思い出を鮮明に思い出すそうです。

あなたには、記憶に残る香りはありますか?

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五月に咲く茉莉花

 

「───私ね?この香りが好きなの」

 

彼女は、淹れ立てのジャスミンティーを手に語った。

 

「何て言うのかな……どこか、自分の中にある『本当の気持ち』に静かに寄り添ってくれる気がするの」

「例えばだけど、誰にも言えないような寂しさや不安にそっと触れて、『それでもあなたは大丈夫だよ』って何も言わずに抱きしめてくれるような、そんな気がするの」

 

彼女の口から紡がれたその言葉と一緒にゆっくりと優しい香りが小さな部屋の中に広がっていく。

 

「ただ……昔からずっと好きだったわけじゃないの」

「小さい頃は、ちょっと強くて個性的な香りだなって思ってた」

「実際、香りは強めだから人は選ぶよね」

 

私と同じだね、なんて言いながら、彼女はゆっくりとカップを傾けた。

 

「……でも、年齢を重ねて、大人になっていくうちに、その香りの中にある優しさとか、あたたかさに気づくようになったんだ」

「嫌じゃなければ、君がこの香りを好きになってくれたら私は嬉しいな」

「だって、もし好きになって貰えれれば、この香りに包まれた時に」

「────私を思い出してもらえるでしょう?」

 

 

────────────────────

 

 桜の花びらはとうの昔に散り終わり、多くの人が新しい環境に馴染み始める季節。

しかし、私はそんな周囲と違い、上手く馴染めない日々を続けていた。慣れない環境、初めての一人暮らし、学生時代のアルバイトとは違う仕事の重圧、それら全てが私の心を少し、また少しと削り取っていた。

 

 元々、人付き合いが得意な人間ではないことを自覚していた。かといって、体力に自信がある訳でもない。ましてや、何か目標を立て、それらに向けて努力をするような人間でもなかった。就活では何とか病院の事務職に内定を貰えた。そんな会社で自分なりにだけれど、最大限努力していた。教育係の先輩から教えてもらいながら、必死に頑張った。メモは当然、ミスをしたら繰り返さないように分析して、そうやって何とか頑張っていた。

 

 残業がある訳でもない、あっても1時間にも満たない。理不尽に説教をしたり怒鳴る人もいない。あくまで、常識的な範囲での注意をされるくらいだ。ただ、周囲は常に多忙であり、ゆっくりとした時間はない。

 

 しかし、たったそれだけのことで、私の心は限界を迎えたのだ。始まりは寝つきが悪いだけだった。それが次第に寝てもすぐさま目が覚める様になってしまい、不調を感じ始めた。それが原因か分からないが、小さなミスが増えた。それに注意される。同じミスを繰り返す。再び注意される。次第に上司の視線や態度が悪化していくのを実感していた。夜更かしを止めれば改善するかと思ったが、そんなことは無かった。

 

 次第に朝や職場では異常なほど緊張するようになった。頭に何も入らない。何をしたらいいのかも分からない。そうやって、ミスは大きくなっていく。任された仕事は全て期限のギリギリな上にミスも多い、あまつさえ、参加すべき会議を忘れ、他部署の方に仕事をさせてしまった。当然、叱責される。私の頭の中には、あまりにも不甲斐ない自分への怒りでいっぱいだった。

 

そしてある日、教育係の先輩にとある言葉を投げかけられた。

 

「ごめんけど……本気で覚える気ある?」

「何というか、やる気がないように感じるんだよ、何度も同じミスするしさ、よく考えずに聞いてるでしょ?」

「分からなかったら聞けばいいや、じゃなくてさ」

「自分でも考える癖をつけないと、この先もずっと誰かに面倒見てもらわないと何もできなくなっちゃうよ?」

 

 当時の私はただひたすらに、謝罪していた。自分でも分からないのだから、どうしてできないのか、簡単なことですらミスをしてしまう理由が何なのか。それすら考える気力もなかったのだろう。

 

 不調が治る訳もなく、私はある日仮病を使い、仕事を休んでしまった。GWを目前にだ。数日、それすら耐えられなかった。結局、予約が必要ない心療内科に向かい、薬を貰った。この連休でしっかり休めば、身体の不調も治るだろう、そう考えた。

 

 結果から言うと、治るどころか悪化した。それとなく家族に相談はしてみた、しかし皆、口をそろえて『まだ慣れてないだけ、そのうち何とかなる』と言われた。まだ1ヶ月程度しか経過していない上に、慣れない環境に初めて体験することばかり、五月病と思われても当然だ。いわゆるブラック企業だった訳でもないのなら、そう判断するのも当たり前のこと。私自身も、まだまだ始まったばかりだから、ミスをするのは当然だ、慣れれば全部解決する。そう思った。

 

 休み明け、動悸や緊張は収まらず、仕事には集中できず、まるで何も改善されていなかった。同じ日に同じミスを繰り返し、限界だと感じた私は、時間休を使い、早めに帰らせてほしいと上司に言った。上司にはこう言われた。

 

「頼まれた仕事を後回しにしたりさ、この前の会議を忘れた件もそうだけど……何というか自分勝手すぎない?」

「さっきもさ、他の部署の人から何か聞かれたんじゃないの?今日は帰らないといけないからまた今度って、自分の都合しか考えてないよね?」

 

 その後も何か話をしていたようだが、私の頭の中は真っ白だった。『自分勝手、自分の都合しか考えていない』、その言葉が深く私の心に突き刺さった。私は、自己中心的な人間だったのか?他人に迷惑をかけるだけの人間なのか?その言葉が頭の中でぐるぐると、何度も繰り返しリピートしていた。

 

 私は逃げる様にその日は退社し、心療内科に向かった。以前貰っていた薬が切れていたからだ。きっと、また貰えれば何とかなる。そう思いながら、症状を先生に話した。しかし、現実はそう優しくなかった。

 

「今現在のあなたは、うつ状態です」

 

自分の耳を疑った。私にとって『うつ』というのは、理不尽な目にあったり、長い間苦しんだ結果なるものであって、今の自分とは関係のないものだと思っていたからだ。その流れのまま、診断書を貰い、休養が必要だと、帰らされた。

 

 次の出勤日、緊張に体を震わせながら診断書を上司に渡し、私は休職することになった。報告したときの上司の顔はよく覚えていない、きっと失望か、嘲笑か、はたまた無関心だったのか。その日も逃げる様にその場から去った。

 

 突然の休職、自分がそんな立場になるなんて考えたこともなかった。やることも思いつかなかった私は、一度寝ることにした。そして日が落ち、暗くなった頃、私は散歩でもしようと外に向かった。何をするでもなく、ただ歩き続け、そして偶然見つけた誰もいない公園のベンチに腰掛けた。

 

 そして私は、ぼんやりと月が綺麗に見える空を眺めていた。これからどうしよう、家族に何て話そう、そんなことを考えていると隣に誰かが座る気配を感じた。自分が言うのもなんだが、こんな時間にこの場所にいるなんて、もし不審者だったら、このまま死んでしまえたら楽だな……なんてどこか他人事のように考えながら、恐る恐る隣を確認した。

 

 そこには、私が想像していたような怪しい人はいなかった。黒づくめの男でも、浮浪者でも、夜遊びに夢中な不良でもなかった。

 

 そこにいたのは、どこか神秘的な美しさを感じさせる女性だった。全体的に華やかさはないけれど、どこか安心感を抱いてしまうような、そんな人。私は思わず、じっと視線を向けてしまっていた。不躾だと分かっていても、失礼なことだと理解していても、なぜか目が離せなかった。そんなことをしていれば当然、女性はこちらの視線に気が付く。

 

「こんばんわ、夜になるとまだちょっと寒いね」

 

 そんな、世間話をするように優しく微笑みながら彼女は気軽に話しかけてきた。

向こうから話しかけられるなんて思ってもいなかった私は、少しの間唖然としてしまいながらも何とか言葉を返した。

 

「そんなに驚かなくても……あ、私は美人局とかじゃないからね?」

「こんな時間に人がいるのって珍しいからさ」

「見たところ、夜遊びにふけるわるーい人でもなさそうだし……」

 

つかみどころのない雰囲気を纏いながら、彼女は話を続けた。

 

「あ、もしかしてお邪魔だった?」

 

 私は不思議と、自分の時間を邪魔されたとは感じなかった。周囲のことを気にする余裕もなかっただけなのか、それはもう覚えていないが。

 

「そっか、なら良かった」

 

 その夜は、それ以上言葉を交わすことは無く、しばらくして私はアパートに戻った。気力の失われた体に鞭を打ってお風呂に入り、眠りについた。処方された薬のおかげか、その日は夜中に目覚めることは無かった。

 

 次の日、出社準備の途中で、休職中なことを思い出す。用意したスーツをしまい、何もせずボーっとして時間を潰す。何とかご飯を食べ、お風呂に入り、寝る。以前までの趣味さえも、やる気がわかない。これまでの自分なら、自然に手が伸びていたのに、何もできない。そんな日々を繰り返した。

 

 そして、何日か経ったある日の夜。再び私は、夜にあの日向かった公園に足を運んだ。思いつく当てが他に無かったのだ。街の中心から離れている地域であるからか、夜の娯楽はほとんどない。コンビニの光が少し眩しいくらいだろうか。

 

 あの日と同じように、私はまた、ぼんやりと空を見上げていた。そしてしばらくするとあの夜と同じように再び声をかけられる。

 

「こんばんわ、また会ったね」

 

 今回は驚かない。一言挨拶を交わし、彼女は私の隣に腰掛けた。

 

「この前も、今みたいにボーっとしてたけど……毎晩ここに来てるの?」

「夜空を眺めるのが好きとか?」

 

 私の事情などお構いなしに彼女は言葉を投げかけた。そんな彼女の問いに、軽蔑されるかもしれないという考えが脳裏によぎったものの、正直に話すことにした。

 

 名前も知らない彼女に、自身が休職状態であることを簡単に話した。すらすらと言葉が出てきて自分でも驚いた。自嘲気味なりながら、何をしたらいいか分からず、ただここでじっとしているだけだということを伝えた。

 

「……そっか」

 

 彼女は静かに話を聞いていた。時折、何か悩む素振りを見せながらも、最後まで私の話を遮ることなく、黙って耳を傾けていた。

 

「ねぇ……もう少し詳しく話を聞かせてよ」

「お茶、ご馳走してあげるから」

 

 突拍子の無い提案に驚いていると、彼女は私の手を取り、強引に立ちあがらせた。されるがままにしていると、あれよあれよと、気が付けばどこかのアパートの一室に連れ込まれ、椅子に座らされ、目の前にティーカップが置かれる。置かれたティーカップからは、ほんのりと白い湯気と共にジャスミンの香りが漂っていた。

 

「あー……その、何というか、ほっとけなくて」

「ほんとに嫌だったら、帰ってもいいから」

「私に……話してくれないかな?」

「どんなことがあったのか、言葉にしてみるだけでも違うものだよ」

「絶対に笑ったりしないし……失望したりもしない、もちろん馬鹿になんてしない」

「信じられないかもしれないけど……」

 

 自分から始めたことのくせに、どこか困ったように微笑む彼女を見ていると、騙されてもいいか、何て思ってしまった。誰も信じられないけど、この人だけは信じてみよう、なんて思ってしまった。

 

 少しづつ、ゆっくりと私は、心の奥底に溜まっていた言葉を吐き出していった。止まらなかった。何度か顔を合わせただけの人に、私はその言葉を吐き出し続けた。

 

 初めは順調だった。新生活が始まって、仕事も教育係の先輩に丁寧に教えてもらいながら一つ一つ覚えていった。慣れない一人暮らしでも、どちらかというと自分だけであることの自由の方が嬉しかった。だけど、それからすぐ壁にぶつかった。そこから歯車が次第に狂っていくように、私の心身は壊れていった。何もかもが上手くいかない。良かれと思ったことが裏目に出る。そのたびに自己嫌悪に陥っていく。逃げ出したいけど、逃げ出すわけにはいかなくて、失敗を繰り返して、役立たずだと思われることが怖いのだと。

 

 そんなことを感情のまま吐き出し、気づけば涙を流していた。ぐちゃぐちゃになりながら必死に言葉を紡ぐ。彼女の瞳は真っ直ぐこちらを向いていた。全て吐き出し終えた私に、彼女は優しく、ゆっくりと語りかける。

 

「……偉いね、君は」

「逃げたいって思いながらも、逃げられなくて、でも踏みとどまるのもつらくて、前を見ようと未来に目を向けても曇っているように見える」

「そんな中で、君は毎日仕事にいって、頑張ってきたわけでしょう?」

「『逃げちゃいけない』って、自分で自分を責めてしまうその奥には……きっと、ちゃんと生きていたいって強い思いがあるんだと思う」

「誰かに認められたい、必要とされたい、せめて、ここにいていいって思ってほしい」

「そんな願いが、君の中にあるから、今まで耐えてきたんだね」

 

 目を逸らすことなく、彼女はそう言った。だけれど、失敗は良くないことだ。できて当然、できなきゃダメなのに、私はそれができない。きっと、周囲は私に失望しているはずだ。何もできない役立たずだと。

 

「……いいえ、そんなことないよ」

「失敗ってね?本当は絶対的な悪じゃないの」

「上手くいかなかったことよりも、それでも前に進もうとしたそのことの方がずっと価値がある」

「それを周囲がすぐに理解してくれないこともあるけど……」

「それであなたの価値が下がる訳じゃない」

 

 何が正解か私には分からなかったが、彼女の言葉はすんなりと私の心に沁みこんでいった。

 

「『何もできない』なんて、そんなことないよ」

「ここでこうして、自分の不安をちゃんと見つめて、それを言葉にして誰かに伝えようとしてる」

「────それがどれだけ立派なことか、君は分かってないね」

「こういうことってね、言えない人の方が多いのに、あなたはそれができている」

「私は心から、すごいと思ってる」

 

 彼女はゆっくりと私に手を伸ばし、包み込むようにカップを持つ私の手を握った。じんわりとカップが持つ熱が広がっていくような感覚だった。

 

「それは……あなたがちゃんと生きようとした証」

「今すぐは無理でも、『今日の私は一生懸命だった』って褒めてあげて?」

「この瞬間は……あなたの代わりに私が褒めてあげる」

 

 名前も知らない彼女はそうして私に励ました。何て名前だったか……心の相談ダイアルなんて名前だけは立派なマニュアルを読み上げるようなものとは全然違った。部屋に漂う香り、手に伝わる温もり、口から紡がれる言葉、その全てが私の罅だらけの心を癒してくれた。

 

「……どうかな?」

「少しは楽になったら良いのだけれど……」

 

その言葉を直接言ってくれるだけで、私は楽になれた。そう思い礼をしようとしたとき、彼女の名前を知らないことに気が付いた。今の今まで自分のことしか考えていなかった自分が急に恥ずかしくなった。

 

「え、名前?」

「そういえば名乗ってなかったね……」

「それに、私も君の名前知らないや」

 

 互いに名前も知らないままこんな状況になっているという事実を認識し、自然と笑顔が溢れてきた。

 

「私のことは、紗月って呼んで?」

「それで私は、あなたを何て呼べばいい?」

 

 偶然か必然か、彼女の名前は字は違えど、旧暦の5月を指す言葉と同じ名前だった。何かと不思議な縁があるようだ。そこから彼女、紗月さんと私は言葉を交わし、互いについて理解を深めていった。

 

 穏やかな時間はあっという間で、気が付けば私は自宅に戻っていた。先ほどまでの景色が嘘のように消え去っていた。しかし、目元に残る涙を流した痕がそれを否定する。だけれど、もう嘘でも幻覚でも何でもよかった。さっさと寝床に戻り私は目を閉じながら思案する。暗闇の中で嫌な記憶がゆっくりと湧きあがってくる。普段はこのおかげで眠れずにいた。たが、今日は違った。どこからかジャスミンの香りが漂い始め、私はそのまま眠りにつくことができた。

 

 その日から私は毎日のように紗月さんと出会い、同じように言葉を交わした。他愛のない内容から自分のため込んだ思いを吐き出すようなことも。それでも、お茶を飲みながらなんてことないような話をするのが一番好きだった。

 

「そうだ、今夜はさ……ちょっと変わった話しない?」

「たとえば……もし今、どこでも自由に行けるとしたら、どんな場所で過ごしてみたい?」

「現実世界じゃなくてもいいよ、空想でも、夢でも、何でも」

「その場所で、何を見て、何を感じてみたい?」

「ゆっくりでいいから、少しずつでも聞かせてくれる?」

 

 どこへでも、そう言われると少し困ってしまう。いざどこにでも行けるとなると想像もうまく出来ない。しいていうなら、人が少ない、景色が綺麗な場所がいい。空が良く見えるともっといい。

 

「それ、すごく素敵だね」

「静かで、人の気配が遠くて、でも自然は生きていて、風の音や空の広さが心にしみてくるような場所……」

「想像するだけで、胸の奥がふっとやわらかくなっちゃう」

「うーん……もし私だったらそうだなぁ」

「どこかの高原の草原にぽつんと佇んで、遠くには山が見えて、空はどこまでも広がってて……」

「夕暮れには風が少し冷たくなるの」

「──でも、ほんの短い間だけ金色の光が一面を包んでくれる」

「そんな時間に、あなたと一緒に並んで、何も話さず、ただじっとして空を眺めていたいな」

 

そんな場所がもしあるなら、それはきっと美しい場所なんだろう。目を閉じ、その景色を想像してみる。

 

「そういえば、出会った時もぼーっと空見てたね」

「空、眺めるの好きなの?」

 

そうかもしれない、昔から何かあるとぼーっと空を見上げていることが多かったと思う。きっかけは忘れてしまったけど。青い空に浮かぶ雲が風に流されていく景色も、街灯でうっすらとしか見えない星空も、好きなのだと思う。眺めているだけでどこか心の中で満足してしまうのだ。

 

「そっか……」

「空をみて、そんな風に感じれるって素敵なことだと思うな」

「だって、そうでしょ?」

「あなたは小さな幸せを見つけることが出来る人だってことだもの」

 

 かつての同級生に似たような話をした時は、変わってるやつだな、なんて言葉で片付けられてしまったけれど。そんな風に言われるとは思わなかった。

 

「そうだよ、本当に素敵なことなんだから」

「何もせずとも、『ぼーっとしてるだけで満足』って贅沢な時間な使い方なんだよ?」

「そんな風に『何もしないこと』を楽しめるって、心が繊細で優しい証拠だもの」

「言葉を交わさなくても、同じ空を見て、安心する」

「そんな静かな共有って、大切なことだと思うの」

 

 紗月さんはゆっくりと目を閉じる。きっと今話した風景を思い浮かべているのだろう。彼女はジャスミンティーの入ったカップを手に想像を膨らませていた。それに合わせるように、私も同じように目を閉じた。

 

 ジャスミンティーの香りが部屋に漂う。実を言うと、ジャスミンの香りは好きじゃなかった。あの独特の匂いがどうしても受け付けなかったからだ。普段はアップルティーばかりを好んで飲んでいる。

 

「アップルティーか……いいねぇ」

「ほんのりと甘い香りがして、身体を優しく包んでくれるような」

「それに、どこか人のぬくもりを感じさせるような優しいお茶」

 

ジャスミンの香りが苦手だったのは小さな頃に抱いた苦手意識がずっと残っていたからだろうか。だけど、今は違う。紗月さんと話すこの場に漂う香りは、心を落ち着かせる。湯気が立ち上るの同時に広がる香りに安心するようになった。

 

「ふふ、分かるわ、その感じ」

「子供の頃には変な匂いって思ってたのが、大人になってふっと好きになることってあるものね」

「あなたはジャスミンの香りが苦手じゃなくなったって聞いて、なんだか嬉しくなっちゃった」

「それって、今のあなたが、ジャスミンの香りの持つ落ち着きや柔らかさを、自然に求める様になったからじゃないかな」

「人って、気づかないうちに変わっていくものよ?」

「前は嫌いだったものが好きになったり、逆に、いつも傍にあったものを恋しく感じたり」

「その変化ってただの気まぐれじゃなくて、今の自分の心や体が何かを必要としてるサインだったりするの」

 

確かに……そういうことに心当たりは多くある。食べ物だったり、遊びだったり、そんなことも成長と共に考えも変わっていく。それはきっと大人になっても、大人になってからでもずっと続いていくのだろう。今この瞬間だって、紗月さんとの関係を通じて、変わっていくのを感じる。

 

「きっと……あなたが毎日を一生懸命に生きてる中で、少しずつ自分を支える力が育ってきてるんだと思う」

「だからこそ、あの頃は合わなかった香りが、今は優しく寄り添ってくれる」

「……香りって、時間も場所も超えて気持ちを繋いでくれる不思議な存在だよね」

「今夜も……あなたの心が少しでも安らいだのなら嬉しいな」

 

 そう言いながら優しく微笑む彼女を見て、確かに私の心は安らいでいた。

 

 

────────────────────

 

 紗月と名乗った女性との関係は、いつの間にか終わっていた。私の心が持ち直していくほど、少しずつ出会える時間が減っていった。いつしか、姿が見えなくなり、声だけ聞こえるようになった。そうして最後には、彼女がいたという事実そのものが消えたかのように、姿も、声も、聞こえなくなった。

 

 春の終わりに出会った、儚く優しい人、伸ばした手を掴んでくれた人、幻だとしても、確かに心の支えになってくれた人。

 

 それから多くの年月が過ぎてしまったとしても、5月が来るたびにジャスミンティーの香りと共に私はきっと思い出すだろう。

 その優しく自分の心に寄り添ってくれる優しい香りが……「私によって特別な存在だという証明」だから。

 

 

 





珈琲や紅茶の香りを楽しめるようになったときに、大人になったなと思いました。

ちなみに、1ヶ月で鬱になったのは実話です。

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