正直、バカなことをした自覚はある。
メルハイム・アトランティア。彼女の聖印は間違いなく強力であるが、同時に弱点でもある。
彼女は、どうしようもなく他者の善悪を判定してしまう。
彼女自身がどうしようもない善人であり。そして善人はその善性に相応しい道を歩むべきであるという信念もあるのだろう。善なる人間を救うためにこの聖印を受け取ったのだと心から信じているのだろう。
だからこそ。彼女は、善人を斬れない。
悪果をもたらしている者。それを聖印が悪だと判定しない事実を前に、どうしようもなく動揺する。そして迷う。
かつて自分も、その迷いを利用して彼女との戦いを切り抜けた。その性質を利用したのは自分も同じだ。
本当にバカな事をした。
支援物資に紛れ込んだ麻薬を用いたことで他者を襲うしかなくなった者共。彼等は己が悪性によってそうなっているのではなく。他者の悪意によってこのようにされてしまった。
今、己が認知しているこの世界におけるメルハイムの奇跡の聖印は。結果ではなく、そこに至るまでの総合的判断で発動するようだ。同じ盗人でも、他者の為か自己の為かでその発動するか否かが異なる。この仕様に、メルハイムは大いに困惑し、迷っていた。
この迷いは、間違いなくメルハイムの弱点だ。実際に自分もこの弱点を突いた。己の行動で、この迷いを振り切るように背中を押す事となったのはどういう了見だ。馬鹿じゃなかろうか。
まだまだバカ要素が目白押しだ。そもそも自分だってその迷いを突いた身分のクセに、どの口でこんな事をほざいているのだとか。ダブスタここに極まれりって感じだ。
.....ここでほっといたら、脅威が一つ消せたかもしれないのに、とか。
.....ここで自らの意思で何も出来なかった記憶を刻みつけた方が、後々には都合がいい方に向かうかもしれないのに、とか。
自分のこの行動がいかに不合理か。心の底から理解できる。
それら全て諸々脳裏を掠めながらも――結局、己はあの言葉を放ってしまった。
いつまで聖印を言い訳にするつもりだ、と。逃げるな、と。
その理由を深く掘り下げていくのなら――やはり自分は、この世界が好きだからの一点に集約されるのだと思う。
あの時と同じだ。レイラの手紙に余計な事を書いたおかげで、計画の軌道修正をする羽目になった。それでも書かざるを得なかった。この世界が、より自分の好きな方向に行ってほしいから。
想定外が好きだ。この言葉をもっと突き詰めるのなら――他者の意思が介在し、あらゆる思惑が混在し、自分の思惑すらもそのうちの一つにしか過ぎない世界こそが、好きなのだ。想定など飛び越えてほしい。世界は自分の手中に収まらない程の広大さがあってほしい。善意も悪意も秩序も混沌も何もかも、全て己の想定を超えてほしい。
そして。己自身も――かつて画面越しにしか見られなかったこの世界のその先を、見てみたい。
不合理で結構。ダブスタも承知。全てを飲み込んだうえで――己は、聖印の楔を乗り越えた先にあるメルハイム・アトランティアを見てみたいと。そう思ってしまったのだ。
どれだけ賢しくみせようとも――己の根底は何処まで行っても不合理なクソバカなのだろう。こればかりは仕方ない。
●
千里眼を用いる。
高所を取り、つぶさに貧民街を観察する。
各地で巻き起こっている暴動を鎮圧するラミアス駐留軍。その包囲網の中から、生まれ来る暴徒の大まかな総数を見る。
人の流れ。密集具合。それらを、見る。
ここを戦場と仮定する。この暴徒は敵兵ではない。敵によって送り込まれている兵器の類であると考えろ。彼等は自走し敵へ被害を振りまく道具であり、道具であるならばそれを用いている敵の存在がいるはずだ。
グリンド・バーンハルトは、かつて将軍であった。
彼は兵法を隅々まで学んだわけではない。貴族の出であるが、軍閥の血筋ではない。それでも彼は不思議と――戦の中で、己が何処で暴れるべきか。何処が敵の致命傷であるか。それを見据える感覚を不思議と備えていた。
「――地下だな」
ギルドから手に入れた貧民街の地図を見る。
事前にヒューイから”地下の通気口を通じて薬が頒布されていた”という情報そのものは得ていた。
ここで一つ仮定が一つ生まれる。この兵器が発動する条件は”密閉空間”であると。
通気口を通じての頒布、という手段を用いた事を考えれば。例えば飲み水からの感染などは出来ないか、有効ではないのかもしれない。あくまで密集状態で一定の濃度をもって感染させねばこの薬は効果を発しない。
ジッと、見る。
そして――暴徒の密集地帯の変動が最も激しい地点が、見えた。
グリンドはその地点へ向け、飛び上がる。
両足を踏ん張り、飛び上がる。ただそれだけで、彼の身体は撃ちあがった砲弾の如き楕円の軌道を描き――ハルバードを振りかぶる。
「そぉりゃあああああああああああああああああああああああああああ‼」
空から降り落ちたグリンドは――落下のエネルギーを全てハルバードの上に乗せ、落ち行く地面に叩きこむ。
大量の暴徒と共にガラガラと崩落する地面のその下。そこには――確かな地下空間がある。
ほの暗い地下の明かりに照らされ、クラクラするような甘い香りに満ちている。
グリンドの人間離れした視力は、その香りを発する粒子を捉えていた。
「――いらっしゃいませ~。どちら様ですかぁ?」
「女.....!」
粒子の流れを追い、地下を辿ると。そこには女が一人いた。
煙が舞う地下の空間。煙で揺らぐ視界の中、フードを深くかぶった女が一人、口元だけ歪めて佇んでいた。
女だ。
想定外の姿に一瞬、意識の空白が生まれたグリンドの前に――女は手をかざす。
「それでは――夢の世界にご案内~」
そう言った瞬間――揺らめく視界は、完全に別の光景を映していた。
●
ああ。いつの頃だろうか。
戦帰りに浴びるように飲んだ酒の味が蘇る。ああ、あの祝勝会の時の酒か。あの時の酒は生きてきた中で一番旨かったな。その後に、あの気に食わねぇ王子の婚約者を口説いて寝たんだっけ。そうだったなぁ。アレが思えば人生の絶頂だったかもしれない。
奔流のように、過去が押し寄せてくる。俺が、気持ちよかった時の記憶。俺が幸福を感じていた時の記憶。夢見心地というやつだ。
安寧のような過去が――押し寄せてくる。
夢の中で。
夢の中へ。
誘惑される。まるで陽気な日差しの中で二度寝に誘われるような。
これまで感じた幸福の一つ一つ。記憶の底に沈めてきたそれらを一つ一つ掘り返し、己の眼前に提示される。
ずっとこのまま。
今まで感じてきたこの幸福の中で、夢の中へ――行ってみたいと。そうは思わないか?
そんな誘惑を感じる。
グリンドは、誘惑に弱い。自分を幸福にしてくれる誘惑ならば、猶更だ。
だが。同時に――今この瞬間に思い浮かぶ別の誘惑が、脳裏を掠める。
――この先一番昂奮する場面を想像してください。
――自分を捨てた連中が泡吹いて倒れていく未来が見れるのですから。路傍の石に転がって見れなくなるのは悲しいですよ?
「.....ああ。そうだ」
己の顔面に、笑みが浮かんでいくのを感じる。
まだだ。まだ俺の幸福は終わっちゃいない。
まだまだ己の手で掴まにゃならねぇものがある。ぶちのめさなきゃならない存在がある。手に入れたいものもある。
まだだ。まだまだまだまだ。
過去に味わった事のある幸福に浸るだけで、俺は満足できない。危ない危ない。ヒューイさんの言う通りだった。俺は路傍の石に躓いて終わりだなんて、納得できやしねぇ。
「誰かは知らねぇが――このグリンド・バーンハルト様を舐めんじゃねぇぞ」
「俺の絶頂はまだまだこの先にある。俺の幸福は、俺のこの肉体と、俺が見る世界の中で実現していくもんだ」
「そこらの負け犬のゴミ共と俺を一緒にすんじゃねぇぞ。過去にしか縋るものがねぇ一山いくらのカス共と俺は違う。俺にはまだまだ未来がある。光り輝く、栄光の架け橋がよ――」
「俺は俺を信じている。自分を信じて未来へ突き進めば――夢は必ず叶う! 俺は心の底からそう信じているぜ!」
「まだまだぶっ潰してぇ相手がいる。まだまだ抱きてぇ女がいる。俺の未来はまだ捨てるには勿体ねぇ」
「だから消えろ。夢の世界なんざ俺には不要だ」
ジッと――目の前に広がる光景のその先を見る。
靄のような黒い何かを纏った、人型の存在がある。
その何かに拳を掲げ――ぶん殴った。
●
「――い~ひっひ。何の魔法か解らねぇが、戻って.....」
夢の世界へダイブしていたグリンドの視界は、先程の暗い空間に戻っていく。
先程味わっていた夢見心地が去ったあとの寂寞もなく、グリンドは目覚めた。
そこにあったのは――何故か横になった己の視界だった。
目の前にはもう女はいない。夢を見せている間に逃げ出しやがったのか――。
「あん?」
両手両足が、縛り付けられている。
「馬鹿がよ。こんなもんで俺様を縛り付けられるとでも――」
どんな手枷だろうが、この怪力を前にすれば無力だ。
そうしてグッと力を籠めるが。そもそも力を籠めるためのタメが作れない。
「ん?」
ここでグリンドは一瞬困惑し――そして、ダラダラと冷や汗をかき始める。
「がああああああああああああああああああああ‼ ガァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア! ふざけんじゃねぇェエええええええええええええええええええええええええええ‼」
どれだけジタバタ動かそうとも、背後に回された手足が動かない。その現実を前に、グリンドはぎゃあぎゃあと喚き、ついでに念話で喚き始めた。
「ヒューイさんよぉ! ヒューイさぁん! アンタのオーダーはちゃんと果たしたよォ! だから助けてくれぇ! 頼む! 頼むよォおおおおおおおおおおおおおお‼」
●
「......」
凄まじい轟音が彼方から聞こえ、暫く。
ラミアス駐留軍の包囲網は次第に狭まっていき、暴徒の数も次第に少なくなっていっている。徐々にとはいえ事態は好転している中、一瞬だけ隣の包帯男が身体を止めた。
表情は当然解らないが――包帯で籠った舌打ちが一つ聞こえてきた。
「――どうしたの?」
「気にするな。路傍の石くれに躓いた馬鹿の叫びが聞こえてきただけだ」
メルハイムの問いかけにそう答えながら、背後から襲い掛かってきた暴徒を蹴り飛ばす。
何処か苛立ちを感じているような暴力だった。