4
師鬣未熟は逃げていた。
あるいはそれを逃避だと自覚するよりも、ずっと前から。
夕焼け。人の消えた校舎の中を、黒一色のシルエットに身を窶して駆け抜ける。長く伸びた影が責め立てるように追い縋り、どうしようもなく恐ろしかった。
着の身着のまま、鞄すら持たず。兎にも角にも耐えられなくて、未熟は一秒でも早く、あの場から遠ざかりたかった。
警備員の目が光る正面玄関を避けて、彼女は裏口から飛び出す。
夕暮れ。普段は人など迎え入れぬからだろう。庭師の業務の範疇からも外れ、野生のままに生い茂る草木が乱雑に影を伸ばす。その麓に紛れるように。校舎と塀の隙間の、わずかの空間に身を屈める。
膝を抱え、顔を俯かせた。誰にもみられたくなかったからだ。――零れ落ちる、その涙を。
どうしようもなく情けない、負け犬の面を。
「――っ、ぅあ、ひっ……ぅ、ひっ……」
本当は、溢れ出しそうな喚き声を、歯を食いしばって口腔に止め、息を殺して涙を落とす。止まるまで。枯れ果てるまで。それは彼女にとって――慣れ親しんだルーティーンだ。
師鬣未熟は、弱い人間だ。
幼少の頃から、人と触れ合うことにどうしても馴染めなかった。それは本質的に、自分が彼らと
他者の言っている言葉が理解できない。それは言語的な不理解という意味ではなく――なぜ彼らがそんな言葉を言い放つのか、その理由が、皆目見当もつかないのだ。
あるいは国語の授業における理不尽の代表として、今や定番のネタにさえなってしまった『作者の意図を書きなさい』という問題に、答えられないまま大きくなってしまったのが、師鬣未熟という少女なのだった。
他人とのコミュニケーションをとることが難しい――なんて言ってしまえば言葉としては簡単だけれど、しかしその内情は、受け続けてきた苦痛と恐怖は、舐めさせられた辛酸と屈辱は、彼女の心をどうしようもなく傷つけ続けた。
彼女にとって、他人との会話は正解の定まらない早押しクイズのようなものだった。おそらくはきっと、自分とは違う『一般的な人間』とやらが当たり前にしている、相手の言葉の意図を察して、適切な返事を、自分の意図を踏まえて返す、という一連の動作は、彼女にとって千里先の針の穴に糸を通そうとするよりもずっとずっと難しい。
まず、意図を察する、という時点からさえ行き詰まる。
相手が『どんな意味でその言葉を発したのか?』。それをまず、理解することが難しい。
だって、そうだろう。この世界には
言葉を正しく、
褒め言葉に秘められた皮肉。角が立つからとオブラートに包まれた嫌味。謙遜の裏に隠された自尊心。罵倒の内側に潜む親しみ。怒りの源泉として存在する愛。
どれもこれも、師鬣未熟には全くもって察することなどできやしない。
同じ言葉が、たかだか言う人間とタイミングが異なるというだけで、どうしてそうも異なる意味を持つ?
だから彼女は何度だってその意図を取り違えて、何度だって額面と実情の差に打ちひしがれて、いつしか『人との接し方がわからなくなった』。
自分の意思、なんて。
示せるはずがあるものか。
何度だってそれをして、その度に失敗してきたのだから。
目を閉じれば、浮かぶ。また
空気読んでよ。
なんでそんなこと言うの?
師鬣さんって、ちょっと変だよね。
どうかしてるよ。
飛び交う言葉が、頭蓋骨の内側でこだまする。
いつも。
他人の顔を窺って。必死にその意図を読み取って。隠された意図を探ろうとして。嫌われないようにと我を殺して。
そしてそれでも、何度だって上手くいかなくて、こうして息を殺して泣き続けてきたのが、師鬣未熟の人生だった。
未熟。
未熟、なのだ、自分は。
己の名前を意識する時、いつだって彼女はそう思う。
未熟なまま生まれて、未熟なまま育ってしまった。
人間になる前に生まれて。
人間になり損ない――慣れ果てた。
きっと。
きっと自分は、一生こうだ。
周りの全てに怯え続けて――誰にも理解されないまま死んでいく。
周りに迷惑だけをかけ続けて。
今日だって――そう。
師鬣未熟は、また間違えた。
大好きなあの人にさえ。
生まれて初めて。
同じかもしれないなんて思い上がった、あの麗しき歌姫にさえ。
師鬣未熟は――嫌われた。
どうしようもなく、間違い尽くして。
終わって、しまった。
「く――ぅ、
抑えようと、しても。
治らない。治って、くれない。
目をきつく閉じて、まろび出ようとする涙を囚えようとしても、とめどなく溢れる水滴が、眦から溢れ続ける。悲鳴のように、流れてゆく。
だから――暮れなずむ陽の影。闇の中に溶け消えてしまえれば良い、なんて願いさえ込めて、隠れ潜む彼女を、
きっと彼女があげることのできた、そのか細い悲鳴ゆえのことだった。
「――あー、その」
声が聞こえた瞬間、反射的に肩が跳ねる。きゅっと身をかき抱いて、けれど見つかっているならば、そんな行動に意味はない。相手が誰であろうと、泣いている少女に声をかけるような
「あんたが、師鬣未熟?」
身が竦む。どうして名前を知っているんだ。聞き覚えのある声ではない。
「あー、すまん。ビビらせちまった……よな。心配しなくても、怪しいもんじゃない」
俺は――
「六町らいかの使いのものだ」
と。
言われたその名に――思わず。
彼女は顔をあげた。
あげて――しまった。
「あ――あなた、は……」
沈みかけた西陽に照らされて、オレンジ色に輝くサングラス。逆さに被られたベースボールキャップと、ジャラジャラと垂れる真鍮のアクセサリー。小麦色よりも強く焼けた肌と、無造作に生えた髭。服装は見るからにB系で――その姿はどうみたって、真っ当な人間には見えなかった。
「ひっ――!」
今度こそ、師鬣未熟は本物の悲鳴をあげた。それが耳をつんざくようなそれとして現れなかったのは、つまり彼女の身に染付いた癖ゆえでしかない。本当に恐ろしいものに出会ったときには、声を荒げるのではなく、息を潜めてしまうという――天性のビビり癖の。
しかし大声を上げなかったとは言え、明らかに眼前の少女の自分を見る目が恐怖一色に染まったのをみて、男は慌てる。
「ま、待て待て待て。別にあれだ、俺はあんたを攫いに来たってわけじゃない」
「こ、この場でってことですか!?」
「えっ、何が!?」
まさか、自分は売られたのだろうか。六町らいか。後から聞いた話によれば、校内では伝説の不良であるらしい彼女。実際に話してみた感覚で言えば、決して悪い人だとは思わなかったのだけれど――果たして、そのような自分の感覚が、どこまで信じられるものだろうか?
「その、だな。あー。なんだ。あんた、なんかあったんだろ?」
「何もありません!」
「そんなべちゃべちゃの顔で言われてもな……」
言われて、羞恥に顔が赤くなる。涙だけでなく鼻水にさえ塗れて、今の未熟は酷い顔だ。
「俺でよけりゃ、話、聞くぜ?」
「結構です! 私、あなたみたいな人にホイホイついていくほど落ちぶれてません!」
「酷い言われようだな」
しまいにゃ泣いちまうぜ、俺が。なんて言いつつ、彼は困ったように後ろ頭を掻いた。
「泣いてる女の子をほっぽってみないふりできるほど、俺は世渡りが上手くないんだよ」
だから――
「悪い、前言撤回だ」
「へ?」
「あんたを攫う」
むんず、と。
子猫のように持ち上げられて、彼女は男に抱き抱えられた。
「な――何するんですか!?」
「別に、変な気を起こしたわけじゃねぇよ。ま、そうだな。あんた、好きな食べ物とかある?」
「ありません! 私は食べ物なんて食べません!」
「そりゃすげぇ。省エネだな」
言いながらも、男は彼女を抱えたままずんずんと進んでいく。このままでは、本当に拐われてしまう。彼女の脳裏に、暗黒の未来予想図が浮かんだ。
「だ――誰か」
彼女は、弱い人間だ。
けれど。
窮鼠猫を噛む。
あるいは、火事場の馬鹿力。
結論から言えば――彼女は勇気を出した。
「誰か、助けて――――!」
ヘロヘロと震えた声であっても。人の消えた夕暮れの空には、その悲鳴がよく響いた。
「ば、馬鹿野郎!」
静止する男の声。しかし、それはもう遅い。
「ちょっと、そこのあなた」
背後からかけられた声に、彼は固まる。
「うちの生徒に、何をしているんですか」
駆けつけた警備員に、彼はただただ苦笑いを返すしかない。
助けを乞う少女を抱き抱え、連れ去ろうとする大男。何をどう言い訳したとしても、犯罪の現行犯だった。
「ご同行願えますね?」
「……はい」
こうして。
六町らいかが頼った助っ人――あの日出会ったライブハウスのバーのマスター、
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