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「……遅いわよ」
「いや、あの、すいません」
夜の九時。夜更け、というほどでもまだないが。しかしもう、夜も盛りだ。
三条大橋。その根元にて、未熟は彼女と相対していた。
未熟は眼前の少女を見る。
自らの敬愛するバンドのリーダーにして、自らの絵を散々にこき下ろしてみせた、不倶戴天の敵である、クロカのことを。
防寒のためだろうか。今は昼間の衣装を隠すように、漆黒のモッズコートを前をぴっちりと閉じて着ているけれど、その麗しきは昼間のそれと変わらず――いや、むしろ。夜の闇を受けて、より一層増したようにさえ思う。思わずその瞳に、眩みそうなほどに。
「……大丈夫、あんた?」
はっ、と意識を取り戻す。危うく、見惚れるあまり我を忘れるところだった。いや、もう遅いけれど。ともかく。
「す、すいません。大丈夫です」
「……ま、それならいいけど」
それで――と、彼女は視線を橋の根元へとやる。
「なんでこの場所な訳?」
「それは、その――」
少なくとも未熟にとっては、思い出の場所だから――なの、だが。
「うるさくって仕方ないわね」
京都における、ストリートミュージシャンの聖地。真冬であれど――毎夜、誰ぞの歌声が聞こえてくるのだ。冬の寒気も遠く、夏の暑さもまだ前の、ゴールデンウィーク寸前のこの時期に、人気が絶えるわけもなく。
絶賛、路上ライブ中、である。
今この時でさえなければ、敵情視察とばかりにしばし聴き入るのも一興だが。
「……場所、変えましょうか」
「ま、そうね」
話し合いに向く環境ではなかった。
鴨川沿いを、ぶらぶらと北向きに歩く。
四条方面に向けてであれば人気も多いが、こちら向きであればむしろ減る。デルタ地帯にまで近づけば阿呆な大学生のテリトリーで、また騒がしくもなるだろうが、その中間ならば静かなものだ。御池大橋を越えてしばらくする頃には、すっかり人気も消え去っていた。
せせらぎに紛れて、しばし。足音だけが響く。
続く沈黙が檻のように重なった果て、やがて彼女は顔をあげ――
「「あの」」
被った。
「……あ、えっと」
「……先、いいわよ」
「いえ、いいです、先、どうぞ……」
「譲り合ってても終わらないでしょ。いいから、先、言って。私まだまとまってないから」
いや、それは自分もなのだが。と、未熟は言いたいけれど。
しかし、自分が言いたいことは、ある意味ですでに決まっている。
「……私、わからないんです」
胸の内に秘めた言葉を、吐き出す。
あるいはそれは自由落下にも似て、加速度とともに。
流るる川を背に、彼女は一人、立ち向かう。徒手空拳にて、未熟にも。
「昔から、人の気持ち、ってやつが、まるでわからないまま、生きてきました」
それは。
それは彼女の半生の吐露だった。
「いつだって、他人が怖い。それは、自分と違うから。どうしたって、私は人間と異種である。たとえば羊の群れに狼一匹ならそれでもやっていく方法はあるかもしれない。けれど狼の群れに一匹の羊なら、それはただ貪られるだけです」
いいえ、それさえも正確じゃない。
「私は人間の成り損ないだ――と。常に自覚して生きてきました。私はどうしようもなく臆病で、卑屈で、だから戦うことが怖かった。自分が弱いことが処世術でした。だからこそ生きてこられました。どうしようもなく弱くて、一人で、孤独で、そうであることを武器にして生きてきました。それは他人に振るう刃ではなく、自分に振るう刃として。私は可哀想なやつなんだ、って。私は可哀想な出来損ないだから、許してください、って。そうやって十六年間、生きてきました」
地に頭を擦り付けて。
踏み付けられることを快楽であるかのように振る舞って。
卑屈に、卑賤に。
戦わずして、負け続けていた。
「あなたに言われたことは、全部、正しいです。私の言葉は、嘘偽り。貫き通せるなら本物だけれど、そうでさえない。本当はずっと、わかっていた。わかっていたのに、逃げ続けていたんです」
一歩ずつ。下がる。連日の雨ゆえだろうか。背後の川の流れは、平時より、急。舗装された土手の際。転げ落ちる寸前の最後の一歩に、立つ。
「だけど、もうやめます」
不退転を示す、背水の陣。
「私は逃げずに――立ち向かう」
付け焼き刃のそれではない。
出来損ないの鈍であっても、本物の。
自分だけの、太刀を構えて。
「らいかさん」
「何?」
「私、隠してたことがあります」
彼女は、その場で制服を脱いだ。
「は――!? ちょ、あんた!」
慌てるクロカだけれど、羞恥心など消えて久しい。どうせ誰もいないのだ。
服を脱ぎ捨て、下着だけになった彼女は、三つ編みを解く。戒めを解かれた髪が風に流れ、細らかな指が、それを今一度捕まえる。
解いたヘアゴムをもう一度髪に通し――けれど今度は、一括りに。
持ってきた鞄から出した服は、シャツにジーンズ。タイトなシルエットのそれを身につけ、靴さえも履き替える。
髷のように、高く括られたポニーテール。抜き身の刀のように無駄のないシルエット。猛く鋭いその視線は、今はわずかに潤んでいるけれど。それを覆い隠すように、パチリ、と。音を立てて細い銀縁を開き、伊達メガネを掛ける。
今一度、目を見開けば。
そこに立つのは、今や師鬣未熟にあらず。
インディーズバンド、『ライカーズ』が誇るベーシスト。サムライ少女――獅子堂熟々丸その人だった。
「え――は? あ、あんた……」
「隠していて、ごめんなさい。クロカさん」
びょう、と夜風が煽る。艶やかな尾が風に舞った。
「私は、師鬣未熟で――獅子堂熟々丸でも、あるんです」
師鬣未熟は獅子堂熟々丸であり、獅子堂熟々丸は師鬣未熟である。
そのどちらもが真実であり――そのどちらもが偽りだ。
「クロカさん」
「え、うん。え?」
「私は、あなたみたいになりたかった」
いつの日か、見た。橋下の暗闇の中、歌う一人の少女を。この世の全てを嫌うような目で、それでも愛の歌を歌ってみせた、美しく気高い孤独の肖像を。
「『硝子の靴を踏み砕いて 痛みと共に歩いていこう』『お情けみたいな慰めじゃ 踊れるものも踊れないわ』」
それは、『褪色硝子』のワンフレーズ。いつか聞こえた、魂の原風景。
「『呪いに塗れ空は曇り 救いを歌えど嘘まみれの』『どれほどくだらない世界でも きっと愛して見せてやる』」
アカペラの、震える声で歌われるそれは、古い記憶の裏返しだ。
「その言葉を言えるあなたが、私には羨ましかった」
決して、素晴らしい演奏ではない。美しい歌とは言えない。どうしようもなくがむしゃらで、荒削りで、暴力的なほどに未熟なままで――それでも彼女は、世界を相手に戦っていた。
この世界を。
このくだらない世界を。
それでも愛そうと叫べるあなたが――羨ましかった。
「私はこの世界が嫌いでした」
自分を愛してくれない世界が。
自分を救ってくれない世界が。
自分を許してくれない世界が。
どうしようもなく大っ嫌いで――だからこそ自分を呪うしかなかった。
世界に愛されないのなら。
世界に救われないのなら。
世界に許されないのなら。
世界に拒絶される私の方が、悪いんだと思うしかなかった。
「けれど、あなたは違った」
かつて見た、名も無き『黒姫』は。
傷付き、苦しみ、疲れ果て。
それでも、愛を歌ってみせた。
自分を愛さない世界を。
自分を救わない世界を。
自分を許さない世界を。
それで良い、と。
愛されなくても、愛してやろう。
救わなくても、救ってやろう。
許さなくても、許してやろう。
そうすれば――いつか。
「『褪色硝子の心でも 君に届く歌を 歌えるから』」
愛されないあなたへの。
救われないあなたへの。
許されないあなたへの。
輝かしい歌を――
「だから私はあの日からずっと、あなたに憧れ続けているんです」
獅子堂熟々丸は――師鬣未熟は、包み隠さず、そう言った。
「あなたに憧れて、姿を偽って、年齢を偽って、キャラを偽って、バンドに潜り込みました」
今まで、嘘をついていて、すいませんでした――と彼女は頭を深々と下げる。
「でも」
でも。
それでも――
「私の思いは、嘘じゃないです」
それは誰にも、否定させない。
彼女はキッパリと、そう言った。
「私、あなたが好きだから、音楽をやっています」
彼女は一歩、前に出る。
「私、あなたが好きだから、絵を描きました」
彼女はもう一歩、さらに前へ。
「私、あなたが好きだから――」
あなたのことが、心の底から好きだから。
「あなたと、本当の友達に、なりたいんです」
彼女はそう言って――クロカの手を、握る。
震える手で。
恐る恐る。
壊れ物に触れるように、慎重に。
それでも――確かに。
彼女は本物の、勇気を出した。
「自分の絵に、価値がないなんて、もう言いません。あの絵は、
あの絵は。
「……負けたわよ」
クロカは言って、首を振った。
「あのね、熟々丸……いえ、未熟。私はね」
あんたにそんなふうに憧れられるほど、上等な人間じゃあないのよ。
と。
彼女は言いながら。
握られた手を、振り払って。
着ていたコートを、脱ぎ去った。
そこには――
「え?」
制服が、あった。
「あんたに敬意を表して、私も、
化粧を落とし、眼鏡を掛けて、ウィッグを外して、髪を結んで。
彼女はライカーズのリーダー、クロカから、戻る。
吠巻黒歌へと、巻き戻る。
「え、え――?」
「私も、あんたと同じ学生なのよ」
今まで嘘ついてて――ごめん。
と。
彼女は、頭を下げた。
「吠巻黒歌。十七歳。あんたと同じ女子高生で、あんたの一年先輩よ」
両腕を広げて、己の姿を見せつける。
隠し立てせず、恥じらうことなく。
「あんたらの前でやってるのは、全部演技よ。あんたは私のことを随分と褒め称えてくれていたけれど、本当の私は、そんな御大層な大人物じゃあありゃしないわ」
見てくれ通りに。
見てくれ以下に。
どうしようもなく凡俗で。
どうしようもなく低俗だ。
「学校じゃいっつも俯いて、時間が過ぎるのを待ってるばかりの、どうしようもない陰キャ。かっこよさなんてどこにもなくて、見た目もブスで、性格も悪くて、嫌われ者」
――それでも。
「自分が作る曲だけは、世界一だと思ってる」
そんな夢を、捨てられないでいる。
「昔ね」
彼女は、か細い声で言った。
「私も、絵を描いていたのよ」
子供の頃の、ほんの一時期の話だけどね、と、彼女は言い訳がましい前置きをした。
「だからってわけじゃないけれど――いえ、だから、よ。だから、なの。私は――」
あんたに、嫉妬したのよ。
「自分より年下の癖して、私より遥かに才能に恵まれていて、それなのに――自分を誇らない、そんなあんたが、憎らしかった」
八つ当たり、だったのよ――と彼女は言った。
「全部全部、八つ当たりで、深い意味なんて何にもなくて、それは――」
――あの、『褪色硝子』も、同じこと。
「あんたはそれに、感銘を受けてくれちゃったみたいだけれどね、あんなのただの、八つ当たりで、やけっぱちで、私小説なのよ。自分自身のエゴを、苛立ちを、怒りを、ただぶつけただけ。恥ずかしくって仕方がないような、八つ当たりの歌なのよ」
だから。
だから私は、それから逃げていた。
「大人になりたかったんでしょうね」
未熟だった自分を、切り離したかったのだ。
だから、バンドを組むようになってから、ソロ時代の歌は歌わなくなって。
まるで何もかも見えないもののように、深く深く、心の奥底にしまい込んだ。
「でも――」
でも。
そんな未熟な自分でも。
そんな未熟な自分だからこそ。
その歌は、誰かの胸に届いていたのだ。
ならば。
ならば――
「それは案外、悪くないわ」
そう思えた。
だから。
「ありがとう」
感謝するわ――あんたに。
「そして――ごめん」
クロカは、深々と頭を下げた。
「アーティストとしての信念が、ないだなんて言って」
何も知らないくせに。
知らないままに否定して――ごめん。
頭を下げたまま、言い切って、そして――
「頭を上げてください、クロカさん」
彼女は今度こそ、クロカの目を、まっすぐに見つめる。
「あなたは自分が、本当の自分が、かっこよくないだなんて言いましたけど――」
それは嘘です、と。彼女は言った。
「あなたがどんな姿でも、あなたは世界一、かっこいい」
だって私が惚れたのは。
あなたの姿形じゃなくて、その生き様なのだ。
「その生き様だって、嘘塗れよ」
「嘘じゃないですよ」
嘘じゃない。
たとえそれが、コインの裏であったのだとしても。それでもそれが、偽りに成り果てるわけじゃない。
「あなたの歌は、本物です」
いつだって、その思いを。
胸に秘めながら、生きているのだ。
それのなんと、美しい限りのことだろう。
「あなたは、私の憧れです」
だからこそ。
「もう一度、聞きます」
クロカさん。
「私と友達に、なっていただけますか?」
そう言って、師鬣未熟は手を伸ばす。
吠巻黒歌に、手を伸ばす。
その指先は、もう震えていない。獅子のように、堂々と。真正面から、彼女はその手を差し出していた。
だからこそ、彼女は。
「……全く、私の完敗だわ」
それが酷く幸せなことであるかのように、小さく淡く微笑んで。
その手を確かに、握り返したのだった。
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