4
そのまま帰る気にもなれなくて、彼女は夜の街を、フラフラと歩いていた。
ライブハウスから丸太町通りへと下り、そのまま丸太町通りを引き返すように歩いて、鴨川へ。
足が向かうのは、三条大橋だ。
最近、何かに迷うたびに、そこへ向かってしまっているような気がする。これは、何かの未練なのだろうか。自己分析をするのも嫌で、彼女は思考を打ち切った。
丸太町橋の脇から河原の道へと降りて、南へ。まるで家から遠ざかるように、歩く。
もう、夜も更けてきた。
誰ともすれ違わないままに、彼女は河原の道を歩いていく。
靴の裏が、砂でジャリジャリとして、気持ちが悪かった。
二条大橋を越え、御池大橋を潜り、さらに先。
三条大橋が見えてくる頃になって――違和感。
違和感を、彼女は感じている。
それは何か。
その違和感の正体は――人気がないことだ。
三条大橋の近くまでやって来たというのに、人の気配がまるでしない。
普段ならば、イチャイチャと鬱陶しい等間隔カップルどもや、虫のようにうぞうぞと蔓延る下品な観光客どもが屯して、人に酔うほどであるのに――今は。
人っこ一人、いやしなくて――
ポツリ、ポツリと。
また、雨が降り出していた。
「……傘、途中で買えば良かったかしら」
なんて独り言を呟いたのは、多分、自分を鼓舞するためだ。
これはなんて事のない、日常の延長線なのだと。
そんな風に思い込むための、強がりみたいな薄っぺらの言葉だ。
違和感は、すでに、怖気へと変わりつつある。
どうにも、嫌な感じがした。
具体的に、それがなんなのかを言語化することはできない。
あるいは、それは言語中枢が出来上がるよりも前の、原始の脳が発する警告だったのかもしれない。
今となっては。
全て、遅い話だけれど。
「おい、お前」
呼びかけは、橋の下からだった。
男の声だ。
見れば、人影が、闇の中にぼんやりと浮かんでいる。
不審者――という言葉が脳裏に浮かんだ。
「お前だよ、そこの女」
何処の馬の骨ともしてぬ男に、そこの女、なんて不躾に呼ばれて、クロカは思わずカチンと来る。他に誰もいない以上、呼びかけているのは自分に対してだろう。
ならば――
「何? 悪いけど、ナンパならお断りよ」
勤めて大声で、強気に。威嚇するように鋭く言葉を発しながら、彼女は橋の脇の、橋の上へと上がるための階段をチェックする。人気はなく、駆け抜けられる。橋下には奇妙なほど人気がないが、流石に、上へ上がれば誰ぞいるだろう。
「なんだよ、ツレないな」
けけ、と人影は下品に笑って、ゆっくりと、こちらへ向けて歩き出した。橋の下から、出てくるつもりらしい。好きにすればいいが、階段を塞がれると困る。
あまり、時間をかけるのは得策とはいえないだろう。意を決して、彼女は階段を駆け上がるべく、足を踏み出した。
瞬間――
「は?」
彼女は思わず、足を止めた。
橋の下から、ぬらりと。
現れたそれは――
ギチギチと、蠢くような音色が響く。
鎧のように肌を覆う、薄緑の甲殻。根本から裂けたような六本指には、ねじくれたような鉤爪。両足はバッタの後脚のような逆関節。顔面は――まるで、蟋蟀と人を合体させたかのような、異形の相貌。
それはこの世のものとは思えない――怪人の姿だった。
「ひ、ひ……な、あんた――俺が怖いか?」
ひぃ、ひぃ、ひぃ――と。
まるでひきつけを起こすように、その怪人は醜悪に笑う。
「醜いか? 気持ち悪いか?」
そうだろう。
「だったらよう」
お前のこと――
「俺より醜い死体にしてやるよ」
――ひぃ、と。
笑いなから、その怪人は
その両足のバネを使って、激しく、疾く。
一足跳びにクロカの眼前へと舞い降りたその怪人は――その腕を広げた。
ぐぱりと開かれた六指。その先端に伸びる鉤爪は、一本一本が大ぶりのアーミーナイフのように鋭く、人体を容易く引き裂くであろう凶暴性を兼ね備えている。
それに対して、クロカは恐怖を抱かなかった。抱いたのは恐れよりも、諦め。恐怖ではなく、諦念。ああ、自分は死ぬんだな――なんて、ともすれば呑気にさえ、思う。自分はもうここまでなんだ、ここから先はないんだ、という納得。それがクロカの心を満たし、穏やかにと言えるほど凪がせていた。
後悔は、ある。夥しいほどに。まだ自分は何も成し遂げていない。音楽家として、ようやく日の目を見れそうだ、というところで、死ななければいけないなんて、最悪にも程がある。まだまだやりたいことは沢山あった、けれどそれも、もうできない。
もしも死後の世界というものがあるのなら、もう一度熟々丸に会いたい。そんなことだけを思って、彼女は振り下ろされる残酷に目を瞑り――
カァン、と。
高らかなる雷鳴が、響き渡る。
彼女は再び、目を見開いた。
見れば。
クロカの眼前にいた怪人が、
「――遅くなって、悪い」
彼女は。
クロカの眼前に立ち塞がるようにして――その青い羽織を、翻した。
「助けに来たぞ、クロカ」
白いTシャツ、ジーンズに、青い羽織と高下駄を合わせるミスマッチ。
それはあたかも――ヒーローのように。
蒼き月光に照らされながら――彼女は鮮やかにも、参上した。
「何もんだ、お前――」
現れた闖入者に、怪人は己の腹部を押さえながら、問いかける。口の端から、泡立つ血がこぼれ落ちていた。血の色は、人間と同じなのか。クロカはぼんやりと、思う。
眼前の少女は――
「私の名は、六町らいか」
凛、と。
澄み渡るように、名乗りをあげて。
「『ガンマン』をやっている」
ダァ――ン。と。
雷鳴が響き渡り。
怪人の顔面――その右半分が、砕け散った。
「ぐ、ぎぃいいいいッ!」
悲鳴が響き、怪人は、砕けた顔面を手で押さえる。
重症――だが、致命傷には遠く。
六町らいかは――その怪人へと近づいていく。
「ひっ――アァッ!」
ぶん、と大ぶりの、鉤爪による一撃。
だが、そんなやぶれかぶれが彼女に通用するはずもなく――
ダァ――ン、と。
雷鳴が轟き。
その鉤爪が、腕の根本から砕け散る。
怪人は
「お前じゃあたしには勝てないよ」
残念だったな――と、らいかはその現実を突きつける。
呟く彼女の、前で。
「嫌だ!」
怪人は。
「こ――殺さないでくれ!」
まるで人間のように、命乞いをした。
「た、頼む、死にたくない――!」
そんなことを、泣き叫ぶ怪人に――
彼女は。
「嫌だね」
残酷にも、最終通牒を突きつけた。
「お前は――ここで殺す」
その決意は揺るぎなく、だからこそ。
「待って!」
それに待ったを掛けたのは、その戦いとすら言えない一方的な蹂躙を背後から見ていた、吠巻黒歌だった。
「そいつのこと、こ、殺すの?」
なぜか。
クロカはひどく、焦っていた。
「ああ、殺す」
「あんた、圧勝してるじゃない! もうそいつ、動ける状態じゃないわ! 何も殺さなくても――」
「怪人は」
彼女の声を遮るように。六町らいかは言う。
「人を殺すごとに、その異形度を増す」
こいつは、少なくとも五人は殺しているだろう。
らいかは氷のように冷たく言った。
「人を、殺すごとに――」
「そうだ。怪人は、人類の敵性種なんだよ」
だから、殺す。
彼女は言う。
言うけれど――
「そ、それでも!」
彼女はそれでも、食い下がる。
「それでも、あれよ……裁判を受ける権利とか、あるはずよ!」
自分でも、何を言っているのかわからない。
なぜそんな怪人を、自分を襲って来たような相手の命を、救おうとしているのかもわからない。
ただ一つ。
彼女の心に浮かぶのは。
このまま。
このまま怪人が殺されて、それでめでたしめでたしなんて終わりは――気に食わない。
なぜか、なんてのはわからないけれど。
それでもなぜか、
「わ、私は」
私は――
「私はあんたが人を殺すところなんて、見たく無い……」
震える声で、彼女は呟く。
「人か」
らいかは、振り向かない。
「これが、人か?」
これが。
こんな異形が。
こんな異形に成り果てるほどの、人殺しが。
それでも、人か?
「ひ、人よ」
クロカは、声を張り上げた。
「言葉が通じるなら、人でしょ」
それはきっと、吠巻黒歌のというよりも、ライカーズの主としての、ミュージシャンとしての、クロカの主張だったのだろうと思う。
だからこそ――それを受けて。
六町らいかは。
「――そうか」
と。
短く答えた。
「おい、お前」
怪人へ向けて、らいかは言う。
「だ、そうだ。聞いていたな? 人間体に戻れ」
言われれば――彼は、その体をぐじゅぐじゅと変質させ、人間の姿へと、戻った。
腕を失くし、顔の半分を破壊された――哀れな中年男性の姿が、顕になる。
「近場の交番で、自首しろ」
全ての罪を告白しろ、と。彼女は顎をしゃくる。
「どんな判決が出たとしても、従え。いいな? 脱獄なんかは、考えてくれるな。一度見逃した相手を殺すのは、寝覚が悪い」
「わ、わかった――」
しきりに頷いて、彼はゆっくりと立ち上がり、階段を登っていく。
「――ありがとう」
最後の最後、振り向きざまに呟かれたその言葉が、誰に向けられたものだったのかは――だからきっと、明白だった。
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