2
「……なんで、あなたがここにいるんですか」
昨日のそれとは打って変わって、至って普通の口調で彼女は言った。
その後。
らいかに先んじて正気を取り戻した彼女――獅子堂熟々丸は、それまでの絶望の裏返しのように、凄まじい剣幕で他の部員を追い散らかして、美術室には二人だけが残ることとなった。
のっぺりとくすむ白の石膏像ばかりが、二人を見つめている。
「……その、なんというか」
肝の太さ――ありていに言えば図太さにかけて言えば、人一倍どころか人十倍とさえ言えるらいかだけれど、流石に言葉に窮した。
なにせ。
二人目、だ。
「君も、この学校の生徒だったんだな」
「それはこっちのセリフですよ」
頭を抱えて、熟々丸は言う。
座ったままさらに体を丸めて、けれどその姿勢になってさえ、肉体の豊満さが隠しきれない。机に巨大な胸が押し付けられて、天板に幸福のドームが二つ、腕に挟まれるように建造されている。
昨日とは違い、学生服に包まれているものだから、そのスタイルの良さに未成熟な幼さがトッピングされて、えも言われぬ背徳的な魅力が醸し出されていた。
俯いているからからいかの視線に気付きもせず、彼女はそのまま感情を叫ぶ。
「なんなんですか。なんでよりにもよってあなたなんですか。なんでよりにもよって美術室に来ちゃうんですか」
「一応、部員だから」
「なんで部員なんですか!」
そんなこと言われても。
「ていうか、え?」
彼女は頭痛を抑え込むようにこめかみに手をやった。
「昨日……あなたお酒飲んでましたよね?」
「うん」
六町らいかは頷いた。
誤魔化そうとしても、今更無駄だろう。
ならば開き直って、堂々としていた方が良い。
六町らいかは、決して罪の意識を持たない人間というわけではない。
だが、それをきちんと自覚した上で、社会における罪と、己の基準における善悪を、完全に切り分けて、後者を優先する、タチの悪い人間だった。
「いや、絶対そんな胸を張って頷くことじゃないでしょ。せめて言い逃れようとしてくださいよ」
「だが、事実は事実だ」
あっけらかんと彼女は認めた。
「一つ言っておくと」
「……なんです」
「もしもそれをネタに私を強請るつもりなら、辞めておいた方がいい」
金がないから、と彼女は恥ずかしげもなく言った。
「身体で払えと言うのならやぶさかでもないが」
「いや言いませんし。そんなこと怖くて言えませんよ。というかそれはやぶさかであってくださいよ」
困った。世の中意外と、いい人間が多いらしい。
六町らいかは、自らのろくでなし加減を、理解した上で棚に上げるのが上手だった。
「ていうか、え? あなた、クロカさんと同い年じゃないんですか?」
「ああ、あいつは――」
と口を開きかけて、すんでのところで思いとどまる。
そう、彼女には口止めされているのだ。学校では、自分の正体を決して明かすな――と。
そこまで仰々しい口ぶりではなかったにせよ。
それにそもそも、昨日。
彼女もまた、酒を飲んでいる。
うっかり真実を話してしまえば、知らぬところでクロカの立場が危うくなってしまう。それは望むところではない。
「……あれだ。呑み屋で知り合ってな」
「……あなた、常習犯ですか」
熟々丸の目に軽蔑の色が浮かんだ。
らいかはちょっと興奮した。
「……ていうかやっぱりクロカさん、メンバー以外とは呑んだりとかしてるんですね」
彼女は少し、寂しそうに言う。
「どういうことだ?」
「……クロカさんと、プライベートで交友がある人って、いないんですよ」
俯き加減で、彼女はぽつりぽつりと言う。
つまり、ライカーズの面々は、クロカとあくまでもバンド上の付き合いしかない、という意味だった。
彼女の表の顔を知るらいかだから、クロカにとってそれこそがプライベートなのだろう、ということは分かるのだけれど、それを口に出すことは許されないのがもどかしい。
秘密を守れと言われれば、どんな拷問をされようともそれを吐かない自信はあるが。
しかしこのような責苦は、彼女にとって初体験だ。
そんならいかの苦悩をよそに、熟々丸は話を続ける。
「クロカさんって、かっこいいじゃないですか」
「え? ああ、うん」
一瞬、学校での吠巻黒歌を思い出して、首を傾げかけたらいかだけれど、確かに、ステージの上の彼女は、ともすればこの星の誰よりもかっこいいとさえ言えるだろう。
「だから、なんだかんだ、みんな割と気後れしちゃって、打ち上げとかでも、結局主役抜きでやることになったり……プライベートで誘えることって、なくて……」
私はその中でも、輪をかけてですけどね……なんて自嘲するように、彼女は卑屈に笑う。
「どうしてだ?」
「そりゃ、私、何もかも嘘っぱちですもん」
両手をあげて、彼女は投げやりに言う。
「年齢も嘘。名前も嘘。キャラも嘘。嘘嘘嘘嘘だらけ。本当は私、ライカーズに入れるような、特別な人間じゃあないんです」
「……え、待ってくれ、名前も?」
「そりゃあそうですよ。偽名くらい使ってないと、調べられたらバレちゃうでしょう」
それを聞いて、らいかはなんだか恥ずかしくなった。
「ていうか、あなたは堂々と本名名乗ってたんですね」
「まあそれはいいじゃないか」
きちんと突っ込まれて、らいかは急ハンドルを切った。
「それより、じゃあ、お前の本名は?」
「……本名は、
唇の先を尖らせて、彼女は言った。
師鬣未熟。十六歳。私立新神海岬学園高等部に通う高校一年生。それが、本来の彼女のプロフィールらしい。
年下、だった。
「新入生、なんだな」
「ええ、まあ」
後輩、なのだ。
昨日らいかが色っぽいなと思って眺めていた対象は。
「普段は、髪、結んでいるのか」
「悪いですか?」
「いや、それも似合っている」
素朴な雰囲気が、逆にいい。良くも悪くも純朴で、だからその表情が『哀』に偏るのもよくわかった。
「ま、そうですよね。所詮、こっちの姿が本当ですから」
レンズの向こうで目を伏せて、彼女はつぶやく。
「その……聞いてもいいか?」
「なんで偽っているのか、って? 昨日、あのメンツみればわかるでしょう?」
吐き捨てるように笑う。うらぶれた吐息。釣り上がった口端は、けれど相反する情を訴えている。
「元々、ライカーズはクロカさんに惹かれた人が、寄り集まったバンドなんですよ」
ライカーズの成り立ち。それはらいかも知らない話だ。
「三条大橋の下とか、四条河原町駅の出口前とかで、時々、歌ってる人がいるでしょう? 彼女もああいう、ストリートシンガーの一人だったんです。当然局所的なそれではあるんですけど、その手の人たちの中では結構、人気もあって――」
三条大橋の黒姫、なんてあだ名されていたこともあるらしい。宇治の橋姫にあやかってだろうか。もちろん、その手の界隈の中だけで、のことだろうけれど。
「私も、たまたま通りがかった時に聞いて、ファンになりました」
それくらい、彼女は『強かった』のだ、という。
輝きが。
魅力が。
人を惹きつける――力が。
橋の影に隠れるには、口惜しいくらいに。
だからこそ、そんな彼女に惹かれて、寄り集まったファンクラブが、ネット上にあったのだ、と言う。
「ファンクラブっていうか、同好会ですね。メンバーも、今集まってるあの四人にプラスして四、五人くらいで……」
ネットの片隅で、密かにクロカを
「でもそれを、クロカさん本人が見つけたんです」
いわゆるご本人登場です、と彼女は言った。
当然、コミュニティはお祭り騒ぎになったわけだが、話はそこで終わらなかったという。
クロカはそのファンクラブに向けて、
「『楽器をできる奴がいたら、私と一緒にバンドを組んでくれないか』――と」
それはたとえば、キリストが人間をとる漁師を求めたように。
「それで手を挙げたのが――」
「今のメンバー、というわけか」
「はい、そうです」
その一人が括野完全子であり。
その一人が不汲身虎兎であり。
その一人が焱火伽羅子であり。
その一人が――獅子堂熟々丸でもあった。
それが、ライカーズの始まり。
「初めはなんていうか、軽い気持ちだったんですよ」
少なくとも私は――と彼女は補足する。
「憧れのあの人が、わざわざ自分に――もちろん、自分個人にってわけじゃあなかったのはわかってますけど、声を掛けてくれた。だから、なんていうか、バンドをやりたいとかっていうより、憧れのあの人と直接話してみたい、直接会って触れてみたい、みたいな、それくらいのミーハーな気持ちで、ある種の野次馬精神で、深く考えもせずに、『やります』って言ったんです」
そうしたら――
「実際、集まってみたら、『あれ』だった」
「……あれ、っていうのは?」
「だから、あなたも見たでしょう? ……って、ああ、あなたは『そっち側』の人ですもんね」
へっ、とどこかでみたような卑屈な笑顔を覗かせて、彼女は言う。
「あの人たち、誰も彼も『キャラが濃い』じゃあないですか」
悲鳴のようにか細く、彼女は言った。未熟にも、じゅくじゅくと膿むように。
「アル中。ヤンキー。ミステリアス。誰も彼も、クロカさんにまるで劣らない。強烈すぎるほどに強大な個性と、確かな技術を持っている。
ばん、と机に両手を叩きつけて、彼女は叫ぶ。猛烈に。
「あっ、やべぇ、って! なりますよそりゃ! 私が来ていいとこじゃなかったわこれ、って! なるでしょうよそりゃ! 顔見た時点でわかりますよ! 私だけ場違いだなって! このままじゃ仲間外れだなって! だから作ったんですよ! キャラを!」
眼鏡を外して。
髪を結い直し。
服を着替えて。
心を入れ替え。
人の形をした魑魅魍魎――狂気が集う人外魔境に、一人立ち向かうための――見えない太刀を、心に構えた。
それはさながら武士のように。
「こちとら必死だったんですよ! 埋もれないように、やべー奴らに喰われないように、
椅子を跳ね飛ばして立ち上がり、もはや絶叫と言っていいほどに、血を吐くほどに喉を張り上げ倒して、彼女はぜいぜいと肩で息をした。
「でも、あれだ。似合ってたぞ」
かなり。とっても。すっごく。興奮するくらい。
そんな修飾をつけなかったことくらいが、唯一評価できる点であろうか。
「似合っててたまりますか! 私もう十六歳ですよ! いつまで中学二年生引きずんなきゃいけないんですか!」
いずれにせよ、らいかの言葉はなんの慰めにもなりはせず、ただ火に油を注いだだけだった。
漫画にだって出て来ませんよそんな小林製薬みたいなキャラ――なんて叫ばれても、らいかには意味が伝わらなかったが。
ともかくとして。
「それならそれで、別にいいんじゃないか? 無理だと思うなら、素直に打ち明けてみれば」
「『実は中身陰キャのオタクなんです』なんて、今更言えるわけないでしょう! 散々それで売ってきたのに! キャラをならまだいいですよ! 売れてんのは喧嘩ばっかりですよ!」
入荷次第即完売御礼押しも押されぬ大繁盛ですよ――わしわしと髪をかき乱して、彼女は絶叫を続ける。
「私だって誰彼構わず喧嘩売りたくはないですよ! でもうっかり武士キャラで始めちゃったせいで弱気なこと言えねぇんですよ! どんだけ凄まれて内心ビビってたとしても、今更引き下がれねぇんですよ! 必死なんですよこちとら! 虎兎さんに『あ?』って濁点付きで威圧されるたんびにおしっこちびりかけてんですよ! ていうかちょっと漏らしてんですよ! 家帰るたんびにパンツびちょびちょですよ! 最近はもうオムツ履いてんですよ! 一言ごとに喉元まで出かかった『ごめんなさい勘弁してください』を飲み込むのに必死で、いっつも自分でも何言ってるのかわかってないまま喋ってんですよ!」
衝撃的な告白がいくつかあったように聞こえたけれど、それに突っ込みを入れないだけの慈悲と良識はらいかにもあった。
「それを今更! 全部打ち明けるなんて! できるわけがないじゃあないですか! だって私が陰キャだって! オタクだって! どうしようもなく根暗な、
じわり、と。
彼女の眦に涙が浮かぶ。
「クロカさんに、見捨てられちゃうじゃないですかぁ……」
零れ落ちる涙を両手で拭いながら、彼女は立ち尽くした。えぐえぐと、時折しゃくり上げながら。
燃え尽きた蝋燭のように雫を落とす彼女を、らいかはじっと見つめた。
「……私は、黙っているよ」
たとえそれを明かすことを、誰よりもクロカ自身が求めているだろうとしても。
少なくともそれを言うべきは、当人たちだ。
「だが少なくとも、一つだけ」
彼女は指を立てた。
「クロカの歌は、誰かを見捨てる歌じゃあなかったと思う」
それだけは。
それだけはただ一つ、絶対的な真実だ。
たとえ相手が誰であろうとも。
今ここにいる『君』に、手を伸ばすのがクロカの歌だ。
それだけは、一人のファンとして、否定したくない事実だった。
「未熟」
あえて、らいかはその名で呼んだ。
未だ眦に涙を浮かべ、赤く泣き腫らしたままの彼女を、まっすぐに見据えて。
「君の絵を、私に見せてくれないか」
3
覆いを剥がされたキャンバスに浮かぶのは、暗い海だった。
立ちはだかる波は、けれど暗黒。雲に覆われた鈍色の空の下、光なき黒白の海が虚のように淡く広がる。
その波打ち際。境界のような灰の泡に、素足を触れさせ、佇む一人の少女。手に膝に顔に、傷ましくも青痣を付け、傷だらけに泣き腫らして、けれどそれでも気丈にも。キャンバスの向こう。その絵を覗き込まんとする観客をこそ、射殺すような強い目つきで。
「……いい絵だ」
あるいは、それを言い表す言葉が見つからぬことを、口惜しく思うほど。
クロカの歌だ、と思う。
この絵は、クロカの歌を描いている、と。
「この絵は、心を震わせる」
剥き出しなのだ。
感情が。
思いが。
ともすれば青いとさえ言えるほどに。
恥ずかしくなるほど裸のままの感情が、目を逸らしたくなるほど鮮明に、キャンバスに叩きつけられている。
だからこそ、心に響く。
深く、重たく、何者よりも強く。
一途に――届く。
それは恋文のようでさえあるだろう。
「師鬣未熟」
振り返って、らいかは彼女を見つめた。
困惑と、恐怖と――小さく、期待。
入り混じった表情で、彼女はらいかを見つめている。
待っている、と。
直感した。
スカートの裾を握りしめるその手の震えに、上から手を重ねて。
らいかは彼女の手を取った。
「君に、頼みたいことがある」
もはや、言葉は不要であるだろうけれど。それでもらいかは、それを正しく口にした。
「ライカーズの曲を――君の絵で、彩ってほしい」
微笑みと共に、らいかは言った。
その目を、彼女は真っ直ぐに見つめ返す。
目と目が合って、一瞬、息を呑むような沈黙の後、彼女は意を決して口を開いた。
「――絶対嫌です」
「え?」
え?
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