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放課後、というよりも深く。
下校時間を過ぎ去ってしばらくにも、校舎に留まる学生たちの多さにかこつけて、開きっぱなしの裏口から吠巻クロカは校舎に堂々と侵入を果たした。
わざわざ一度下校してから、改めて訪れることになった理由は、つまり『お色直し』のためだ。
「で、件の『ファンアート』は美術室にあるってわけ?」
「ああ」
マジカルステッキを使ってということもあるまいが、見事一回の女子高生から、新進気鋭の地下バンド、ライカーズのボーカルとしての姿へと変身したクロカを、らいかは玄関口の内側から迎える。
通行人もいない裏門からであるから、声を顰める必要もない。正門はすでにしまったこの時間にも、まだ校舎に留まっているような生徒は、どうせ日暮までいついたままだ。
警備員も、監視カメラがあるからと、かえって職務怠慢に励み、わざわざ人気の少ないこの場所まで見回りに来ることはほとんどない。部外者が入っても、気づかれることはほとんどない――というのは、セキュリティとしてどうなのだ、と思わなくもないが。
しかし今この時に限って言えば、その緩さはらいかたちの味方だった。
「美術室って、何階だっけ?」
「三階。案内しよう」
別段、その主人というわけではなく、むしろクロカに言われるまで自分がそこの所属であるということさえも忘却の彼方に置き去りにしていたらいかであるけれど。
意気揚々と先導を買って出て、らいかは階段を登った。
カツリカツリ、と、ハイヒールの踵が響く。本来ならばスリッパに履き替えるべきなのだけれど、誰が見ているわけでなし、どうせ生徒は上履きと外履きの履き替えを面倒臭がって、土足のまま上がり込んでいるのだ。汚れなど気にするほどではない。
二人は階段を二度上がって、三階。廊下の端の、美術室へ訪れた。
「鍵は?」
「いらない」
あるいはそれが電子錠の類でない、シリンダー式のものであるならば、たとえディンプルキーであったとしても素手で開く技能を修めているらいかであるけれど、しかし今日に限ってはそれを披露するまでもない。
部員たちは出払い、本来ならばすでに鍵もかかった時間だが、らいかが戸を引けば、からからと音を立てて開く。
「これが、
教室の中心。掲げられたキャンバスに、覆いは取り付けられていなかった。
色のない青。あるいは、涙の色。そう呼ぶべき、心を痛ましくも鮮やかに彩る、灰の海。佇む少女の瞳が、ただ、こちらを見ている。
何度見ても、綺麗だ、と思う。
それは美しい、という言葉とイコールではない。
ただ美しいだけの絵画であれば、きっとこれよりも美しい絵は万とあるのだろう。
けれど、この絵は
晴々しいほどに、
叩きつけられるような寂静の激情。
クロカは、小さく息を呑んだ。
「――これを書いたのは、誰?」
きっと、それは誰にともなく囁かれた言葉だったのだろう。きっとため息や、あるいは深呼吸に近しい一つの不随意運動。
だからきっと、それに返す言葉は必要なかった。らいかにはそれがわかって、だからこそ。
「――私、です」
その声に応えたのは
キャンバスの向こう側から、小さく、顔をのぞかせる少女。おっかなびっくり、飛び出したそれを追いかけるように、揺れる三つ編み。
「……なるほどね。見定めるのは、私だけじゃなかったってわけ」
驚きつつも、納得の行ったような顔で彼女は言う。
「いや、そういうつもりじゃ――」
なんて、ワタワタと手を振るその姿に、獅子堂熟々丸の面影はまるでなく――師鬣未熟はそこにいた。
「あんたが、この絵の作者?」
「一応、はい」
「背ぇ高いわね。何年?」
「一年です」
「こ――へぇ……」
おそらくは、『後輩か』、と言いかけて、クロカはすんでで踏みとどまった。
そう、万が一にも、その正体が露見するわけには行かないのだ。
少なくとも、彼女にとっては、まだ。
「てことは十六とか? なかなかやるわね」
「あ……その、誕生日、まだ来てないので」
「それじゃ十五か」
二つ下なんだ、とは、言えないが。
「……あんた、絵を描くのは好き?」
「え……あ、は、はい! す、好きです」
「……ふぅん」
彼女は腕を組んで、今一度視線をキャンバスに戻す。先ほどよりも鋭く、厳しい目付き。
「あ、あの!」
その横顔に、きっと勇気を振り絞ってのことなのだろう。声と膝を震わせながら、未熟は声をかける。
「――何?」
「く、クロカ、さん!」
「……そんな生まれたての子鹿みたいになってまでわざわざ話しかけようとしなくたっていいわよ。心配しなくったって、あんたの大事な絵をどうこうしようだなんて思っちゃいないわ」
「いえ、ち、違くて、あの!」
顔を真っ赤にしたまま、彼女は眼前で両手をぶんぶんと振る。
「す、好きです」
「……そりゃどうも」
この部屋に来てから初めて、少しだけ眉尻を下げて、彼女は笑った。
「あの、この絵は、ライカーズ時代の前の、まだクロカさんが
三条大橋の黒姫。
それは吠巻黒歌が、まだライカーズのクロカになるよりも前。名も無きただ一人のストリートシンガーであった時代、彼女はそう呼ばれていた。
「……よく知ってるわね。あれ、私がちゅ――三年くらいは前に歌った曲でしょ。あんたその時、まだ中学一年とかよね?」
ネットにもあげてないし――と彼女が言えば、未熟は待っていたとばかりにそれに食いついた。
「あの、ずっと気になっていたんですけど、どうして、ソロ時代の曲を出さないんですか!?」
褪色硝子。そのタイトルは確かに、らいかが彼女らのチャンネルを見た時にも、見かけなかったタイトルだ。あるいはライブ専用の楽曲なのかとも思ったが、どうやら、そうではないらしい。
「私、クロカさんの歌の中で、やっぱりあの曲が一番好きなんです。でも、CDにも収録されてないし、ライブとかでも、一回もやってないですし、どうして――」
「悪いけど」
ピシャリ、と。
声から色をなくして、彼女は言った。
「そういう話、外部の人間にはできないから」
「――っ、あ……す、すいません」
額から、汗を流して。未熟は俯く。助け舟を出すべきか、と視線を向けるが、それに未熟が気付くよりも早く。
「あんたの画風は、大体わかった。やる気があるなら、まあ、任せてもいいとは思う」
でも――
「やりたくないらしい、って、聞いたけど」
「いえ、その――」
視線を彷徨わせてから、彼女は結局、俯いた。
「私の絵に、そんな価値はない……ですから……」
その言葉に。
クロカはひどく、顔を顰めた。
「価値はない、ね」
正気を問うように片眉を釣り上げて、彼女は腕を組んだ。
やれやれ、とばかり深々とため息をついてから――這うような冷たい視線で、未熟を射抜いた。
「先に言っとくけど、別に、気を使わなくたっていいわ。あんたがどういう意図で断ったのか、別に真実がどうであったとしても、それで揺らぐものなんて一つとして存在しない」
ただ。
と。
組んだ腕から、片手の人差し指だけを忠告の立て看板のようにビシリと突き上げて、彼女は言う。
「私、嘘は嫌い」
特に、自分に嘘をついている奴が――と。
彼女は言った。
「アメリカ人じゃあるまいし、桜の木を誰が切ったかなんてどうでもいいわ。極論、自分はやってないって誤魔化そうとするんだったら
踵を鳴らして、彼女は美術室の中を歩き回る。
つまり、基準は信念の差異。
「腹を割って本音で話そう、なんて本音の意味もわからず軽々しく言ってくる連中がいるけれど、私ああいうの大っ嫌いなのよね。だってそうじゃない? つまりさ、あの手の連中は、腹を割らない限りは、本音を話す気なんてないって自ら告白しているわけよ」
笑っちゃうわよね。
と。憐れむような、嘲りの唇。
「建前、方便、嘘偽り。どれもこれも、くだらないわ。相手の顔色を伺って出てくる言葉に、魂なんて宿らない。顔色を伺うなら自分の心のそれを伺うべきよ。誠実にというならそれに対して誠実であるべきだわ。そういう意味で、この絵はそこそこいい線行ってると思う。だからこそ、それを不純物で濁そうってんなら、私はあんたを軽蔑する」
だから――
「好きにも嫌いにも、等しく筋を通しなさい。私たちのことが嫌いなら、それならそうとはっきり言ってくれて全く構わないわ。そうしたら私も、真正面から嫌ってあげるから」
不遜にも、小首を傾げて。
身長でいうならば負けている彼女なのに、見下すように顎を突き上げて。
彼女は吠えた。静かであれど、名の通り。
「……わ、私は」
気押されたように、一歩後退りながら。
「い、嫌なわけじゃなくて」
「……その勿体ぶった喋り方ってさ、防衛な訳?」
彼女は苛立ったように言う。
よくない兆候だな、と。なんとなく直感したらいかは、間に割って入ろうとする。
「クロカ」
「うっさい、あんたは黙ってて」
一瞥もくれずに言い放つクロカ。未熟から視線を外さぬまま、ただじっと、怯える彼女を見つめ続ける。
「弱いふりをしたら、誰かが守ってくれる? 今みたいに、このアホは単純だからね。あんたみたいに貞操観念緩そうな女相手なら、特に簡単にコロっと行くわ」
「て、貞そ……!?」
「ああ、何? 不愉快だった? 悪いけどさ。私多分、あんたみたいな女嫌いだわ」
それを言われた瞬間。
未熟は、魂が砕け散るような衝撃を受けた。
「き、嫌いって……」
「クロカ、やりすぎだ」
「うっさいのよ。あんた。ちょっと黙ってらんないわけ? 今、私はこいつと喋ってんのよ」
それとも――
と。彼女は未熟へと向き直る。
「あんた、助けてほしいわけ? このポンコツにさ。なんて言って助けてほしいの? 言い過ぎだ、なんて誰にでも言えるわよね。でも、けっきょくそれって主体性がないでしょ? 言い過ぎ、やり過ぎ、過ぎたるは及ばざるが如し――なんて言うけれどじゃあ過ぎないちょうどのすり切り一杯って果たしてどこが水準な訳? 相手を傷つける強度もないか弱い言葉が、果たして相手の心に及ぶものかしら?」
一息で言い切って、けれど勢いは止まらない。
「それとも、及んでほしくない言葉がある? じゃあそれって何? あんたの心は一体何を伝えられたくなかったの?」
畳み掛けるような攻勢。らいかは無言で間に割って入った。
「どきなさいよ」
「彼女を紹介したのは私だ。責任がある。これ以上続けるなら私を通してもらおう」
「あんたさ。やってるあんたはそれがカッコよくてそれで十分なんでしょうけれど、やられる側が果たしてそれを望んでいるのかっていう点を、まるっきり無視しているわよね。それって私がやってることと何が違うわけ? 一言でも、こいつがあんたに助けてくれって言ったのかしら」
「必ずしも言葉ばかりが世界を作るわけじゃあない」
「だとしても言葉にしなければ伝えられないものはあるわ。そして、それをしようとしてんのは私で、邪魔してんのはあんた。三度目よ。出ていきなさい」
クロカは美術室の出口を指だけで指す。
「断る」
「あんたが断るのを私が断る――と言いたいところだけど。いいわ。なら、そいつがそう望むなら、出て行くのは私にしましょう」
彼女はわざとらしく鼻で笑って、らいかの背越しに未熟を見る。
「あんた、私と話すのは嫌? 嫌なら嫌ってはっきり言っていいわよ。そこのアンポンタンがあんたを全力で助けてくれるから。私なんか手も足も出ないくらいに強いし、見た目よりかは遥かにちゃんとしたやつだから、安心していいわ」
と。
投げかけられて未熟は。
「……っ」
ただ困ったように、視線を彷徨わせた。
「クロカ、いい加減にしろ!」
「だからさ。いい加減にすんのはあんたなのよ。こいつは何も言ってない。あんたが勝手に決めるなっつてんのよ」
らいかの威勢に、クロカは欠片も怯まない。
「本気でやる気があるならさ、持ち合わせの暴力とやらで私を
らいかはそれに――ただ、沈黙を保つことしかできなかった。
「ふぅん、そこが境界? 案外普通なのね、あんたも」
それで――と。
口を噤んだらいかの真横を通り抜けて、クロカは未熟に近づいた。
「盾は役立たずになったわけだけれど、気分はどう?」
未熟は何も答えない。
答えることなんて、できやしない。
「言っとくけど、私はあんたがこれまで出会ってきたような、
どうなのよ。
と。
彼女は迫る。
一歩ずつ。踏み潰すように。
猶予を。
防壁を。
信念を。
縋り付く先の、頼みの綱を。
「愛想よく、誰かから嫌われないように。弱々しく立ち振る舞う。それってそこそこ大事なことよね。だけど、そのために自分を殺すなら、なんの意味があるのかしら」
愛想とは武器なのだ、と彼女は断じた。
「そして武器は、戦うためではなく身を守るためにある。攻撃は最大の防御、なんてよく言うでしょう? 愛想がいい、人に好かれる。これって武器よ。しかも、結構強い。使い方次第では超一流の戦士にもなれるでしょうね。でもあんたは違う。使い方がなってない。その武器を、自分自身に振るってる」
そういうの、気色悪いわ。
と。
彼女はそこまで、言い切った。
「他人に好かれる、嫌われない、ってのは、確固たる『自分』を他者に侵されず、守り通すための武器であるべきだと私は思う。人との関係が大切なのは、嫌われたら敵になるからでしょう? そういう意味で、私だって誰彼構わず喧嘩は売らない。絶対に勝てて、かつ反撃の恐れがない雑魚相手か、『自分』を脅かすような侵略者以外には、そこそこ愛想よく生きてるわ」
幻滅した? なんて自嘲の言葉も、今は耳に届かない。
「だけど、あんたは違うわよね。今ってさ。つまり、侵略されてるわけでしょ。あんた。自分の絵を値踏みされて、その価値を他人に勝手に決められそうになっている。私はさ、もっと噛みつかれてもいいと思ってたのよね。いや、噛みつかれるべきだ、と思っていたわ。だってさ、一度は『嫌』って言ったわけでしょ。その理由がどうであれね。多少、話は聞いたわよ。私たちのファンなんですって? 嬉しいわ。感動的。それを言ったのがあんたみたいな腰抜けじゃなけりゃもっとそうだったでしょうね。私だってまあ、好きなアーティストの一人や二人くらいはいるわ。たとえば映画監督ならファブリス・ドゥ・ヴェルツとか、池田敏春とかね。もしもそんな人たちの映画に私の音楽を、なんてオファーがされたりなんかした日には――そもそも合わないでしょうけど――畏れ多いって断るかもね。だけどそれでも、もしもそいつらから『君の音楽を映画に使ってやってもいい』なんてふざけたことを言われたら、ブチギレるわよ。ふざけんなよって。頼み方が違うだろって。まず地面に額を擦り付けてから言いやがれって。だから、あんたにはそれを期待してたわけ。そこそこ、見込みある絵ではあったわ。だから、もし、私に噛みついてこれるくらい、自分の絵にきちんと思い入れがあるなら、こっちから頼み込もうかなとも思った。土下座の一つや二つだって、いくらでもしてやったわよ。でも、ダメ。あんたがやってることってさ、結局、ファン活動止まりなのよね。
アーティストとしての信念が、これっぽっちもないんだわ。
なんて。
そんなふうに。
吠巻黒歌は師鬣未熟に向けて、ギロチンの刃のように気楽で気軽な残酷を、なんの気負いもないままに、あまりにも気風よく振り下ろしたのだった。
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