3
「――なんで私、あんなこと言っちゃったんでしょうね」
部屋の中央にナメクジが横たわっていた。
もうじき、日が暮れる。七時を過ぎれば警備員の見回りが来るが、そんなことを気にする余裕さえもない。
沈みかけた陽が最後に放つ、燃えるような赤光が、塩のように降り注いではナメクジの体を萎れさせる。
「後悔しているのか」
「当たり前でしょ……」
床に這いつくばったまま、クロカは応える。人の形を失っても。あるいは、人の形を失ったからこそ。
「ていうかあんた、良いわけ? あいつのことほっといてもさ」
あいつ、と言うのが誰を指すのか、わざわざそれを問い直す必要はどこにもない。
「泣いてたわよ」
そうさせたのは、私だけど――なんて、刻みつけるような反芻。
「勝手に暴走して勝手にいじけてるアホのこと、眺めてる場合じゃないんじゃないの。追いかけてやれば? 今からでも」
苦笑しつつも、らいかはその場を離れない。
「気にするな。そっちはそっちで任せてある」
たった今、受諾の返事を受け取ったメッセージアプリの画面を閉じて、らいかはスマートフォンをポケットにしまう。
「……あんた、ちゃんといるのね。こういう時、頼れる友達ってやつ」
「うん。最近増えた飲み友達だ」
「……それ本当に頼って大丈夫なの?」
少しだけ浮かんだ関心が即座に霧散する。
クラスメイトとかじゃねぇのかよ。
普通、任すか? 未成年を、飲み友達に。
どんな相手なんだ、そいつは。
クロカの脳裏に、嫌な想像が俄に浮かぶ。
あの純粋で気弱そうな少女のことである。うっかり悪漢に言いくるめられて、拐かされたりしないだろうか。
「心配するようなことは何もないよ」
不安げなクロカだが、らいかは自信を持って問題ないと答えられる。奴は信頼のおける人物だ。数度飲んだだけの仲かもしれないが、らいかが抱くこの手の直感は外れない。安心して良いだろう。
「未熟のことは、大丈夫だ」
だから――
「あとはお前だよ、クロカ」
言えば。
身を縮こめた影がもそりと動き、その隙間から、怯えた猫のような目がらいかを伺う。
壇上に立つ、鮮烈なる歌姫の衣装を身に纏いながらも、けれど制服に身を包む日々にさえ遠く及ばぬ、弱々しい姿。
空模様のように曖昧な、中途半端な隙間の相。けれど、だからだろうか。
「……聞いてくれる?」
いつになく素直に、クロカはそう求めることができた。
「いいよ」
らいかもまた、素直に応じる。聞いてほしいことも、わかっていた。察しの悪い彼女にも。流石に。
「どうして、ああも苛烈に言ったんだ?」
キャラじゃないだろう、とは言わない。激情は、きっとクロカの持ち味だろう。だけれど、爆発させる場面が違う。そんなふうに思った。止められなかった役立たずの、岡目八目気取りであるが。
「……私さ」
陽が暮れるまでの猶予を惜しむように少しずつ、クロカは自らの蛇口を緩めて行く。
「子供の頃、漫画家になりたかったのよね」
寝転んだまま。絵の具の染みがこびりついた床に、指を這わせる。
「親に強請って、絵画教室に通わしてもらってね。まあ、そんなしっかりしたとこじゃなくて、引退した画家のお爺ちゃんが手慰みにやってるようなとこだったんだけどさ。私にしちゃ、結構真面目に頑張ってたわけよ。絵を描くのが楽しいってのももちろん、あったんだけど、それ以上に――」
――
何かを懐かしむように。あるいは遠ざけるように。布に包まれたキャンバスが作る影を、彼女は見つめる。
「なんていうか、ね。本当、小学生なんてタコよりアホだから、割と単純なことで、上昇すんのよね。カーストってやつが。同じくらい簡単にくだらないことで下落するからクソなんだけど。ともかく――絵が上手い、って、ガキの界隈じゃ結構なステータスなわけ。絵画教室とか、通うやつの方が少ないのよ。大体。いいとこの子は、絵画より音楽とかの方にいきやすいし。マジの上流階級だと生花とかお茶とかね。本気で子供にそんなことやらす親いるんだって子供の頃戦慄したわ」
なんて、寝ている姿勢だからか本当にそこが肩なのかもわからない場所をすくめつつ。
「とにかく、私。当時はクラスで一番絵うまかったのよ。まあ、そうなるとさ――乗るでしょ、調子に」
私は天才だ、と。
そんな麻薬のような自尊心に、溺れるのは気持ちが良かった。
「一応弁護しとくと、子供心に、下駄履いているだけだってのはうっすらわかってたわけ。でもそれでも、『私はその分、努力しているから』って、言い訳ができちゃったから」
「言い訳でもないと思うが」
「言い訳よ。その努力だって、私の親が子供が望む習い事をやらせてくれる親だったからできた努力でしょ」
なんて言えるのは今だからだけどね。
腐れるように言って、けれどらいかは、それが眩しく見える。あるいは消えゆく西陽の残照よりも。
「とにかく、私は調子に乗って、私は将来漫画家になる。
コンクールの時期が来た。
「……私は、それが自分の晴れ舞台だと疑わなかった。私が受賞しないわけがないし、私が受賞するためにこのコンクールが開かれたんだとさえ思っていた。だから――描ける限りの最高傑作を描き切って、提出したわ。だけど」
端にも棒にも引っ掛からなかった。
「当たり前よね。クラスで一番絵が上手い、なんて、すごいように見えてその程度なのよ。小学生のクラスが日本に幾つあると思ってんの? って話だし」
それでも、当時のクロカは、まだ望みを捨てられなかった。
「『惜しくも逃した』、って。そう思いたかったのよ。私は。だから、偵察しに行ってやろうと思った。いずれ私がぶっ倒す連中の絵を、敵情視察に行ってやろうと思って」
そのコンクールの展示会に訪れた。
そして――打ちのめされた。
「なんていうかね、格が違ったのよ」
一生かかってもこんな絵は描けない、と。
そう思うような絵を、同い年の子供が描いている。
その現実を目の当たりにした時、折れたのだ、という。
天狗の鼻も、心も筆も。
一年。
それが、吠巻黒歌が筆を折ってしまうまでに、かかった時間だった。
「だからさ。私、
絵が上手い奴が。
かつて自分が諦めてしまった世界で、まだ諦めずに戦えている、天才たちが。
「それで、怒ったのか」
「怒ったんじゃない。八つ当たりよ」
結局。
クロカは許せなかったのだ。
どうしようもなく、自分が望んでも手に入れられなかったものを持っている人間が、それを粗雑に扱うことを。
筋違いの義憤。あるいは、無様な嫉妬。どうしようもなく浅ましい――八つ当たりだ。
「そうかな。実を言うと、私は結構単純なヤツでね。惚れた弱みといえばそれまでなのかもしれないが、お前が言うほど悪いヤツだとは思えない」
決して善人ではないかもしれないけれど。
さりとて悪人であるのかといえば、きっとそうではないのだろう。
なんて。少女の唇を奪ってなおも悪びれない、悪党から見れば。
「言葉は確かに悪かった。やり方もな。だが――決して八つ当たりばかりが全てってわけでもなかったんじゃないか。結局、お前はあの絵が気に入ったんだろう?」
「はん、冗談きっついわ。……あいつがベラベラ薄っぺらく語ってくれちゃった『褪色硝子』って曲はね、
歌えるわけないでしょ、今更、みんなの前で。
膝を抱えて丸まりながら、唇を尖らせて言うクロカ。
「私が言えた義理じゃあないのかもしれないが」
うずくまるクロカに近づいて、らいかはその横に座り込む。そっぽを向く顔を覗き込むように追いかけて、彼女は言葉を続けた。
「私は結構。同じことをお前に言いたいよ」
「は? どういう意味?」
「だからさ。
あの日。壇上で歌うクロカを見て。
きっとらいかは
目を閉じれば、今も。
浮かび上がる、鮮烈の肖像。
「お前はよく、『
六町らいかは許せない。
自分が望んでも手に入れられないだろう輝きを、持っていてなお、自分を卑下する彼女のことが。
「この絵は、本当に美化されているのだろうか?」
傷付き、色褪せ、それでもなおと世界に刃向かう、孤独の少女。それはきっと、かつて彼女が仲間たちと出会う前の、本当の姿だったのだろう。
「私はお前が好きだよ。壇上に立つ、世界で一番かっこいいお前も、今こうして丸まっている、世界で一番情けないお前もな」
それはきっと、
「お前は嘘偽りをくだらないと断じたが、私は結構、そうは思わない。だって嘘を吐こうと思ったその心もまた、当人に取っては本物だからだ」
偽物なんて、ない。
全てが本物なのだ、と。
六町らいかは、そう思う。
誰に憚ることもなく。
陽が沈む、仄暗い教室の中でさえ、輝くように。
「さて。それで言うなら、吠巻黒歌。お前の心は今、何を思っているんだ?」
やりたいことを、しよう。
本音を、吠えろ。
吠巻黒歌よ、名の通り。
「……私は」
私は――
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