──死ぬな、こりゃ。
横腹が、ない。
いや、正確にはごっそりえぐれてる。
廃工場の壁に背を預けた俺は、自分の体から流れる血の量にもう笑うしかなかった。
「……派手に、やられたな……」
声が出てるのかもわからねぇ。
もう、無音の世界がどこまで続いてるのかも曖昧だ。
けど、息苦しい。
冷えていく体に、神経がどんどん鈍くなっていく。
マジで終わりが見えてる。
工場の瓦礫の向こう。
あの猿呪霊は、悠然とこちらを睨んでいた。
顔面にねじれた異形の耳。閉じた目。
皮膚の下を這いまわる黒い影のような血管。
あの呪霊の姿が、ぐらぐらと視界の端で揺れていた。
ああ、これが"死"か。そんな言葉が、脳裏を過った。
──でも、違うな。
この感覚、覚えてる。
言葉にならないほどの高揚感。
ラップバトルで、全員黙らせたあのとき。
誰にも負ける気がしなかった、あの瞬間。
ぶち上がる歓声と共に、全身が火照ったあの無敵感。
――ああ、これだ……!
あの感覚に、今、意識が触れてる。
思考がクリアになる。恐怖も、痛みも、どこか遠ざかっていく。
五条先生との戦いで見えかけたもの。
相手の術式に"干渉"しようとしたとき、俺は確かに術式の"深み"を垣間見ていた。
──あの時は、届かなかった。
でも今なら、行ける。
ふっと、耳が開いた気がした。
いつの間にか無音術式は切れていたらしい。
さっきまでの俺は、それにすら気づかなかったとはね。
「……っ、聞こえる」
微かに響いた風の音と自分の息遣い。
希望の音。
腰のホルダーに手を当てる。
俺のマイクは……どっか行ったな。
まあ良い。
俺はゆっくりとマイクを顕現させた。
紫と銀の呪力が手元に集まり、蛇が這うグリップが現れる。
マイクを構え、試しに声を漏らしただけで――
バフッと砂煙が舞い上がった。
「……リリック無しでこれかよ。すげぇな、今の俺……!」
痛みに顔を歪めながら、ぐらつく足を動かす。
壊れた壁の穴を見つけ、そこから外へと抜け出した。
距離を取る。術式を展開するには、それだけで十分な理由だった。
そして、今度はハッキリと俺は唱えた。
「拡張術式――《ラップスキル・プリズン》!」
呪力が走る。
リリックが口から紡がれ、4小節分の言葉が空間を切り裂く。
『生き急ぎすぎだ このビートで 制裁』
『言葉の 枷 足止めだ 停滞』
『精細 を欠けば このライムで 成敗だ』
『霊界へ 退散? その先は十三階段!』
呪霊がこちらに気づき、動こうとした瞬間――
ピタリと、その動きが止まった。
まるで周囲から引っ張られているかのように。
猿呪霊の四肢を、呪力の縄が絡めとっていく。
体は宙に浮き、縄の先は絞首台へとつながっていた。
スピーカーから放たれるのは、炸裂音でもなければ爆発でもない。
ただ、"言葉"によって変質した呪力が、奴の身体を捻じ曲げるように締め付けていく。
「……やっぱり、そうか」
あの無音化の術式は、奴を中心とした一定範囲の中だけ。
最初の4小節が通用したのも、それが理由だった。
拘束され動けない猿呪霊。
抜け出そうともがいているが、その隙を見逃すわけがねぇ。
「スキルチェンジ――《メディケーション》!」
今度のリリックは、自分のために歌う。
『傷口ごときが オレを 止めるか』
『昼過ぎ 寝れば 動けるな』
『リカバリー 受けて 病み上がり』
『リハビリ なしで いまやピカイチ!』
声を、ビートを、自分自身へと向ける。
指向性を変え、俺だけに届くように。
瞬間、体内で何かが再構成されるのを感じた。
ぶわ、と熱が走った。
傷口が塞がっていく感覚があった。
「……ッ、出来んじゃねぇか、俺……!」
完全には治っちゃいない。
だけど、立てる。戦える。
《プリズン》は相手を呪力で縛る。歌詞で意味づけされた呪力は性質が変化し、更に実体を与えることで相手を拘束する。
そして《メディケーション》は、俺の呪力を"治す力"へと変換する。まるで反転術式のような、プラスの呪力だ。
というか、おそらくプラスの呪力とやらに変わっていることだろう。
拡張術式――《ラップスキル》。
これはリリックの内容に応じて、俺の呪力の特性、性質を変化させる術式。
案外、やってみれば出来るもんだな。
でも、まだ無音化の術式には対策が要る。
そう考えた時、ひとつのアイディアが脳裏に浮かんだ。
呪霊が拘束を振り切った。
唸るような低音が響き、再び猿呪霊がこちらへ突っ込んでくる。
それと同時に、周囲から音が消えた。
またか。だが、甘ぇよ。
「……撃て」
次の瞬間、横合いからドゴッと何かが呪霊に直撃する。
吹き飛ばされた猿呪霊が、地面に派手に転がった。
やったのは、俺のスピーカーだ。
あの時浮かんだアイデアというのは――スピーカーだけ、外に置いておくこと。
呪霊がそのまま直進してくと想定して、水平方向にスピーカーを移動させておいた。
《ブリング・ザ・ビート》で攻撃範囲を広げた上に、さらに呪力を注ぎ込んだことで音圧が攻撃にまで転じた。
今のは、スピーカーからの"ビート音"だけを使った純粋な音圧攻撃。
いくら無音空間でも、物理的な衝撃波は防げねぇだろ。
「ふっ……威力は大したことねぇけど、十分通用するな」
このまま、仕留める。
ラップの鼓動を、止めるわけにはいかねぇ。
背後に移動させたスピーカーが唸る。
呪力が膨張し、マイクの蛇が牙を剥いた。
「スキルチェンジ:《クリティカル》」
瞬間、呪力が爆ぜた。
重低音が風圧になって空気を叩きつける。
俺の周囲に"言葉の弾丸"が浮かび上がるように視える。
紫と銀の呪力が火花のように跳ね、スピーカーから雷鳴のような音圧が放射される。
ラップが呪いの弾丸になる。
『野蛮なサルは 悪いが格下』
『役に立つと 猿芝居、未開のブタ以下』
『
『しかばね 並ぶ 地下 ここで リタイア』
エフェクトが生じる。
地面を這うように伸びた紫の波形が、呪霊の足元から噴き上がった。
視覚と聴覚が狂うほどの振動が、工場内に反響する。
『いやいや、まだまだ 使い道 あり』
『撃ち抜くワードは スナイパー並み』
『その薄皮 引き裂くスプラッター 神』
『去り際に 刻むぜ 敗北のサイン!』
バンッ!!
雷鳴とともに、呪霊の胸に巨大な"☓印のリリック"が刻まれた。
紫の呪力が弾ける。
スピーカーから放たれた音圧は、空気を切り裂き、呪霊の胴体を問答無用で吹き飛ばす。
数メートル後方の鉄製コンテナに激突し、そのまま壁ごと貫通した。
壁面には呪霊の残滓と、焦げたような「☓」の刻印。
──完全に祓った。
空気の震えが、血液の流れが、ちゃんと"響いて"る。
「──っはぁぁぁぁ……《クリティカル》やべぇ呪力持ってかれるな」
マイクを消して、深く息を吐いた。
脚の震えが止まらねぇ。
興奮か、恐怖か、喜びか、もう分からねぇ。
でも……ひとつだけ、確かなことがある。
──俺は、呪術師だ。
"呪力"を手にして、"言葉"で呪いを殺した。
言葉は刃だ。そして今日、俺の刃は更に研ぎ澄まされた。
呪術師としてもラッパーとしても、一段上の存在になったわけだ。
廃工場の入口。
帳が薄れていく。
そこには、車の傍で待っていた補助監督が目を丸くして立っていた。
「終わったぜ」
俺は軽く手を振ってみせる。
深く呼吸をして、空を見上げた。
夜明けには少し早い、曇った空。
でも、さっきまでの“無音”と比べりゃ、どんな音も──美しい。
心臓がドクンドクンとうるせぇ。
けどこの音だけは、止めるわけにいかねぇんだ。
これが、俺のスタイルだ。
──この“言葉”で、世界を塗り替える。
「あの……阿比留3級術師、非常に言いにくいのですが……廃工場を破壊しすぎです」
「相手は推定準1級だった。大目に見てくれ 勘弁指詰め」
「そんなことしませんよ!」
※ ※ ※
廃工場の屋上には、誰の気配もなかった。
いや、正確には──"誰にも気づかれていない"だけだった。
ぼろぼろに崩れた瓦礫の縁に、黒と金の五条袈裟をまとった男が一人。
脚を組み、静かに廃墟の様子を見下ろしていた。
背筋は伸び、手には黒い玉のようなものが握られている。
その顔には、戦いの余韻に酔うような笑みが滲んでいた。
「……"聞か猿"がやられるとはね」
呟くような声。
だが、それは確かな愉悦を含んでいた。
長い前髪が風に揺れ、視線の先。
廃工場の残骸には、もはや呪霊の姿はない。
コンクリに焼き付けられたような紫の刻印だけが、戦いの余韻を示していた。
「危なかったら逃がそうと思ったんだけど、彼──結構やるね」
男は立ち上がり、袈裟の裾を軽く払った。
その仕草一つにも、余裕と品がある。
「面白い……歌唱呪法の使い方だ」
その後、口元に指を添え、思案するように笑う。
だが、どこかでそれは観察者ではなく──狩人の視線だった。
彼の目に宿るのは興味だ。
対象への関心、そして明確な目的。
「それにしても、ラップとはね……」
わずかに笑いながら、男は首をひねった。
「私も練習しておいた方がいいのかな」
──冗談だ。
だが、その声音は冗談にしては、妙に真剣味を帯びていた。
乾いた靴音が、崩れた屋上に響く。
男は背を向け、ゆっくりと瓦礫の縁から歩き出した。
足元を舞う風が、彼の五条袈裟をはためかせる。
風に流されたその残り香は、呪いの残滓のようにどこか禍々しい。
ただ、かすかに揺れるのは、あの紫と銀の音波の残響だけだった。
流石に魂の喝采は無理でした。
7月12日。
メディケーションのリリックを変更しました。