5月末──俺にとって、今日の任務は少しだけ特別だった。
「それでは、私はここまでです。あとは頼みました、
補助監督がそう言って微笑んだ。
スーツの上着を脱ぎ、結界術に慣れた所作で「帳」の構文を唱えると、目の前の廃工場がゆっくりと黒に包まれていく。
「それでは、ご武運を」
帳の中へと足を踏み入れながら、その言葉を背中で聞いた。
心の中で「任された」と呟きながら。
場所は、東京から車で2時間ちょい。
県境近くの郊外にある廃工場。かつて化学薬品を扱っていた施設らしく、建物は骨組みを残して朽ちかけていた。
正直、気味が悪い──でも俺にとってはステージだ。
呪霊の等級は3級か準2級、数は少ないって聞いてたが……一体も見当たらない。
――なんか、おかしくねぇか?
耳に流れるのは、鉄骨が風に軋む乾いた音だけ。
ラップのビートすら浮かばない沈黙。
数分ほど探索しても、呪霊の気配は感じ取れなかった。
「……いねぇのかよ。肩透かしってやつ?」
廃工場の大部屋に入り、当たりを見回すが何も居ない。気配すら感じない。
気を抜きかけた、その瞬間だった。
背後に広がった嫌な気配。
「出たか……っ」
腰のホルダーからマイクを抜き出し、とっさに振り返る。
廃工場の出入り口。そこを塞ぐように呪霊が立っていた。
だが、そんなん、気づかないはずがねぇんだよ。
出入口に直立してるってのに、さっきまで気配ひとつしなかった。
まさか、最初からそこにいたってのか?
一目見て理解する。
――こいつはヤバい。
身長は俺より遥かにでかい、二メートル半超。
痩せ細った体に、異様なまでに長く伸びた四本の腕。
その手はそれぞれ七本指。細く、不気味なほど関節が多い。
――こいつは猿の呪霊か?
奴の顔面を覆うのは、異常に肥大化した耳。
猿の耳をそのまま肥大させたような器官が、まるで顔全体を包み込むようにねじれて前へ突き出していた。
眼は細く閉じられ、鼻も口も、見当たらない。
そのくせ、側頭部にはもう一対、耳のような器官が生えている。
わずかに震えるそれは、今も周囲の空気を探っていた。
やべぇ気配がビンビンだ。2級以上は確実だろう。
心臓が高鳴る。
けど、いつものように俺はマイクを掲げ、術式を展開した。
背後の呪力がうねり、紫と銀のスピーカーが渦から姿を現す。
巻きつく蛇が赤い目を光らせ、グリップに這うマイクの装飾が禍々しく変化していく。
「……ブリング・ザ・ビート!」
スピーカーに呪力を流し、術式効果範囲の延長を行う。
声と同時に、ドンッドンッ!と、バスドラムが廃工場全体に響き渡る。
まずは……様子見。
即興の4小節をぶちかます。
『OK、呪いの闇に足踏み入れて、今宵も 呪術で 祓うよ呪霊』
『No Way 無名不明で哀れな呪霊を
ビートに乗せ、呪力を込めたリリックを叩きつける。
呪力を乗せた声がスピーカーから放たれ、呪霊の前にエフェクトが炸裂した。
猿呪霊は呪力の音波を受けてのけぞっている。
「──っしゃ、命中!」
エフェクトは、ただのパフォーマンス。
けど、確かに呪力の音波は届いている。効果ありだ。
「なら──」
畳み掛ける。今度は8小節で。
その時だった。呪霊があり得ないスピードで一気に距離を詰めてきた。
「チッ、この猿、高機動型かよ。めんどくせぇ……」
だが、動きながらでもラップは歌える。
そうして次のリリックを吐き出そうとした唇から――音が消えた。
「──っ!? 声が……!?」
スピーカーが唸っているはずなのに、マイクが音を拾っているはずなのに、耳には何も届かない。
空間そのものが音を"拒絶"している。
――術式……っ、こいつ音を殺した!?
脳裏を冷たい汗が伝う。推定準1級以上。
俺の術式の性質が音に依存している以上、この相性は最悪中の最悪だ。
――最悪すぎんだろ……っ、なんだこのメタ……っ。
舌打ちが、音として出ているのかも分からない。
だがマイクをホルダーに仕舞い、即座に構えを取る。
やることはひとつだ。
「上等だよ……っ! くそっ、今俺は喋れてんのか? まるで音が聞こえねぇ!」
あまりの無音に頭がどうにか、なっちまいそうだ。
身体を沈め、呪霊へ向かって突っ込む。
イラ立ちで呪力を滾らせ、足払いからのボディーへの打撃──だが。
「硬っ……!?」
嫌な手応え。こいつ、皮膚が呪力で強化されてやがる。
これは耐久型か。
ってことは、この呪霊は――高機動耐久型。
音波攻撃も封じられ、体術もまともに通らない。
やべぇ──これは、長引く。
音が聞こえない。相手の接近にも気づきにくい。
視覚だけでカバーしながら殴り合うのは、想像以上にキツい。
それに加え、廃工場の柱や瓦礫が邪魔すぎる。
身を隠されると、相手がどこにいるか見失いそうになりそうだ。
「……くそっ、硬すぎんだろっ」
何度も攻撃を叩き込むが、奴はびくともしねぇ。
そのうち、俺の動きも段々鈍くなってく。
額に汗が滲む。マジで、嫌になる。
「またか! どこだ……!」
静寂の中、奴は自在に動いてやがる。
柱の陰、機械の残骸、積まれた木箱の影――奴は地の利を最大限に使い、姿を消した。
そのくせ確実に俺の視界の外へ、外へと回り込んでくる。
――いつになったら術式が切れんだよ!?
内心で苛つきながらも、警戒範囲を広げたその時――背筋がざらついた。
反射で振り返り、ガードを上げる。
次の瞬間、無音の世界に感覚だけが残った。
腹部に、重い衝撃。
壁に叩きつけられるような一撃が、俺の胴を抉った。
「が……っ、は……!」
声は、出ているのかも分からない。
だけど、痛みだけは――はっきり、俺に届いていた。
隠れて、無音で、急所を狙ってくる……っ。
音が……聞こえない。ラップが、使えない。
──どうする、
その問いが、頭の奥で木霊していた。