【書籍化】告知事項(隣人がVtuberです)【進行中】 作:関係ないよ
「えーっ? うちのせい? あんたが遅れたのが悪いんやんか」
「ストップ、もっかい」
「えーっ?」
午前中の区民センター。
その貸し会議室にパソコンと機材一式を持ち込み、俺たちは震えながらボイスを録っていた。
「ていうか長谷川さん、ここ寒すぎますって……エアコンつけたら駄目なんですか?」
「音が入るからこれで我慢してください……」
現場用に作業着屋で買ったもので、見た目は黒一色だがめちゃくちゃ温かいものだ。
「ありがとうございます」
彼女はすぐに自分のジャケットの上から着込んでジッパーを上げたが、その分今度はトレーナーしか着ていない俺が寒い。
さっさと終わらせないと風邪を引きそうだ。
「もっかいやりましょう飯田さん。えー、東武伊勢崎線が遅延してたって? のところから」
「はいはいっ」
「レックOKです」
俺のノートパソコンにはオーディオインターフェースが繋がり、その先にはマイクプリアンプ、その先には銀色のコンデンサーマイクとポップガードがある。
そこに口を近づけたお隣さんは、んっと咳払いをしてから口を開く。
「東武伊勢崎線が遅延してたって?」
オーディオインターフェースに繋げたイヤホン。
そこから聞こえてくるお隣さんの声に耳を傾けながら、俺は手を上げた。
「ストップ」
「えーっ?」
「リップノイズ、水飲んでください」
「うわーっ!! もういややーっ!」
リップノイズというのは、唇や舌が乾燥している時に出やすいピチャピチャというノイズだ。
ボイス録音を始めてからのお隣さんはなんだか妙に声が小さく、マイクの感度を上げているからかそれらを拾いやすかった。
「レックOKです」
「あーい……」
所詮は素人の録音技師と演者という事もあり、結局この日のうちに録り切る事はかなわず。
俺たちはその後三日間に渡って、大荷物を背負って区民センターに通い続けたのだった。
ところで、お隣さんは以前炎上しかかっていたわけだが……
登録者がまだ三万人しかいなかったのが良かったのだろうか?
お隣さんのプチ炎上に言及したのは『またしてもお隣を巻き込む
そして『【悲報】Vtuberさん、人気もないのに起業を決意』というスレを含む
動画はそこそこ伸びたらしいが、スレの方はほぼほぼレスがつかず、まとめサイトにまとめられもしない状況で終わった。
これがあと一年後なら、マジでとんでもない事になってきたような気もするが……
なんてったって今は2018年だ。
後に覇権を握るVtuber事務所の雛形が出来始めたのも、まさに三月の今この時。
誰もVtuberがこの先化け物みたいなコンテンツになるなんて思っておらず、各所でボロクソに言われていた時期なのだ。
お隣さんの二倍から十倍ぐらいの登録者数を持つ強者たちですら、プチ炎上を起こしてはすぐに忘れ去られていく。
良くも悪くも、あんまりみんなVtuberに好意も興味もない。
そんな時期だからこそ、俺の事もギリギリ燃えなかったのかもしれないな。
『え? 声変わった? せやろ!? そらぁもう、うちのマネージャーがええマイク選んでくれはったんよ! な、なんちゅうたかな……ロ、ロデ……? あとマイクを繋ぐ箱が二つ……』
今日もお隣さんから聞こえてくる配信の中では、いつの間にか俺の扱いがスタッフからマネージャーに変わっているようだが……まぁ実態はないからな。
ちなみに買い替えた録音機材の金は、念書を取って俺が貸した。
さすがに彼女の使っていた三千円のUSBマイクでは、どんなボイスを売っても厳しいだろうからだ。
というかボイスの編集まで俺がやる事になってしまったので、そんな音質のものを聴いていたら気が滅入るからという理由もあった。
『そうそう、ボイスよボイス。聞いてやほんま! めっ……ちゃくっ……ちゃ厳しいねん! え? マネが。もう何回リテイク食らったかわからん。あれ? リップノイズっていうの? あれをめちゃくちゃ気にしはって……そうそう金魚すくいみたいなやつ? あれで防げるのはポップノイズっていうらしいけど、リップノイズっていうのはな……』
なんだか隣でもネタにされているようだが、この時期のVtuberの音声環境というのはまだまだノウハウが固まりきっていないのだ。
特に初期のVはみんな手探りでやっていたため、ド定番機材というのも情報が少ない。
2020年代の数字のいいVは、どんな生配信でもまず執拗な音量調整から入っていた印象があるぐらい、Vにとって音というのは重要なのだ。
とはいえ、俺は好きなVがしていた機材やソフトの話ぐらいは覚えているが、その使い方までは知らない。
だから今、必死こいて泥縄的に勉強をしているのだった。
『ボイス編集はねぇ、マネやね。みんなも早くボイスが聴きたいんやったらマネにお祈りしたって。え? 台本? 台本もマネ』
同人音声の作り方を解説しているサイトや動画を見ながら編集をしている間に、隣からはそんな言葉が聞こえてくる。
祈らなくていいから、いいノウハウがあったら教えてほしい……
俺はそう考えながらコーヒーを啜って……
隣の配信に音が入らないように、ゆっくりと机にマグカップを下ろしたのだった。