『呪われし幸福 ― 因幡の系譜 ―』   作:夕神 仁

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夜明け前の東京で、ひとつの奇跡が確かに起きていた。

あの夜、救われた命は、世界の理から忘れられながらも確かに生きている。
祈りが届いた瞬間、その代償として“誰にも認識されない”孤独が残ったとしても、見ている者がひとりでもいる限り、その命は存在し続けられる。

血脈に刻まれた「祈りの継承者」として生きる幸が、
その目で見届ける“理子が生きている”という事実。

忘却と救済の間で灯る小さな灯火の物語、第9話です。


第9話『世界が見た夢』

(完全版・血脈&霧残滓反映)

 

 

「この夜、世界は小さな夢を見ていたのかもしれない。」

 

夜明け前の空は薄い群青で、その奥で星が一つ、また一つと消えていった。

 

高所のビルの縁で、因幡幸は風を受けながら目を閉じる。

 

胸の奥で灯る火は、もう怯えてはいなかった。

 

(あの子は、今、生きてる。)

 

思い返すのは、礼拝堂での一瞬。

 

黒霧と白光が重なり、時が止まり、世界の理が捻じ曲がった。

 

その結果――

 

天内理子は生き延びた。

 

 

けれど奇跡の代償は重かった。

 

理子の存在は世界から“認識”されなくなっていた。

 

護衛していた夏油傑は、何かを思い出そうとするたび霧のように記憶が零れ落ち、

 

五条悟は理子の笑顔を思い出すこともできず、日常に戻っていった。

 

 

(でも――わたしだけは、忘れない。)

 

幸は拳を握りしめた。

 

夜風が指の隙間を通り抜け、冷たさが火傷のように皮膚を撫でる。

 

けれどその痛みは、幸の決意を震わせる力になった。

 

(お母さんがくれたこの“目”がある限り、わたしは忘れない。)

 

(わたしが忘れたら、この命は誰にも見えなくなるから……)

 

 

理子は夜の部屋で、ぼんやりと窓の外を見ていた。

 

買ったままのぬるい缶ジュースが机の上で汗をかいていた。

 

(どうして私は生きてるんだろう……)

 

学校へ行っても、同級生は数分後には自分の存在を忘れ、

 

買い物に行けば、店員は笑顔で接した直後に「いらっしゃいませ」と繰り返した。

 

 

だけど――

 

あの瞬間だけは鮮明だった。

 

黒霧と白光の中で、少女が自分の手を握り、「大丈夫だよ」と言ったこと。

 

あの笑顔だけは、胸の奥で温かく灯り続けていた。

 

 

夜風がカーテンを揺らす。

 

「……ありがとう。」

 

その声は誰にも届かないはずだったのに、

 

「礼は要らぬ。」

 

静かな声が部屋の隅で響いた。

 

理子が振り向くと、赤髪の青年――伊吹酒々井がいた。

 

「おにさん……」

 

小さく呼ぶと、その横で小さな声が重なった。

 

「生きてて、よかった。」

 

窓辺に立つ少女――因幡幸が笑っていた。

 

理子は笑おうとして、泣き笑いになった。

 

 

「この世界は、お主を忘れる。だが、わしらは忘れん。」

 

酒々井の黒霧が夜風に揺れ、冷たくて温かい匂いを残した。

 

「これからは、わたしたちがいるよ。」

 

幸の声が灯火のように部屋を照らした。

 

「……ありがとう。」

 

理子は涙を拭き、小さな笑顔を向けた。

 

 

同じ夜。

 

五条悟は高専の屋上で、夜空を見上げていた。

 

(なんだろう……胸の奥が、変だな。)

 

首筋を冷たい風が撫でると、一瞬だけ霧の匂いが鼻を掠めた。

 

胸の奥が、妙に温かく疼く。

 

(何かを忘れている……)

 

隣で夏油傑が缶ジュースを口に運び、夜空を仰いだ。

 

(でも……思い出そうとするたび、何故か温かくなるんだ。)

 

理由を探すたび、指の間から零れていくような感覚。

 

 

「変な夜だな。」

 

五条が笑うと、夏油も笑った。

 

「ああ、本当にな。」

 

 

夜風が高層ビルの間を吹き抜けていく。

 

風が過ぎた後、空気が澄んだように感じられた。

 

霧の匂いがわずかに残り、それはすぐに夜風へ溶けていった。

 

 

夜が明ける。

 

この街の誰もが気づかないまま、一つの祈りは確かに叶えられ、

 

世界はまた新しい朝を迎える。

 

その空の下で、理子は生きている。

 

忘れられながら、確かに生きている。

 

 

「この夜、世界は小さな夢を見ていた。」

 




ご覧いただきありがとうございました。

理子を救う祈りが叶ったその夜、世界からは忘れられ、けれど確かに生きている姿を、幸と酒々井だけが見届けていました。
五条や夏油の胸に残った説明できない温かさと違和感は、忘れられたはずの命が確かにそこにあった証拠。

この“忘却の中の奇跡”は、これからの物語においても静かに、しかし確かに響いていくものとなるでしょう。

次回、第10話でまたお会いできることを楽しみにしています。

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