『呪われし幸福 ― 因幡の系譜 ―』   作:夕神 仁

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この夜のことを、誰が覚えているだろう。

世界が知らぬまま終わった夜がありました。
救われた命と、忘れられたはずの笑顔。
理が敵になるなら、それでも“救いたい”と願った小さな祈りが、
確かにひとつの未来を繋ぎました。

『呪われし幸福 ― 因幡の系譜 ―』
理子救出編、ここに完結です。


第10話『記録されなかった祈り』

「この夜のことを、誰が覚えているだろうか。」

 

夜明け前の空は薄い群青で、その奥で星が一つ、また一つと消えていった。

 

高所のビルの縁に、伊吹酒々井と因幡幸が立っていた。

 

⸻

 

赤髪が風に揺れ、金の瞳が夜の残滓を映す。

 

幸は胸の奥で脈打つ火を感じていた。

 

(終わったんじゃない。ここから、なんだ。)

 

怖さも、不安も、消えたわけじゃない。

 

でも、もう立ち止まらないと決めたから。

 

(お母さんがくれたこの目で、わたしは見届ける。)

 

⸻

 

「おにさん。」

 

「なんじゃ、小さき願い手よ。」

 

「私、忘れないから。」

 

酒々井は目を細め、牙を覗かせて笑った。

 

「うむ。それでこそ、お主じゃ。」

 

⸻

 

あの夜、礼拝堂で起きたことを誰も知らない。

 

黒霧と白光が重なり合い、世界の理がひび割れた。

 

撃ち込まれる弾丸が止まり、祈りが現実を書き換えた。

 

その中で――

 

天内理子は救われた。

 

ただしその代償として、世界から“認識”されることを失った。

 

⸻

 

街が明るみ始めた頃。

 

理子は夜風が流れ込む部屋で膝を抱えていた。

 

机の上のぬるい缶ジュースには水滴が伝い、

 

カーテンがわずかに揺れている。

 

(どうして私は、生きているんだろう。)

 

学校では友達が笑いかけ、

 

「おはよう!」

 

数分後、また笑顔で「おはよう!」と繰り返される。

 

店員も笑顔で対応し、すぐにまた「いらっしゃいませ」と言った。

 

⸻

 

(忘れられるのは、怖い。)

 

(でも――)

 

⸻

 

あの夜の光景だけは鮮明だった。

 

あの中で少女が手を握り、「大丈夫だよ」と言ってくれたこと。

 

あの笑顔だけは胸の奥で温かく灯っていた。

 

⸻

 

夜風が吹き抜ける部屋で、小さく呟く。

 

「……ありがとう。」

 

その声は誰にも届かないはずだったのに、

 

「礼は要らぬ。」

 

静かな声が闇を割った。

 

振り返ると、伊吹酒々井が黒霧をまとって立っていた。

 

その隣で、幸が小さく笑っていた。

 

「理子ちゃん、生きててよかった。」

 

理子は泣き笑いになりながら、頬の涙を拭った。

 

「ありがとう……。」

 

⸻

 

高所のビルの縁で夜明けを待つ。

 

「これで終わりじゃない。」

 

幸が呟く。

 

「ここからが始まりじゃ。」

 

酒々井が金の瞳で夜明けの空を見つめる。

 

⸻

 

(この街で、誰も覚えていなくても――)

 

(私が、忘れない。)

 

⸻

 

その頃、高専の屋上。

 

五条悟が夜空を見上げる。

 

灰色の雲が薄まり、青が少しずつ滲み出してくる。

 

「変な夜だな。」

 

隣で夏油傑がジュースを口に含む。

 

そのとき夜風が吹き、霧の匂いがほんの一瞬鼻を掠め、

首筋に冷たい感覚が走った。

 

(何かを忘れている……)

 

思い出そうとするたび胸が温かくなる。

 

理由を探すたび、指の間から零れていくような感覚だけが残る。

 

⸻

 

「変な朝だな。」

 

夏油が笑う。

 

「ああ、ほんとにな。」

 

五条も笑った。

 

⸻

 

夜が終わる。

 

その夜、祈りは記録されなかった。

 

誰も覚えていない。

 

けれど、その夜、一つの命が救われたことだけは確かだった。

 

⸻

 

「でも確かにその夜、

世界は小さな祈りを抱えながら――忘れることもできず、

小さな夢を見ていた。」




ご覧いただきありがとうございました。

“護られるだけの命”ではなく、“生きるための命”を取り戻す物語。
世界が忘れ去っても、ひとりでも覚えている者がいれば、それは生きている証になる。

幸の祈りが、酒々井の力が、そして理子の「生きたい」という願いが繋がり、
理を超えて救われたその命は、また新しい物語へと繋がっていきます。

次回からは**“理の外で生きる理子”が歩む日常編、
そして世界の“理”との再接触編**へと物語は進みます。

またお会いできることを楽しみにしています。

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