救ったはずの命を誰も覚えていない世界で、それでも歩く理由を見つけて進む幸の姿。
その胸に灯る小さな火は、痛みと共に生きている証であり、また救いたいと願う祈りでもあります。
日常の中で笑いながらも、いつかまた救うために。
小さき願い手が静かに歩みを始める朝を、どうか見届けてください。
第1話『小さき願い手、歩む』
朝が来るのは、少しだけ怖かった。
救ったはずの命が、誰にも知られず、忘れられていく世界で。
それでも、自分だけはその笑顔を覚えている。
その理由だけで、息をして、また今日を迎えている。
「幸、起きなさい。」
母の声が遠くで響く。
目を開けると、白い息がゆらりと揺れる冷たい朝だった。
胸の奥で、小さな火が「こぽっ」と灯り続けている。
(お母さんがくれたこの目で、今日も世界を見るんだ。)
(救った命の笑顔を、わたしだけは忘れないために。)
朝食を食べ終えると、玄関で立ち止まり、息を吐いた。
母の視線が背中に届き、その視線がわずかに温かい。
その瞬間、胸の火が「パチン」と火花を散らす。
肩に電流が走るような痛みが残る。
(痛い。でも、この痛みが、生きている証なんだ。)
「行ってくるね、お母さん。」
「行ってらっしゃい、幸。」
母の笑顔が朝の光で少し眩しく見えた。
玄関を出ると、夜気がまだ残る朝の空気が全身を包む。
歩道を踏み出す足の裏から、小さな痛みがじんわりと伝わる。
(この痛みが、歩く理由になる。)
「歩け、小さき願い手よ。」
背後から聞こえる声。
振り返ると、伊吹酒々井が夜霧を纏い、金の瞳を細めて笑っていた。
その笑顔は、鬼であることを忘れたように柔らかく見えた。
「わたし、歩くよ。」
「うむ。それでこそ、お主じゃ。」
その言葉が、胸の火をもう一度灯してくれる。
街はまだ眠っている。
遠くで聞こえるパン屋の音、朝の鳥の声、白い息。
その全てが今日も続いていくことを告げていた。
歩くたびに、胸の火が「バチン」と鳴り、小さな痛みが走る。
その痛みは冷たくて、でもどこか温かかった。
(大丈夫。わたしは、歩ける。)
救った命が笑って生きる世界で、自分も笑うために。
道端の花が風に揺れる。
その姿を見つめながら、小さな声で呟いた。
「……また、救いたいな。」
胸の奥の火が「こぽっ」と泡立つように応えた。
その時、胸の奥に黒髪の小さな子どもと、笑う少女の姿が一瞬浮かんだ。
(あの子……)
名前も知らないその存在に、「祈り」が反応していた。
この街にはまだ救うべき命がいる。
その笑顔を守るために、自分も歩き続ける。
「よいぞ、その調子じゃ。」
酒々井の声が夜風に混じり、温かく耳を撫でた。
わたしも小さく笑い返す。
空が群青から白へ変わっていく。
夜が明ける。
怖さもある。
でも、その朝が来るたびに、また一歩踏み出す。
(わたしが忘れない限り、救った命は生き続ける。)
(そして、わたしも生きるために歩くんだ。)
小さき願い手は、今日も歩き出す。
救った命の笑顔を胸に抱えて。
その歩みは小さくても、確かに世界を変えていく。
最後までお読みいただきありがとうございます。
忘れられる命を救うこと、それは幸にとって“重くて優しい痛み”を伴う行為です。
誰にも覚えてもらえなくても、救った命の笑顔を覚えている限り、幸は歩き続ける。
その歩みは小さくても、確かに世界を変えていく一歩になると信じて。
間章後は、**幼少期伏黒恵編(第2章)**へと物語は進んでいきます。
引き続き、小さき願い手の歩みを見守っていただけたら嬉しいです。
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