胡蝶の夢、或いは不労所得の夢   作:nyasu

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記憶、或いはそれはインクのような物

鳴り響く電話の音、聞き慣れたチャイム、誰かが受話器を切る音、昼休み間際にかけやがってと舌打ちの音。

誰かが椅子を引き、或いは突っ伏した物音が聞こえる。

視界は薄暗く、モノクロで、どこか現実味に欠ける。

 

「先輩、飯いきますよ」

 

肩を叩かれる。

叩いた相手は電話中だと気付いて気まずそうに、頭を下げた。

頭を下げた?姿は見えない、私の視線はパソコンから視線を逸らさない。

あぁ、そうか、よくあることだから見なくても分かるのか。

 

「はい、はい、あー午後に来れる?じゃあその時に」

「おっと、電話中か」

 

綺麗なネイルをした手が握る受話器、受話器を下ろした華奢な細腕、それを見て俺は自分が電話に出ていたと気づく。

声を掛けたのは誰だったかな。

オフィスの光景は瞬きの間に、瞬く間にて、瞬間で切り替わる。

時間と景色が切り離されて、別の物にすり替わる。

 

「一発撮りの?見た見た」

「すごかったでしょ、ライブも行きたいんですよね」

「いいね、俺の推しはいつか出んのかね」

 

何か喋ってる男がいる。

男?なぜそう判断したのか。

首から上がないワイシャツ姿の男性、身振り手振りでなにかしており、私はそれに頷いている。

勝手に聞こえてくる雑音とは、私の意識は別だ。

見渡せばそこは座敷、あぁ、見覚えのあるテーブル、壁のメニュー、職場の隣の蕎麦屋と気付く。

 

「また有給取って、旅行でも行くのか?」

「会社辞めるんですよ」

「はいはい、いつもの奴ね。ほんで、今回はライブ?」

 

呆れたような男の低い声、いつものやり取り、それはうんざりした自分の声だった。

その言葉に彼はキョトンとしていた。

首から上がないのに表情が分かるなんておかしな話だ。

朧げで、定かではない、顔が見えないのに声は聞こえる。

いっそ形がないのは、記憶が薄れた証拠だろう。

 

「あれ言ってなかったけ、ホントに辞めるんですよ。2ヶ月後、来月から一月来ないですよ」

「えっ?」

「そんなことより聞きたいことがあって」

 

記憶に濃度があるならば、希釈されたそれは過去のこと。

過去の記憶という原液は、現在の記憶という溶媒で薄まっていく。

俺という存在は、私という存在で薄まっていく。

あぁ、これは夢だ。

男の頃の夢に違いない。

今の私は女なのだから。

 

「貴女、誰ですか?俺のこと覚えてますか?」

「私は……」

 

目の前にいた首無しの男性はいない。

いるのは、俺がよく見る配信中の私。

アバター姿の、VTuberである画面の向こうの私が問いかけていた。

 

「あっ……」

 

現実味がない場所から冷たい現実に、まだ5月だ、肌寒い。

目が冷める、あるいは目が覚める、正確には目が冴えるだろうか。

とにもかくにも、目覚めた事には変わりなかった。

 

「……こわっ」

 

天井を見上げながら、ソプラノボイスがそんなことを口にする。

こういうのって記憶がないながらに、何か泣いてたりする奴じゃない。

覚えてないけど、悲しいですみたいな。

首無しの男と話してた記憶がガッツリあるんですけど、悪夢やないか。

 

「あー、覚えてねぇ。いたな、顔とか思い出せねぇ」

 

思い出せないから、顔がなかったんかな。

仲の良かった後輩、来月辞めますが口癖で急に辞めた奴。

仲良かったのに顔も名前も覚えてない薄情な先輩である。

祟られたのかもしれない、死んでないし、出会ってないだけでこの世界では新採かもしれないけど、色々言われながら仕事してそう。

 

温もりの残るベッドから滑り落ちるように、シルクのパジャマに包まれた身体を布団の外に出す。

フローリングの冷たさが素足に伝わり、出たことを少し後悔した。

でも、もう布団から出たし仕方ないと、ちょっと離れた場所にあるテーブルから暖房のリモコンを取って付ける。

ピッという音、リモコンをテーブルの上に戻した私はその横にまで行って、飲み物なんざ缶やペットボトルが4つくらいしか入んないような小さい冷蔵庫からエナドリを取り出した。

 

「うおっ、キンキンに冷えてやがる」

 

カシュと炭酸の出ていく缶を開けた音を聞きながら口の中にブチ込むと、暴力的な刺激が起きろとばかりに主張してくる。

甘くて、なんか薬のような、効きそうってわざとデザインされた味。

 

「なんだっけな……配信ネタになると思ったのに」

 

ほんの数秒前に、こわっとか呟いていたのにもう忘れ始めていた。

夢ならば程なくして消えてしまうのだろう。

なら、ハッキリと脈々と続く連続性のある今の記憶は夢ではないのかもしれない。

現実味のないことに変わりはないのに、私の世界は夢ではない。

 

でも夢ならいつか消えて、もう間取りも覚えてもないアパートの部屋で目覚めるんだろうか。

ある日突然、目が覚めたらなんて……いや、3歳くらいでなんとなく思い出したって感じだったか。

あれ……そういえば、私の前世っていつ終わったんだろ。

 

「あぁ、そろそろ引退のお知らせあるから思い出したのかな。なんでこのタイミングで」

 

市川耕介という男が、市川胡蝶という名前になる前の事だった。

地方公務員で仕事をしていたということを覚えている。

どんな仕事をしていたかは覚えているが、どんな担当業務をしていたかは覚えていない。

 

人間関係も記号として覚えてはいるが、細部まで拘ると苗字や名前は出てこない。

先輩、課長、部長、後輩、同期、顔も名前も消えている。

話したことは覚えていたりいなかったり。

 

「あ……れ……」

 

VTuber関連、これは何となく覚えてはいる。

細かいことは覚えていない、まるで記憶の切り抜きみたいだ。

昔のほうが覚えてた、だから書き記したノートで思い返せる。

 

「私は……」

 

見始めた頃から、それよりずっと前のアーカイブをリアタイ出来た今世の記憶も、これから見るであろう配信もなんとなく覚えてる。

そんで、推しの夢が叶うライブに……ライブに私は……あれ?

 

忘れるはずがない、忘れたくない。

知ってるはずの記憶がない。

私が行きたかった、推しの武道館ライブ、行ったはずの記憶がない。

 

「おかしいな……」

 

抽選は当たったんだっけ?

ライブはするって告知は、配信で見たな。

その頃の俺は何してた?

直前にアルバムとか発表してたな。

仕事は何してた?

フェスの前にゲームしてたな。

 

「俺は……」

 

俺という記憶が、あったはずなのに思い出せない。

思い出しても、直前まで関係ないVTuber関連の記憶だけだ。

まるで蓋をするように、生活していた自分の記憶だけが抜けている。

覚えているのは見ていたVTuberの記憶だけだ。

 

「いつ、死んだんだっけ?」

 

一人だけの部屋では、私の言葉を返す存在はない。

そもそも、この世に私の疑問を答えられる存在もいない。

答えがあるとしたら、それは私自身の中にしかない。

 

 

 

2021年6月上旬。

真島ココの引退が本人のチャンネルで発表された。

投げ銭と呼ばれる配信者にお金をあげるサービスの世界一稼いだ女。

VTuber業界では一番お金を稼いだ女として辞めるはずのない人物だった。

 

誰も辞めるはずがない……とは思ってはいなかったが突然のことであった。

いつか辞めるとは思っていたが、色んなインフルエンサーが反応するくらいには驚きの出来事であった。

辞めることは知らなかったが、最近話題になってるなというくらいには大事件であった。

 

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