その夜――
わたくしは静かな読書の時間を楽しんでいたはずだった。
“コンコン”
扉を叩く音に、手が止まる。
まさか、またアウラが……?
急いで翼を畳み、ローブを被る。
「は、い……?」
扉を開けた瞬間、言葉を失った。
世界の空気が変わった気さえした。
月光に照らされていたのは、銀と紅の装いに身を包んだ、冷たい美しさを湛えた完璧な気品。
整った顔立ち、磨き抜かれた気配。
その美しさは絵画のようで――けれど、その奥にある“空気”は血の匂いを連れている。
背筋に走る悪寒に、理性が必死に「平常でいなさい」と囁く。
けれど身体は、獣としての本能で逃げ出したがっていた。
「ごきげんよう、スゥアフターさん。夜分遅くにお邪魔いたしますわ」
「これは、ようこそ、おいでくださいました」
声が震える。
それでもごまかすように、微笑む。
ただその動作だけで、喉が張り付くような緊張に襲われた。
大丈夫、“何も感じていませんよ”という仮面を、いつも通りに――
「私はシャルティア・ブラッドフォールン。残酷で冷酷で非道で――そいで可憐な化物でありんす」
そう言って一礼する仕草は完璧で、優雅で、そして――狂気的だった。
微笑んだ口から覗いたのは、牙。
「吸血鬼……?なぜ、いきなり……」
「ふふ、“なぜ”って聞くの? だって気になったんですもの。あなたの、綺麗な翼。つん、と張った背筋。そして……」
じり、と一歩踏み込まれる。
視界が、彼女の瞳でいっぱいになる。
「“わたくし、怖がってませんよ”って仮面、滑稽でかわいらしいわ」
ぞっとした。
心の中を読まれたようで。
いや、読まれているのだ。仕草一つ、目線ひとつで、強者は弱者の嘘を見抜く。
実のところ、命の危機を感じる強者と向き合った経験は、わたくしにはほとんどない。
たとえ言葉で平静を装えたとしても、震えた心は隠せなかっただろう。
「ふふふ……おもしろいわね、あなた」
家の主人が当然そうするかのように椅子に腰掛け、彼女は笑った。
目を細め、じっとこちらを見る。
「ねえ、緑の小鳥さん?」
「……わたくしが、小鳥?」
口にした瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちた気がした。
“その呼び名”が、これから自分を縛るものになると――直感的にわかってしまった。
「そうよぉ。翼が綺麗で、目がきょろきょろしてて……それに、怯えてる様子がとっても可愛らしい」
既に粟立っていた背筋が、またぞっとした。
シャルティアは笑っている。
それは、喜びの笑みではない。
“玩具を見つけた”者の顔だ。
「……わたくしは小鳥ではなく、“蛇”ですわ。可愛くもなければ、毒があって噛みつくかもしれませんわ」
必死の虚勢。
猫に追い詰められた小鳥が――明らかに無駄であるのに――必死に威嚇する気持ちが、わかった気がした。
「こわぁい。でも、蛇さんのわりには着痩せするタイプかしら?」
からかうように指先を滑らせる仕草。
わたくしは思わず、その指を目で追って――
「――!?」
彼女の手の中に、下着。
いま、わたくしが身につけているはずのもの。
「ぇ、なっ……!」
羞恥が血液になって全身を駆け巡る。
咄嗟に翼を広げて身体を隠した拍子に、ローブがずるりと滑り落ちる。
中に着ていたのは、いつも通りの服。
今でも乱れはなく、身体も触れられた痕跡すらなかった。
(どうして? 魔法……? それとも、なにか指先の動きで――?)
外される感覚はなかった。
それなのに、確かに、それはわたくしの――
「ふふ、聞いていた通り。ほんとうに綺麗な翼ねぇ」
翼の影から覗く顔に、シャルティアの笑みがじわりと迫る。
そっと翼をなぞる指先。
その柔らかさと冷たさに、尾の鱗すら逆立っている気すらした。
「そんなに怖がらないで? まだ、たべたりしないわ」
微笑みながら、彼女の指は羽根の根元を撫で――優雅に一枚だけ、引き抜いた。
ぷつりと、羽根の抜ける音が耳の奥に残る。
「まぁ……すごい。ほんとに金が混じってるのね」
羽根にふっと息を吹きかける。
まるで宝石を見つけた子どものよう。
「綺麗……これは飾ってもいいし、お守りにもなるかしら? ねぇ、小鳥さん。あなた、どれくらい“特別”なの?」
――やめて。
「お友達になりましょう?」
――近寄らないで。
「また来ても、いいわよね?」
――それは……命令?
「……光栄、ですわ……」
精一杯の平静は、けれど、口の中は乾ききり、心臓の鼓動は、もう仮面では隠せなかった。
それは、崩れる寸前の薄氷のように。
シャルティアは満足そうに頷くと、踵を返して扉へ向かう。
「またね、小鳥さん。……次は、もうちょっと食欲が出てるかもしれないけれど」
微笑を残して立ち去ったその姿は、尋ねて来た時と同じ、洗練された流麗なカーテシーだった。
閑話『翠と黄金に』
シャルティア・ブラッドフォールンは、自室の鏡台の前に腰かけていた。
その指先には一枚の羽根。
翠に金が差す、目を惹くほどに美しい色彩。柔らかく、そしてしなやか。
「……ほんと、綺麗」
ふわりと浮かせ、光にかざす。
揺れた瞬間、金の繊維が月光を反射して、きらりと輝いた。
「まるで宝石みたい。小鳥さんの羽根……すごいわね」
にま、と笑う。
だが――ひとすじの“違和感”があった。
抜いたときはただの“お土産”のつもりだった。
怖がる小鳥をからかうため、ただそれだけの悪戯
けれど、こうしてじっくり眺めていると――この羽根は、“変”だ。
「なにか、引っかかるのよねぇ……」
シャルティアは気紛れに魔力を通してみる。
鑑定……のような、軽い触診。
だが、羽根は何も答えない。反応が、ない。
「……あら?」
再度、魔力を流す。今度はゆっくりと。
……滑る。
まるで、触れていないかのように。
通した魔力が、羽根のどこにも引っかからない。
まるで“解析される”という概念ごと欠けているみたい。
「これは――」
目を細める。
自分ほどの魔力感知をもってしても、この羽根の“本質”は見えてこない。
(ふぅん。鑑定が効かないのは羽根も同じってわけね)
単なる稀少種ではない。
この羽根――なにか力がある。
「ふふ、まさか、ほんとに小鳥じゃないのかもしれないわねぇ」
だが、驚きや警戒はない。
それよりも、わくわくしていた。
面白い玩具を見つけたときの、あの高揚感。
なにかを隠している。
それでいて、怯えは本物だった。
羽根と、もう一つ彼女から抜き去ったそれ。
小鳥の羞恥と驚愕の様子を思い出してクスリと笑う。
やったこと自体は手品でもなんでもない。
ちょっと“時間を巻いて”、ゆっくりと――ほんとうに、ゆっくりと脱がせてあげただけのこと。
まるで対応できていなかったどころか、時間魔法の可能性にも思い当たっていないようだった。
つまりあの小鳥は時間対策するほどの領域にいる強者ではない、ということ。
それなのに解析はできない。
「……もっと引っかいてみたくなっちゃうじゃない」
指先で羽根をくるりと回しながら、シャルティアはひとり呟く。
「ねぇ、小鳥さん。あなた――何を隠しているのかしら?」