風が吹くその日まで   作:Pawerfull Kurage

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四話 からめとるもの

朝の森は、しんと静まり返っていた。

 

川のほとりで、水面に映る自分の姿を覗き込みながら、わたくしは羽根の手入れをしていた。

淡い霧が流れ、陽が差し込むたびに、翠と金の大きな翼がきらきらと光を返す。

 

空を飛ぶことの次に好きな時間。

柔らかな布で丁寧に汚れを落とし、羽毛を整えて――

 

そこで、ふと、手が止まる。

 

一枚、足りない。

 

右の根元あたり、わずかな隙間。

整えた羽の流れに、ぽっかりと不自然な空白。

 

「……あぁ」

 

昨夜の出来事が脳裏を過った。

 

あの吸血鬼の、氷のような手。

柔らかく撫でられ、するりと抜かれた感触。

「まだ、たべたりしないわ」という囁きと、わたくしの羽根を珍しい果実のように見つめるあの眼差し。

捕まえて舐め回し、最後には喉奥で潰す――そんな好奇心が、あの瞳の奥で蠢いていた。

 

羽根一枚分の空白は血の匂いがする吐息が現実のものだと、いまでも訴えかけてくる。

 

羞恥と恐怖が、今も尾の先まで染みついている。

けれど、それ以上に――

 

「……小鳥、ですって?」

 

そう呼ばれた瞬間の、屈辱的で、侮辱的で、なのに否定しきれない小さな無力感が、胸の奥を刺してくる。

 

そんなときだった。

 

「おーい、おねえさーん!」

 

森の小道から、軽やかな声が響いた。

 

「あら……」

 

姿を見せたのは、昨日と同じ、小さな訪問者アウラ。

その笑顔は相変わらず無邪気で、悪意のかけらも見えなかった。

 

「あっ、朝のお手入れ中?…やっぱり翼、綺麗だねぇ。陽の光が当たるとすごくきらきらしててさ!すごーい!」

 

「うふふ……ありがとう」

 

褒められて、悪い気はしなかった。

この翼を、こんなふうに素直に称賛されれば、思わず表情も和らいでしまう。

 

「ね、おねえさん。ちょっとだけ、触ってもいい?」

 

あの無遠慮な吸血鬼とは、まるで違う。

おず、と聞いてくるアウラに思わずわたくしも気安くなってしまう。

 

「うふふ、優しくね」

 

触れる前に許可を求めるなんて――それだけで、安堵すら覚えた。

 

アウラはそっと手を伸ばし、羽根の先端に指先を当てる。

 

「わぁ……ふわふわ……」

 

「ふふ……くすぐったいわ」

 

笑いながら言うと、アウラも楽しげに笑ってくれた。

その仕草があまりに自然で、少しだけ昨夜の記憶が霞んでいくようだった。

 

アウラはしばらく羽根を撫でてから、顔を上げてにこりと笑った。

 

「ねえ、おねえさん。わたしたち、もう友達だよね?」

 

「えぇ…そうね」

 

作り慣れた笑みを浮かべて、わたくしは頷いた。

 

内心では少し戸惑っていた。

この子の距離感はあまりにも近い。

昨日出会ったばかりのはずなのに、もう“友達”と呼ぶことに、なんのためらいもない。

 

まるで旧知の間柄のように振る舞い、

そしてなにより――この小屋の場所を、教えた覚えはない。

怖い気もしたが、はっきりさせなくてはならなかった。

 

「ねぇ、そういえば――」

「よかった!」

被せるように、アウラが声を弾ませる。

 

「シャルティアも、おねえさんを気に入ってたから仲良くしようね!」

 

わたくしは、ついさっきまで笑っていた自分が嘘のように思えた。

 

「……だれ、ですって?」

 

アウラはきょとんとした顔でこちらを見て、かわいらしく首をかしげる。

 

「シャルティアだよ? 昨日、会ったんでしょ? あ、もしかして、あいつ名乗らなかった?」

 

「……ううん。二人が……知り合いだって、思わなかっただけ」

 

精一杯、動揺を押し殺して返す。

けれど、口の中がやけに乾いていた。

 

昨夜の記憶が、鮮やかに蘇る。

抜かれた羽根。吸い寄せられるような瞳。

あの時と、今この瞬間が――一本の糸で繋がっている。

 

まるで、蜘蛛の巣。

気づかないうちに絡めとられていて、今さら逃れようとすれば、糸がきしむ音を立てる。

 

じわじわと、足元から冷たい水が満ちていくような感覚。

気づかぬうちに羽根の間へ入り込み、身体を、心を、締めつけていく。

 

(いけない……これは、まずい)

 

自覚したときには、もう遅かった。

わたくしの周囲は、笑顔をたたえた猛禽たちに囲まれていたのだ。

 

静かに、柔らかく、しかし確実に――

からめとられていく感覚。

 

「ねえねえ、おねえさんって、普段はなにしてるの? 今日もなにか予定ある?」

 

アウラの声は相変わらず無邪気だった。

だけど、わたくしの胸の奥では、

昨夜の冷たい指先が、いまだ羽根の根元に触れているような気がしていた。

いつもより丹念な手入れでも、この感触を払い落とせなかった。




閑話 報告と観察

ナザリック地下大墳墓・第九階層、執務室。

アウラ・ベラ・フィオーラとシャルティア・ブラッドフォールンは、揃ってアインズの前に立っていた。
その傍らではアルベドが控え、やや鋭い眼差しで報告を聞き入っている。

「では、アウラ。シャルティア。それぞれ、彼女と接触した際の詳細を」

アインズの静かな声に、アウラが一歩前に出る。

「はい、アインズ様。あたしは、いつも通り子どもっぽく接してるんですけど、わりと自然におしゃべりできます。かなり慎重に距離を取っていた印象は受けましたが、こちらの強さに気がついて、ってよりは誰にでもそうしてるって印象です」

「わたくしの方は……ふふっ、少し戯れさせていただきんした」

「シャルティア」

アルベドの冷ややかな声に、吸血鬼は肩をすくめてから答え直す。

「……わたくしは初めから“強者”の振る舞いをしましたの、ふふ、わかりやすいほど怯えが隠しきれておりせんでありんした。あの瞳が潤むのを見て、つい笑みがこぼれてしまいんしたわ」
思い出したのか楽し気に笑う。

「加えて、時間魔法も対してまったく気づいた素振りを見せず――対応も、反応もなし。
あれが演技なら、大したものだとおもいんす」

「二人の報告を踏まえると……“実は非常に強い”個体であるという可能性は、限りなく低いと考えられます。」
「あたしも同じ意見」
総括するアルベドにアウラが同意しつつも続ける。

「でもさ――だからこそ、逃げるかもしれないって思うんだ。
あの子、自分の立場とか、こっちの雰囲気には、気づいたっぽかったし」

「……なるほど」
アルベドは唇をわずかに引き結んだ。

「鑑定が効かない相手が、ここまで“厄介”だとは。
解析できなければ、手も打てない。
対話はできても、信頼の裏付けがないのでは扱いが難しい…」

「その感覚は正しい」
アインズが静かに頷く。

「お前たちにとっても、良い経験になるだろう。
“怯えている”という情報があったとしても、それは即ち“弱者である”という証明にはならない。
そして、“弱者”であることは、“脅威ではない”という意味ではない」

その言葉に、場の空気が一瞬、ぴんと張り詰めた。

「放置するにせよ、対処するにせよ、明確な力の性質が判明するまでは警戒を解くな。
少なくとも、“逃がす”という選択肢は、現時点では排除しておくべきだ」

「畏まりました、アインズ様」
アルベドが即座に頭を垂れる。

アインズは手元の書類を一枚めくり、目を落としたまま尋ねた。

「……羽根の件は、どうなっている?」

「現在、デミウルゴスとペストーニャが調査にあたっています」
アルベドが答える。

「羽根自体には、生命力や精神安定に作用するような、緩やかな、何らかのポジティブな影響が観測されています。
ただ、対象自身と同じく魔法による鑑定は一切通らず、現物解析も難航しております」

「ふむ……」

アインズの目元の焔が、わずかに揺らいだ。

「――アインズ様。可能であれば、私にも接触の機会をいただきたく思います」
一呼吸おいて、アルベドが申し出た。

「直接この目で、見定めておきたいのです。
その存在が、我らの敵となる可能性があるのなら尚更――ですが、たとえ敵でなくとも、見過ごしてはならない気配を感じております」

アインズはしばし思案し、そしてゆっくりと頷いた。

「いいだろう。ただし――くれぐれも、慎重に。少しでも脅威を感じた場合すぐに離脱しろ。蘇生アイテムと緊急転移用のアイテムは忘れるな。念の為完全武装が望ましいが、流石にそれは警戒されてしまうか…それから…」

さらに続けようとしたところで、アインズはコホンを咳払いする。
ナザリックを出る機会が少ないアルベドにはつい口数が増えてしまう。

「……過剰な接触や刺激は避けろ。
我々が観察すべきなのは、“強さ”ではなく、“予測のつかなさ”そのものなのだから」

「承知しております、アインズ様」

アルベド、アウラ、シャルティアの三人は一礼し、ゆっくりと執務室を退出していった。

重厚な扉が閉まると同時に、三者三様の声が、廊下に弾ける。
「あんなにご心配頂けるなんて…愛…! 愛を感じるわ…!」
「あぁん!? アルベドが頼りないからに決まっていんす」
「はぁ……まーたはじまった」

アインズは少しだけ椅子に深く身を預けた。

「……やれやれ、頼もしいな」

苦笑が、誰にも気づかれぬように零れる。
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