――ああ、やっぱり、逃げておくべきだった。
あの日、“釘”を刺されたことで、踏み出せなくなった一歩。
あれさえなければ、わたくしは今ごろ、どこかの山の空にいたはず。
だけど、もう遅い。
後悔は、決して状況を良くしてはくれない。
今、この小屋に――200年間誰も訪れなかったこの場所に、3人の来客がいる。
しかも、最悪の組み合わせで。
正面のテーブルに座るのはアルベド。
優雅な微笑を浮かべながら、整った姿勢でこちらを見据えている。
その背後、椅子の背にもたれかかるようにシャルティアが立ち、頬杖をついて好色そうな目でこちらを観察している。
アウラは窓辺のソファに寝そべり、わたくしの蔵書を無造作にめくって遊んでいた。
その誰もが“優しく”笑っていた。
でも、その笑みがひとつとして安らぎを与えてくれない。
(3匹の猛獣と一緒にケージに入れられた気分)
羽根をたたみ、声を殺して、ただ息をひそめているだけ。
それでも、獣たちはこちらを見ている。
……取り繕う余裕が、少しずつ削れていく。
「私たちは、珍しい種族である貴女に――とても興味があります」
アルベドの声は、あくまでも柔らかい。
けれど、それはまるで絹で首を絞めるような音だった。
「そして、鑑定や解析が妨げている状況を、私たちは確認しています。
……これは意図的なものなのでしょうか?」
一瞬、身体が強張る。
「気を悪くしたのなら、ごめんなさいね」
本当に申し訳なさそうに、アルベドは目を細めた。
「貴女が私たちに敵意を持っているとは、思っていません。
でも……私たちは偉大なる御方に仕える身として、確かめなくてはならないのです」
わたくしの喉が、乾く音がした。
――偉大なる御方。
その言葉に、わたくしの心がかすかにざわめいた。
彼女たちをここまで従わせる存在。
冷ややかなアルベドも、愉悦を隠さぬシャルティアも、あの無邪気なアウラでさえ、
その言葉の前に、どこか一歩引いた敬意が滲むように見える。
(……どれほどの存在なのかしら)
想像できないことが、ひどく怖かった。
……でも、いま目の前にいるのはその眷属たち。
わたくしが向き合わねばならないのは、この現実だった。
彼女たちはわたくしを調べたのだ。
どこかで、魔法を試したのだろう。きっと何度も。
けれど――結果は「不明」だった。
それもそのはず。
わたくしは、『耐鑑定/解析』のスキルを持っている。
発動の制御はできず、常に無意識に働いてしまう。
解析も鑑定も通らないのは、こちらの“意図”ではない。
(つまり彼女たちは、わたくしの戦闘力も、レベルも、スキルも――なにも把握できていない)
(だからこそ警戒し、そして干渉が続いていた……)
随分久しぶりに冷静さが戻った気がする。
ならば、こちらから情報を与えることで、“警戒”を“無関心”に変えられるかもしれない。
(わたくしはただ、そっとしておいてほしいだけ)
小さな、小さな希望が、胸に宿る。
「……ご懸念を抱かせてしまって、申し訳ありません」
できる限り穏やかに、丁寧に言葉を紡ぐ。
「わたくしは、『耐鑑定/解析』というスキルを所持しています。
発動は無意識で、解除もできません。敵意があってのことではないのです」
一瞬の静寂。
アルベドの目がわずかに伏せられ、唇に小さな弧を描く。
「――まあ、そうだったのですね。疑うような真似をして……ごめんなさいね」
声も笑みも、完璧だった。
わたくしは、ほんの少しだけ息を吐いた。
(ひとまずは、対話の余地がある……)
それだけで、胸の奥に重く垂れ込めていたものが、ほんの一滴、溶けた気がした。
アルベドは納得したように頷き、笑い、言葉を収めた。
シャルティアは口を閉じ、椅子の背にもたれ直した。
アウラも再び本に目を落とし、ページをめくる音だけが空間を満たしていた。
(……大丈夫かもしれない)
まだ、話せる。
まだ、“人としての距離”を保てる。
そう思った。思いたかった。
緊張の糸が、ほんの少し緩む。
心の中の小さな希望が、かすかに輝きを増す。
しかし。
「ねぇ……」
柔らかな声が、背後から降る。
振り返るよりも早く、白く冷たい指が、わたくしの肩に触れた。
「──っ……!」
ぞくり、と、身体が跳ねた。
すぐそこに、シャルティアがいた。
いつの間にか、背後へと回り込んでいたのだ。
その指が、肩から鎖骨へと滑っていく。
まるで、毛並みを撫でるような、優雅な動き。
「……せっかく丁寧にかぶった仮面が、もうずれかけてありんすよ? 気ぃ、抜いちゃいんしたか?」
身体が固まる。
顔を向けることすらできない。
囁きが、耳のすぐそばで、溶けるように響いた。
「……っ」
翼が、ぴくりと反応する。
その震えを、彼女が見逃すはずもない。
「今日も綺麗ね」
ぴくりと反応するした翼に手が伸び、羽根一枚が掬い上げられる。
氷の指先が羽根を撫でる。その感触が、骨の奥まで染みこんでくる。
血の香りがする吐息が首筋に近づきそして――
「シャルティア、おねえさん困ってるでしょ?」
その言葉が落ちた瞬間、冷たい指先がぴたりと止まった。
見上げれば、アウラが片手を挙げて、まるで妹の不始末を詫びるような声音で笑っていた。
「ごめんねぇ、こいつスキンシップ多めでさー」
(……スキンシップ?)
その軽い言い回しに、わたくしの中で何かが、きぃ、と軋んだ。
「……いえ、大丈夫ですわ。少し驚いてしまっただけ」
救命具を見つけた遭難者のように、笑みを返す。
ようやく、シャルティアの指が羽根から離れる。指先の先まで、名残惜しげに。
“困ってる”“スキンシップ多め”――そんな言葉で、あの感覚が片付けられる?
(……ちがう。わたくしを見ていない)
理解されていない。
あるいは、わざと理解しないふりをされている。
アウラも――唯一、友好的に見えたあの子でさえ、“こちら側”ではないのだ。
(崩れては、だめ)
ここで仮面が割れたら。
今完全に折れてしまえば、
この人たちはきっと容赦なく、わたくしの中に決定的な楔を打ち込んでくる。
それが心の奥で分かっていた。
(……逃げられなくなる)
「……お茶、入れ直しますわね」
席を立とうとする。
ほんの一瞬でいい。もう一度冷静になる時間が欲しかった。
「お気になさらないで? 用事はあと一つだけだから」
アルベドの笑顔が、縫いとめてくる。
柔らかく、上品で、まったく残酷なその声。
「……お伺いいたしますわ」
喉がからからになって、唾を飲み込むたび、痛みが走る。
「いま私たちは、戦力の拡大中なの。
珍しい力をもつ貴女にも、是非仲間に加わってほしいのです」
「もちろん、強制なんてしないわ」
「これまでの暮らしを大切にしていることも、よくわかったもの。
だから、もし難しければ――“外部の協力者”という形でも構わない」
“お願いを、ときどき聞いてくれるだけでいい”
“無理をさせるつもりはない”
続く蜜のように甘い言葉が、毒のように喉を満たしていく。
「おぉ、いいね! これからもおねえさんとお話したいなぁ」
「せっかく緑の小鳥さんとお友達になったんですもの、これきりなんて寂しいですわよねぇ」
三者三様の笑みが、わたくしの表情ひとつ、まばたき一つを見逃すまいとする目だった。
わたくしは、愚かではない、はず。
でも、深謀を察する力も、魔法を見破る術も、賢者を相手に身をかわす知恵もない。
そして何より。
……もう限界だった。
感情の堰が、今にも決壊しそうで。
溢れ出す前に――どんな形でも、この場を終わらせたかった。
名ばかりの協力者。
たとえ毒でも、いちばん甘そうな毒。
「……そういうこと、でしたら。
できる限り、お力になりますわ」
それを、わたくしは笑顔で飲み下した。