風が吹くその日まで   作:Pawerfull Kurage

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六話 獣の檻と蜜の毒

――ああ、やっぱり、逃げておくべきだった。

 

あの日、“釘”を刺されたことで、踏み出せなくなった一歩。

あれさえなければ、わたくしは今ごろ、どこかの山の空にいたはず。

 

だけど、もう遅い。

後悔は、決して状況を良くしてはくれない。

 

今、この小屋に――200年間誰も訪れなかったこの場所に、3人の来客がいる。

しかも、最悪の組み合わせで。

 

正面のテーブルに座るのはアルベド。

優雅な微笑を浮かべながら、整った姿勢でこちらを見据えている。

その背後、椅子の背にもたれかかるようにシャルティアが立ち、頬杖をついて好色そうな目でこちらを観察している。

アウラは窓辺のソファに寝そべり、わたくしの蔵書を無造作にめくって遊んでいた。

 

その誰もが“優しく”笑っていた。

でも、その笑みがひとつとして安らぎを与えてくれない。

 

(3匹の猛獣と一緒にケージに入れられた気分)

 

羽根をたたみ、声を殺して、ただ息をひそめているだけ。

それでも、獣たちはこちらを見ている。

 

……取り繕う余裕が、少しずつ削れていく。

 

「私たちは、珍しい種族である貴女に――とても興味があります」

 

アルベドの声は、あくまでも柔らかい。

けれど、それはまるで絹で首を絞めるような音だった。

 

「そして、鑑定や解析が妨げている状況を、私たちは確認しています。

 ……これは意図的なものなのでしょうか?」

 

一瞬、身体が強張る。

 

「気を悪くしたのなら、ごめんなさいね」

本当に申し訳なさそうに、アルベドは目を細めた。

 

「貴女が私たちに敵意を持っているとは、思っていません。

 でも……私たちは偉大なる御方に仕える身として、確かめなくてはならないのです」

 

わたくしの喉が、乾く音がした。

 

――偉大なる御方。

その言葉に、わたくしの心がかすかにざわめいた。

 

彼女たちをここまで従わせる存在。

冷ややかなアルベドも、愉悦を隠さぬシャルティアも、あの無邪気なアウラでさえ、

その言葉の前に、どこか一歩引いた敬意が滲むように見える。

 

(……どれほどの存在なのかしら)

 

想像できないことが、ひどく怖かった。

 

……でも、いま目の前にいるのはその眷属たち。

わたくしが向き合わねばならないのは、この現実だった。

 

彼女たちはわたくしを調べたのだ。

どこかで、魔法を試したのだろう。きっと何度も。

 

けれど――結果は「不明」だった。

 

それもそのはず。

わたくしは、『耐鑑定/解析』のスキルを持っている。

発動の制御はできず、常に無意識に働いてしまう。

解析も鑑定も通らないのは、こちらの“意図”ではない。

 

(つまり彼女たちは、わたくしの戦闘力も、レベルも、スキルも――なにも把握できていない)

(だからこそ警戒し、そして干渉が続いていた……)

 

随分久しぶりに冷静さが戻った気がする。

ならば、こちらから情報を与えることで、“警戒”を“無関心”に変えられるかもしれない。

 

(わたくしはただ、そっとしておいてほしいだけ)

 

小さな、小さな希望が、胸に宿る。

 

「……ご懸念を抱かせてしまって、申し訳ありません」

 

できる限り穏やかに、丁寧に言葉を紡ぐ。

 

「わたくしは、『耐鑑定/解析』というスキルを所持しています。

 発動は無意識で、解除もできません。敵意があってのことではないのです」

 

一瞬の静寂。

アルベドの目がわずかに伏せられ、唇に小さな弧を描く。

 

「――まあ、そうだったのですね。疑うような真似をして……ごめんなさいね」

 

声も笑みも、完璧だった。

わたくしは、ほんの少しだけ息を吐いた。

 

(ひとまずは、対話の余地がある……)

 

それだけで、胸の奥に重く垂れ込めていたものが、ほんの一滴、溶けた気がした。




アルベドは納得したように頷き、笑い、言葉を収めた。
シャルティアは口を閉じ、椅子の背にもたれ直した。
アウラも再び本に目を落とし、ページをめくる音だけが空間を満たしていた。

(……大丈夫かもしれない)

まだ、話せる。
まだ、“人としての距離”を保てる。
そう思った。思いたかった。

緊張の糸が、ほんの少し緩む。
心の中の小さな希望が、かすかに輝きを増す。

しかし。

「ねぇ……」

柔らかな声が、背後から降る。

振り返るよりも早く、白く冷たい指が、わたくしの肩に触れた。

「──っ……!」

ぞくり、と、身体が跳ねた。

すぐそこに、シャルティアがいた。
いつの間にか、背後へと回り込んでいたのだ。

その指が、肩から鎖骨へと滑っていく。
まるで、毛並みを撫でるような、優雅な動き。

「……せっかく丁寧にかぶった仮面が、もうずれかけてありんすよ? 気ぃ、抜いちゃいんしたか?」

身体が固まる。
顔を向けることすらできない。
囁きが、耳のすぐそばで、溶けるように響いた。

「……っ」

翼が、ぴくりと反応する。
その震えを、彼女が見逃すはずもない。

「今日も綺麗ね」

ぴくりと反応するした翼に手が伸び、羽根一枚が掬い上げられる。
氷の指先が羽根を撫でる。その感触が、骨の奥まで染みこんでくる。

血の香りがする吐息が首筋に近づきそして――

「シャルティア、おねえさん困ってるでしょ?」

その言葉が落ちた瞬間、冷たい指先がぴたりと止まった。

見上げれば、アウラが片手を挙げて、まるで妹の不始末を詫びるような声音で笑っていた。

「ごめんねぇ、こいつスキンシップ多めでさー」

(……スキンシップ?)

その軽い言い回しに、わたくしの中で何かが、きぃ、と軋んだ。

「……いえ、大丈夫ですわ。少し驚いてしまっただけ」

救命具を見つけた遭難者のように、笑みを返す。
ようやく、シャルティアの指が羽根から離れる。指先の先まで、名残惜しげに。

“困ってる”“スキンシップ多め”――そんな言葉で、あの感覚が片付けられる?
(……ちがう。わたくしを見ていない)

理解されていない。
あるいは、わざと理解しないふりをされている。

アウラも――唯一、友好的に見えたあの子でさえ、“こちら側”ではないのだ。

(崩れては、だめ)

ここで仮面が割れたら。
今完全に折れてしまえば、
この人たちはきっと容赦なく、わたくしの中に決定的な楔を打ち込んでくる。

それが心の奥で分かっていた。

(……逃げられなくなる)

「……お茶、入れ直しますわね」

席を立とうとする。
ほんの一瞬でいい。もう一度冷静になる時間が欲しかった。

「お気になさらないで? 用事はあと一つだけだから」

アルベドの笑顔が、縫いとめてくる。
柔らかく、上品で、まったく残酷なその声。

「……お伺いいたしますわ」

喉がからからになって、唾を飲み込むたび、痛みが走る。

「いま私たちは、戦力の拡大中なの。
 珍しい力をもつ貴女にも、是非仲間に加わってほしいのです」

「もちろん、強制なんてしないわ」

「これまでの暮らしを大切にしていることも、よくわかったもの。
だから、もし難しければ――“外部の協力者”という形でも構わない」

“お願いを、ときどき聞いてくれるだけでいい”
“無理をさせるつもりはない”

続く蜜のように甘い言葉が、毒のように喉を満たしていく。

「おぉ、いいね! これからもおねえさんとお話したいなぁ」

「せっかく緑の小鳥さんとお友達になったんですもの、これきりなんて寂しいですわよねぇ」

三者三様の笑みが、わたくしの表情ひとつ、まばたき一つを見逃すまいとする目だった。

わたくしは、愚かではない、はず。

でも、深謀を察する力も、魔法を見破る術も、賢者を相手に身をかわす知恵もない。

そして何より。
……もう限界だった。

感情の堰が、今にも決壊しそうで。
溢れ出す前に――どんな形でも、この場を終わらせたかった。

名ばかりの協力者。
たとえ毒でも、いちばん甘そうな毒。

「……そういうこと、でしたら。
 できる限り、お力になりますわ」

それを、わたくしは笑顔で飲み下した。
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