私もそのように没落するのだ。
私という杯は満ちたものを分け与え、配り、零し、再び空になる。
そうしてまた、私は人間となるのだ。
ツァラトゥストラかく語りき:ニーチェ
戴冠式に向けた準備に軍も駆り出される一方で、役目を終えた特別部隊の自分は、いや、無様にもその生を存えてしまった、反逆者として裁かれその役目を終えるつもりだった自分は、任務もなく、振られる仕事もなく、「とりあえず今は立場が厄介なので引っ込んでいてください」と部下に押し切られ、帰るつもりのなかった自宅で、無意に時間を持て余している。
残したものといえば、ビンテージのワインコレクションぐらいなもの。それも、嗜好家のコレクションではなく、手に入りやすかったものをとりあえずあつらえた程度のものだ。数本は、気合いを入れて探しこそしたが。
その自宅も今となっては自宅ですらない。
命を捨てる覚悟までしていたのだ。
それはもう身綺麗に。残すものも特になく、遺言の執行もすぐにできるように、というか生前に処分できるものは概ね処分してしまっていた。
それこそ、身の回りのものなどコンテナ一つあれば収まってしまう。
ワインは世話になったクルーに分けてもらうように手配していた。
そして、その時がくれば売ってお金に変えて、適切なところに寄付でもしてもらえたらいいと考えていた自宅。
それは、最後に繋いだ思わぬ縁。
弟子、とも呼べる、異邦のニュータイプ。
彼の異名と色を同じくする髪が似合う、小柄な彼女。
当の本人は気にしていないそぶりを見せるが、故郷を追われることとなった根無草の若者。
彼女が望めば、自分の死後はアマテ・ユズリハに遺贈します。と、認めた書状は無駄になってしまったが。
少し早い成人祝いと口実をつけ、名義は彼女に書き換えさせてしまっていた。
「なので、好きに使ってもらって結構ですよ、マチュ君」
「贈与税とか大丈夫なの?ヒゲマン」
「その辺りの税制はイズマコロニーとジオンではまた違うものです。とはいえ、この内乱の治らぬうちは、行政も目を光らせる余裕などないでしょう」
「えっと...」
「楽にしてください。...ニャアン君、でしたか」
「私のMAV」
「大事にすることです」
ゆったりとしたソファーのクッションが、深く座り直した自分にやわらかく反発する。
薔薇の少女を還したあと。
彼女たちは、書類上はジオン軍預かりとして偽造した身分が割り当てれている。
今後、どうしたいですか。
と、問えば、地球に行きたい。と答えたマチュ君。
少しお時間をいただきますが、と、自分に残った権限で、希望を叶えられるように手配して、概ね目処が立ったのがつい先日。
流れでジオン本国に戻ることになって、少しだけ寄っていきなさいと誘ったのが昨日。
「しばらく目立たないでください」と、エグザベ君とコモリ君に諭されて、軍用車で自宅まで護送されてきたのがついさっき。
「食べるものといえば保存食ぐらいしかないので、何か買ってきてもらえますか?」
あいにく顔を晒すなと言われていますので。
天井を仰ぎ見ながら頼めば、「じゃあお金ちょうだい」と笑う彼女が自分の顔を覗き込む。
「ヒゲマンは何がいい?」
「塩辛いものが一品欲しいですね」
「諒解、いこ、ニャアン。何作る?」
「え...と、野菜とかあるのかな?サラダとか...」
「クルーのみなさんも来るので、多めにお願いしますね」
「え?パーティ?」
「慰労会的なものです」
「私もいていいのかな...」
「構いませんよ」
「さ、いくよニャアン。ついでにピザとかないかな?」
パタパタパタと駆けていくいく足音がだんだんと静かになっていく。
思いがけないことだ。
こんなにゆったりとした、穏やかな時間が、自宅で流れることがあるなんて。
◇
ドタバタと、ガヤガヤとした喧騒も鳴りをひそめ、それぞれがそれぞれの帰路についた夜半、一本だけ残しておいたボトルを手に一人、グラスを傾ける。
「まだ起きてんの?悪い大人じゃん」
「君は...未成年でしたね、マチュ君。ニャアン君は?」
「先に寝ちゃった」
穏やかな静寂が満ちる。
「先に、これからのことを話しておきましょうか」
「ん?」
つらつらと、言葉が思いがけず溢れていく。
この家を譲り渡すこと。
いない間は旧ソドンクルーの待機所として管理もできること。
将来は大学に籍を用意してあること。
軍の契約先として枠を用意してあること。
地球の拠点の補給も受けられること。
風評を消す用意があること。
故郷に帰ることもできること。
両親を呼び寄せることもできること。
「何?爺さんみたいじゃん」
「あいにく、整理して終わるつもりだったのですが」
それに手のかかる子供が二人できてしまったようなものですからね。いや、三人かな?
と嘯けば、彼女もそれに釣られて笑う。
「いいのですか?」
「もうしばらくは甘えさせてよ」
「構いませんが、心配はさせないことです」
「とりあえず海で泳いでからかな」
「仕方ありませんね。それぐらいのわがままを聞くぐらいの余裕はあります」
「ありが...今、ちょうど都合いいな?って思ったでしょ」
「気掛かりな人が地球にいるのでしょう?ついでに様子を見に行ってあげなさい」
「なんか釈然としないな...」
「ということで、引き続きqur...ジークアクスは預けます」
「くれないんだ?」
「強奪されてしまうと指名手配しないといけないので」
「ざーんねん」
「夜も更けてきました。そろそろ寝なさい」
「はぁーい」
カラカラと笑いながら、小さくあくびを噛み殺した彼女が、パタパタと手を振って、部屋を後にしようとする。
「死なないでよね」
うっすらと感じていた、彼女のこちらを心配する思念。
深く読むつもりもなかったし、それもまぁそうだろうと思っていた。
読まれていることを知っているだろうとも感じていた。
それでも、言葉にしないと通じないものもあるし、その上で言葉にするから、伝わるものもある。
「わかっていますよ」
そんなに自分が儚くなりそうに感じられたのか、それとも、何かが漏れ出てしまっていたのか。
「彼を放っても置けませんからね」
「ヒゲマンのMAV?」
「えぇ私のMAVです」
あんなことがあっても。
えぇ。
と、言葉にしないものもある。
「じゃ、おやすみ。ありがと」
と、背を向けた彼女を、そのまま見送った。