ぼっち・じ・えんど! 作:メノウ
文化祭ライブ会場の熱気が肌を刺した。ステージのまばゆいスポットライトの下、私は己の失敗を噛み締める。激しい演奏の最中、突然エレキギターをかき鳴らす私の右手は虚しく空を切り、左手には先ほどまで弦があったはずの場所の、空虚な感触だけが残っていた。
「……切れた」
耳元で、たった一本の弦が「ブツン」という鈍い音を立てて切れた瞬間、それまで会場を支配していたバンドの音が、突然途切れた。その場の熱気が、一瞬で不穏な沈黙に変わる。動けない。足が、鉛のように重い。
目の前では、まだ演奏を続けようと必死にベースを弾くリョウさんや、戸惑いながらもギターソロを繋ごうとする喜多ちゃんの姿が見える。そして、センターでドラムを叩く虹夏ちゃんが、心配そうにこちらを振り返った。
観客の微かなざわめきが聞こえる。ライブは、完璧な盛り上がりを見せていたはずだった。いや、私にとっては、生まれて初めての「完璧な瞬間」だった。観客の歓声、バンドメンバーの笑顔、そして私が奏でるギターの音。あの瞬間まで、すべてが順調だったのに──たった一本の弦が、私の世界を壊した。
「ダメだ……もう、ダメだ……」
その瞬間、私の頭は真っ白になった。どうすればいいのか、全く分からない。目の前には、弦が切れて演奏が止まった現実と、それを呆然と見つめる観客、そしてバンドメンバーの顔。期待、失望、軽蔑──。様々な感情が向けられているように感じて、全身が竦む。
虹夏ちゃんの「ぼっちちゃん!」という叫び声が聞こえた。だが、もう、私にはどうすることもできない。私は、この場にいてはいけない。ここにいたら、またみんなに迷惑をかける。私は、私なんかじゃ──。
「逃げろ……逃げなきゃ……」
衝動だった。考えるより早く、私は背を向けた。手にしていたエレキギターが、ステージの床に滑り落ちる。その音が、なぜか遠くで響くように感じた。振り返ることも、拾い上げることもせず、ただひたすらに、走った。ステージ袖を抜け、体育館の準備室を飛び出し、そのまま非常口から上履きのまま外へと走り出した。
遠ざかるライブの音、観客の声。やがて、何も聞こえなくなる静寂だけが残った。
後ろから、リョウさんや喜多ちゃんが追いかけようとしてくれた気配があった。だが、私は止まれなかった。止まってしまったら、すべてが終わるような気がしたから。いや、もう、終わっていたのだ。私の、わずかな輝きは。
走り続けた。どこへ向かうかも分からずに、ただ、ここから遠くへ。あの場所から、あの音から、あの人たちから──。すべてから、逃げ出したかった。
私は、足が棒になるまで歩き続けていた。文化祭ライブの会場から、どれくらい離れただろう。電車にも乗らず、バスにも乗らず、ただひたすらに、無数のビルが立ち並ぶ道を歩いた。東京の夜は、どこまでも明るく、そしてどこまでも私を孤独にする。
繁華街のネオンが、目に痛い。賑やかな居酒屋から漏れる笑い声や、肩を組んで歩く友人グループ、寄り添うカップル。誰もが楽しそうで、誰もが誰かと繋がっている。私だけが、この世界の異物みたいに、浮いている。
「私なんか……どこにも居場所なんて、ないんだ……」
自販機の明かりだけが煌々と輝く路地裏で立ち止まる。喉が渇いた。お腹も空いた。足の裏がジンジンと痛む。体は限界だった。だけど、それよりも、心の奥から湧き上がる絶望感が、私を支配していた。
どこかの店から流れてきたバンドの音楽が耳に入った。軽快なギターリフ、力強いドラム、響く歌声。私は、全身を切り裂かれるような痛みに襲われた。
「やめて……聞きたくない……」
耳を塞ぎたくなる衝動を抑え、私は再び歩き出した。音楽なんて、もう、私には関係ない。ギターなんて、もう、弾かない。私は、音楽に嫌われたんだ。私には、やっぱり、才能なんてなかったんだ。
辿り着いたのは、薄暗い高架下だった。頭上を轟音と共に電車が走り去っていく。その振動が、私の全身に響く。ここは、人通りも少なく、ネオンの光も届かない。私のような、暗闇に紛れたい人間には、ちょうどいい場所だった。
錆びたベンチに、へたり込むように座り込んだ。もう、動く気力もない。家にも帰れない。バンドにも顔向けできない。私は、もう、どこにも行く場所がない。このまま、夜が明けるのを待つのか。夜が明けても、私に何が残るのだろう。
「消えてしまいたい……」
そう、心から願った時だった。
不意に、足音が聞こえた。振り返ると、暗闇の中に、人影があった。男の人だ。身長が高く、細身。顔は影になってよく見えない。不審者……!? 警戒して身構えるが、私にはもう、逃げる体力も残っていなかった。
男の人は、私から少し離れた自動販売機の前に立つと、何かを選んでいるようだった。そして、無言でボタンを押し、ガコン、という音と共に商品が落ちてくる。男の人はそれを取り出すと、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。
男の人は、私の目の前に立つと、静かに言った。
「これ、良かったら」
そう言って、男の人が差し出したのは、冷たいコーラの缶だった。差し出されたコーラの缶を見た瞬間、私の時間は止まった。
「……コーラ」
脳裏に、あの日の光景がフラッシュバックした。それは結束バンドの初ライブが終わった後、虹夏ちゃんが自販機で買ってきてくれたコーラ。世界で一番甘くて、優しい味がした、あのコーラ。
「虹夏ちゃん……結束バンド……」
だが、今の私は、あの時の私とは違う。私は、逃げ出した。あの優しい笑顔を、信頼を、裏切ってしまった。喉の奥がツンとする。胸が締め付けられるような、強烈な後悔と罪悪感が込み上げてきた。差し出されたコーラの缶が、まるで私を責めているかのように見えた。思わず、手を引っ込めようとする。
しかし、目の前の男の人は、私が動揺していることなど意にも介さず、淡々とした口調で続けた。
「ちょうどキャンペーン中でね、アプリのスタンプが2倍貯まるんだ」
感情が読めない、静かな声。彼の言葉には、私への同情も、焦りも、興味も、何も感じられない。ただ、事実を淡々と述べているだけのように聞こえた。その、どこか浮世離れした雰囲気に、私はかえって気圧された。拒否する気力も、言葉も出てこなかった。男の人は、私の返事を待つことなく、私の手のひらにそっとコーラを置いた。冷たい缶の感触が、私を現実に引き戻す。
男の人は、私の横のベンチに、少し間を空けて腰を下ろした。無言で、私の方を見ている。その視線に、私は身を縮こまらせた。
「……ここで、何を待ってるの?」
突然の問いかけに、私は息を呑んだ。声には、やはり感情の波がない。まるで、当たり前のことを尋ねているかのように。私は何も答えられない。何を答えたらいいのかも、分からなかった。
「帰り道、わからなくなった?」
また、淡々と。私は、小さく首を振った。帰り道は、わかる。だが、帰りたくない。帰れない。
「そう」
短い相槌。男の人は、空を見上げる。その横顔も、感情を読み取れない。どこか、諦めているような、達観しているような、そんな雰囲気だった。私の警戒心は、彼の不審さに対するものから、彼の読めない言動に対する困惑へと変わっていた。
「とりあえず、ここじゃ風邪ひくよ」
男の人は、私の目をまっすぐ見つめた。その瞳の奥には、薄い膜が張っているようで、感情が見えなかった。だが、不思議と、恐怖は感じなかった。ただ、何かが「足りない」ような、そんな印象を受けた。
「俺の部屋、近いからさ。少し休んでいけば?」
その言葉は、命令でも懇願でもなく、ただの提案のように聞こえた。まるで、目の前に道があるから、歩いてみたらどう、と言われているかのように。私は、その言葉に、抗う気力も意味も見出せなかった。このまま闇の中にいるよりは、きっと、マシなのだろう。そう、ぼんやりと思った。
「……はい」
掠れた声が、かろうじて喉から出た。男の人は、私の返事を聞くと、小さく頷いた。そして、立ち上がった。私も、ゆっくりとベンチから立ち上がる。差し出されたコーラは、まだ半分も飲めていなかった。冷たいまま、私の手の中にあった。
男の人は、振り返ることなく、静かに歩き始めた。私は、その背中を、ただ追いかけるように、足を踏み出した。夜の街に、ふたつの影が、ゆっくりと溶けていく。それは、私にとって、新たな夜の始まりだった。そして、終わりの響きでもあった。
男の人に続いて、高層マンションのエントランスを通り、エレベーターで上階へ向かう。静かに上がるエレベーターの中で、防音が効いているらしい建物の静けさが私を包み込む。無機質な静寂だった。最上階に近い一室。男の人は、何の躊躇いもなく鍵を開け、私に「どうぞ」と促した。
部屋の中は、予想以上に整理整頓されていた。広々としているが、余計なものが置かれていない、静かで洗練された空間。壁には、見たことのない抽象画が飾られていた。そして、部屋の壁際には、キーボードが据え付けられているのが見えた。
「俺は絢瀬湊、大学生。飲み物、他になんかいる?」
男の人は、冷蔵庫を開けながら、私に尋ねた。私は、首を振って答える。私の手の中には、まだ冷たいコーラがあった。
男の人は、飲み物を用意すると、小さなテーブルを挟んで、私から少し離れた場所に腰を下ろした。そして、私の方を見ずに、視線を部屋の隅に向けた。その視線の先に、私の目も引き寄せられる。
部屋の隅。そこに、それはあった。立てかけられた、一本のエレキギター。ケースにも入らず、ただ、そこに。まるで、誰かの帰りを待っているかのように。
「ギター……」
その瞬間、私の心臓が、ドクン、と大きく鳴った。逃げ出してきたはずの、憎むべきはずの、私の人生を狂わせたはずの、ギター。だが、目の前のギターは、なぜか、とても穏やかに見えた。触れることなど、できない。もう、二度と。そう、自分に言い聞かせているはずなのに、私の目は、そのギターから離せなかった。それは、私を呼んでいるようだった。静かに、静かに。
「私……どこに来ちゃったんだろう……」