歐児の採用から一週間が経過し、酉野は1日の終わりに建屋裏でゆったりしながら蒼の肩を叩く。
「アイツ、普通にお前より仕事できるな。もう教えること無いぞ」
「クソー!!」
その言葉に、今日は室内でダイナミックに足を滑らせ、空中で縦に半回転の末、後頭部から着地して子供達から真剣に心配された蒼は悔しさから雑巾を地面に叩きつけた。
原作の印象から警戒心高めで接していたのだが、普通に好青年な上、仕事の手際も良いとあって先輩の威厳など欠片も無くなった蒼は、たった一週間で既に張間からおもしろマスコット枠として扱われ始めていて。
「ねえアイツ私の事舐め腐ってるんだけど! 今日とか朝私の顔見てなんて言ったと思う!? アオンパちゃーすだぞ! なんだアオンパって!?」
「お前のド滑りマン呼びよりかはマシだろ」
「私のは敬意があるから」
「敬意って言葉の意味を知らねえのか」
自分のことを棚上げして悔しがる蒼に、酉野は溜め息を吐いた。
「アイツは俺のこと酉野サンって呼ぶからな。お前と違ってアイツはいい奴だなあ」
「クソッ、ド滑りマンが陥落してる! 私の居場所がどんどん狭くなっていくんだが!」
「元からお前は閑職だよ」
子供の監視以外、雑用ばかりで碌に仕事を与えられていない蒼は元から居場所など有って無いようなものだ。
子供に悪影響だからと接触すらある程度制限されているので、本来であれば相当に肩身も狭いはずなのだが、有り余る態度の大きさと図太さでそれを感じさせないだけである。
少なくとも真っ当な精神であれば、この扱いを受けて邪険にされていると気を悪くしてもおかしくはない。
しかし蒼はそれを真っ当な判断として受け入れたうえで仕事をしている。
蒼は自らの価値観が正しくない事を客観的に自覚できていた。
「子供達からの人気も奪われて……ッ」
「元からお前は怖がられてるだろ」
「いや、最近じゃ陰でミイラマンとか暴力ヤクザ女とか呼ばれて慕われてるから」
「それは陰口って言うんだぞ。また一つ賢くなれたな」
この一週間で歐児からの扱いを見て、子供達は蒼の印象を大きく変化させていた。
元々、戦闘を得意とする酉野を父親、水場を得意とする水島を母親のように見ていた子供達にとって、後からやってきた蒼は家族という枠組みに入れにくい微妙な印象を抱いていた。
酉野や水島では裏社会から流れてきた蒼に対し、舐めた意識を抱けなかったので子供達もそれを感じ取り、どこか心の内に置けなかったというのもあるが。
しかし張間の気さくなコミュニケーションに対し、激怒せずに軽くブーブー言う程度で済ませている姿を見た子供達は、間違えた事に対し罰を加える看守のような存在から、間違えた事さえしなければ怒らない先生のような存在へと印象を変化させたのである。
「いやいや、昨日とか子供から話しかけてくれたからね」
「ほう、なんだって?」
「そのお洋服、洗ったほうがいいよって」
「……」
「…………」
「………………」
気まずい沈黙が流れ、酉野は蒼が常時着用している灰色のコートから視線を逸らした。
汗や皮脂など人間的な代謝は鈍いものの、雨や埃などを吸ったコートは地の灰色なのか汚れなのか、もはや判別もできない。
生乾きのような臭いはないものの、汚れているという点については誰も否定できないだろう。
「……まあ、それが言えるぐらい慕われてはいるんだよ」
「そうだな」
そういう事になった。
「はぁ……アイツのお陰で私の仕事も減って……私の事を舐めすぎてる以外に悪いとこ無いじゃんアイツ」
「そう考えるとお前を舐めてるアイツすごいな。裏社会から流れてきたの教えたよな?」
「一番最初らへんに言ったよ。言ってアレなの心臓に毛がワサワサ生えてるんじゃない? 私みたいなのじゃなかったらぶん殴られてるぞ」
「それは流石に相手を見るだろ」
「……今、私の事を貧相なポンコツ雑魚女って言ったか!?」
「言ってない言ってない」
打てば響くどころか打たずとも跳ね回る蒼が床に打ち付けた雑巾を拾い上げて振り回していると、裏口のドアが開く。
「あっちの掃除終わったっす。みんないい子でいいですね」
「おうお疲れ様。後は好きな時間に帰っていいぞ」
「はーい。おっアオンパじゃーん、1日終わるのに元気そうでいいね」
「お前私の事をキッズだと思ってないか!?」
わはは、と手を叩いて笑う張間に、蒼はぺちぺちとその肩を叩く。
「いやね、アオンパが面白くて」
「私より仕事ができるからって人で遊ぶな!」
「あ、調理場に包丁出しっぱだったのはガチでやめといてもらっていいっすか。子供触っちゃうと良くないんで」
「それは本当にごめん」
失敗を指摘されて謝罪後、再度雑巾を床に叩きつけた蒼は手で顔を覆いながら崩れ落ちた。
「こんなに出来る奴が入ってきたら……ッ! 人を容赦なく鉄パイプで殴って水責めできるだけの私は用無しだって追い出されるゥ!」
「酉野サン、アオンパってガチ面白いっすよね」
「あぁ……」
地面を転げ回る女を見てそんな感想を抱く張間に、酉野はコイツの肝っ玉も相当なものだなと感じる。
あれだけ大々的に苦痛を与えたのであれから襲撃はなく、蒼の容赦無き暴力を見る機会が無いとはいえ、粗暴な部分が見え隠れする女を平然と
「んじゃ帰ります」
「おう、お疲れ様。あ、さっきも言ったけど怪しいやつには気をつけろよー」
「はーい」
ヒラヒラと手を振って帰っていく張間を見送る中、蒼は酉野の言葉に対して首を傾げていた。
「怪しい奴……もう怪しい奴だらけでもう気を付けるとか無いだろ」
「あぁ? いやお前昼の……はアレか、頭ぶつけて休ませてたからいなかったのか。どうやったら歩行の勢いで後頭部から着地できるんだよ」
「真剣に詰るのやめてもらっていいかな」
呆れた顔を向けられても、蒼としてはただ足を滑らせて、なぜかその勢いのまま空中で半回転してしまっただけなので仕方ないだろと言いたかった。
「隣町にいた強盗団が来てるかもしれないって注意があったんだよ。お前も気をつけろ」
「───強盗なんて、こんな世の中で今更そんな事言われてもね……」
言葉に詰まった蒼に気付くことはなく、酉野は曖昧に聞かされた内容について思い出そうと視線を上へ向ける。
「隣町で大人数の住民から強盗した後、依頼された自警組織が報復しようとしたら逃げたらしくてな。ここでも同じ事をされる可能性があるからってさ」
「ふぅん……」
「異能持ちって話だったからな。それなりに死者も出てるらしいし、見掛けたら近寄るなよ」
「近寄るわけなくない?」
張間かという疑いは晴れないものの、聞いた限りでは違うようにも思える。
原作において、現行制度が整備され始めた頃に世直しを訴えた張間は、恐らくそこに正義を見出していた。
弱者から奪えば楽な時代に、あえて奪わずに与える選択をする人間が果たして強盗を行うのだろうか。
「まあ覚えとく。んじゃ私も帰るわ」
「おう、気をつけ……まあ、お前はいいか。なんかあっても勝手に生き残るだろうし」
「アイツ来てから絶対に私の扱いが雑になったよね」
「そんな事はない。元からだ」
「否定のせいでより酷くなったな」
そんな会話を最後に、蒼もまた退勤する。
この一週間で張間を見ていたが、特に怪しいところもなく汎用性の高い【接着剤】という能力も役立っていた。
これでは本当に蒼の方が役立たずであり、異能の練習を行う子供達の監視やアドバイスを行っていなければ追い出されていたことだろう。
「……そこのお前、止まれ」
「エッ」
そんな事を考えていれば、刺々しく、掠れた声が耳に入る。
意識して周囲の知覚をすれば、横の路地裏に釘のようなものを拳から無数に生やす女がいた。
防弾チョッキのような分厚いジャケットは、人相の悪い顔と相まってかなりの威圧感を感じる。
本当に怪しい奴が出たなという蒼の呆けた顔に、平和ボケして未だ現状が理解できていないのだと勘違いした女が無造作に近寄り、拳から生えた棘を蒼の腹へと軽く押し当てる。
「黙ってこっちに来い」
そのまま殴られたらかなり痛そうなので大人しくしようとして、蒼はふと閃いた。
改めて周囲の知覚を行い、目撃者がいないことを確認。
路地裏に数歩踏み入ると、その場で停止。
「……」
「あぁ? 言葉がわからねえなら一発ぐらいしょうがねえよなあ」
拳を引いて振りかぶる動作より先に、包帯の奥にあるハート型の瞳孔、その輪郭が蒼色に淡く輝いて。
これは、新たに獲得した異能の使い方。
人間が座った状態から立ち上がることができるように、蒼はいつの間にかそれができると、行為として可能なのだと本能的に自覚し、理解していた。
───瞳を蒼く輝かせない、新たな攻撃の方法を試すにはいい機会だ。
「えいっ」
技名も無く、無造作に包帯をすり抜けて放たれたものは半透明の小さな球だった。
仄かに明るさを感じる白いそれは、物質的ではない。
それは光っているように見えて、光を放ってはいない。
それは環境による陰影が無く、色が変わらないから光っているように見えるという、奇妙なものだった。
速度はそれなりにあり、射出と呼んで差し支えない勢いで女へと一直線に向かう。
そうして苛立ち、興奮する女の胸へと吸い込まれ、女は呆然としたようにその場で動きを止めると、次にその表情をみるみる内に怖気へと染め上げる。
「ウッ、ォヴ、ここから出ます! 出たい、げぅ、出させてください! 早く、今すぐに、すぐ、やうぅう! 余りにも狭すぎる! ごゥ……ッ」
「うわ」
急に胸を掻きむしって叫び出したかと思えば、自らの舌を宙へ限界まで引き伸ばし、終いにはそれを掴んで引き抜こうとするような挙動を見せて窒息した女。
想定外の挙動に、蒼は心底嫌な顔をして後退りする。
「し、死に方が気持ち悪すぎる……」
人が徐々に動かなくなる様子も、貪られた無惨な屍も見てきた蒼からしてみても、発狂してアグレッシブな自殺を敢行した様子には流石に恐怖を覚えた。
窒息特有の青紫色に染まった顔面からは握られたままの舌が突き出ており、鼻から白泡がジワジワと溢れてきている。
そんな状態で痙攣して震える様は、これ以上無いほどに壊れたという表現が当てはまるだろう。
それを作り出した張本人が気味悪がっているというのは奇妙な光景だが、輪郭を失い、蒼い光の中へ消えていくそれらと比べると、異能を使用した結果として受け入れるにはかなりの抵抗があった。
もう少し普通の壊れ方をすると思っていた蒼は、この明らかに普通ではない事がひと目でわかる女をどうしようかと数秒ほど悩み。
「…………帰るか!」
最終的に、蒼は何も見なかったことにした。
何事も、これは些細な事だと思い込むのは得意である。
トラックの端々をぶつけた事を玄野から怒られても、めげずに些細な事だと思い込み続けてきた。
蒼の光らない自制心を把握できた頃には罰ゲームとして鼻から山葵を食わされそうになってギャン泣きした懐かしい記憶も同時に蘇るが、見なかったことにするのは得意と言っても反論は出ないだろう。
ちなみに当時はちゃんと鼻から食べさせられて普通に泣いた。
食べなければ衣食住の安定した場所から叩き出される可能性もあるのだから、蒼からしてみれば当然の選択である。
そんな懐かしい記憶も家に着く頃には窒息する女と共に忘れ、賑やかな階下に耳を傾けること無く寝転がった。
「……張間、悪い奴では無さそうなんだけどな」
蒼への敬意が欠片も感じられない以外に特に欠点のない青年に、大人数を消し飛ばして轢殺してきた己が彼の何を批判できるというのか。
原作というフィルター越しに見るのも良くなかったかと反省をしながら眠りにつき、翌朝のそのそと出勤する。
未だ張間は来ていないようで、ご飯の準備でもするかと子供達に挨拶をしながらキッチンに向かえば、朝の食材を取りに行っていた酉野が神妙な顔で話しかけてきて。
「尋常ではない変死体が街で見つかって強盗なんかよりヤバい異能持ちが存在する可能性があるって事で役所が慌ただしかった。この街もおかしくなってきたな……」
「スゥ──────……そうなんだぁ」
3秒にも及ぶ深呼吸の末、包帯の下で激しく目を泳がせた蒼が喉から捻り出せた言葉はそれだけだった。