怖い気持ちもありますが、書きたいものは書きたいのです。
Chapter1
イギリス西部、郊外の小さな団地。
辺りはすっかり夜のとばりに閉ざされ、日中でさえ閑散としている通りは耳の痛くなるような静寂を湛えている。
周囲を照らすのは申し訳程度に立てられた街灯のみ。
老朽化が進んでいるのだろう、その一本が不定期に点滅を繰り返している。
バチリ、バチッ…
光が瞬き、周囲が一瞬闇に包まれ、かと思えばまた照らされる。
―――と、灯りのもとに一人の男性が現れた。
あまりにも唐突に、自然体で現れたので、もしも目撃者がいたのなら(実際には人っ子一人いないのだが…)映画のコマ落ちかと目を疑うだろう。
男の名はアルバス・ダンブルドア。
ひょろりとした長身の老人で、ゆったりとしたローブの上から紫色のマントを羽織っている。
長身にもかかわらずマントは地面を引き摺りそうなほど長い。
穿いている踵の高いブーツ、そしてしっかりと伸びた背筋、どれか一つが欠けてもマントは地につくだろう。
ダンブルドアはゆっくりと通りを歩く。
歩みに迷いはなく、やがて一軒の民家へと辿りついた。
片手でそっと、背の低い門を押し開く。
ギィ、と軋んだ音を立てて門は老人を迎え入れた。
「…」
その家屋は荒れていた。
かつては美しい花で溢れていたであろう花壇は雑草に覆われ、鬱蒼としている。
建物の壁の塗装は剥げ落ちており、雰囲気をより一層暗い物に変えていた。
ダンブルドアはツイ、と庭に植えられた一本の木に目をやった。
朽ちてはいるが、木に括り付けられていたのは手作りの――――ブランコ。
ドアのノブに手をかけた。錆びついたノブはひんやりと冷たく、人が入る事を拒んでいる―――そう、思わせる。
鍵は掛かっていた。が、いかなる業かダンブルドアがノブを握るとひとりでにかちりと…。
家の中は暗く、常人では目と鼻の先すら視認できないほど。
しかし、ダンブルドアはその青い瞳で屋内を危なげなく見て回る。
ごく普通の一般家庭。
内装だけ見れば何の不思議もない。
だが、外の荒れ具合を目にした者ならば、この内外の食い違いには薄気味悪さを感じずにはいられない。
「やはり、簡単には見つからぬか…」
二十分程かけて全ての部屋を確認したのち、ダンブルドアはポツリと呟いた。
そして、懐に手を入れて一本の木の棒を取り出した。
指揮棒の様な形状をしたソレは多くの者にある物を連想させる。
―――魔法使いの杖―――
ダンブルドアはそれを軽く一振りした。
途端、彼を中心に微風の様なものが発生し、埃を小さく巻き上げつつ、家中を駆け抜けた。
ガコンッ
「キッチンの方かの…」
音のした方向に歩みを進める。
キッチンに入ると、部屋の隅、その床の一部が不自然に浮き上がっていた。
どうやら地下への扉らしい。
上にはキャスターの付いた小さな食器棚が置いてあり、よほど注意して眺めなければ気付く事はできない。
ダンブルドアが杖を向けると、食器棚は自ら横に動き、道を譲った。
もう一度今度は小さく杖を振れば、隠されていた扉がゆっくりと持ち上がり、地下へ向かう暗い口を開く。
地下から生ぬるい風が吹き上がり、ダンブルドアの長いひげを揺らした。
コンッコンッ
木製の階段を下る。穿いているブーツのせいで足音は自然と大きなものとなる。
コンッコンッ
だがあえて忍ばせない。一歩一歩、下る者がいる事を伝えるように下ってゆく。
下った先には木製の扉があった。一見すると普通の、スライド式の鍵が取り付けられた白い扉。
開こうと手を伸ばしたダンブルドアはふと、何かに気付いたように手を止めて…顔を顰めた。
よくよく見れば、鍵は後付けされた物だと分かる。ところどころの荒が目立っていた。
しかし、問題はそこではない。
―――鍵が内側では無く、外側につけられていた。
つまり、この鍵は外からの侵入を妨げるものでは無く…。
「…」
暫く瞑目していたダンブルドアは、今度こそ扉を開いた。
地下室の中は狭かった。元々は物置だったのか、幾つかの家具と小さな本棚が埃をかぶっている。
室内にはカビ臭く、かすかにすえた臭いがする。
「誰?」
そんな場所に少女はいた。
部屋の隅、壁に寄りかかるようにして蹲っている。
ぼさぼさと伸び放題の黒髪は生まれつきなのか一房だけ赤い。
手足は枯れ枝の如く痩せ細っており、少女がまともな食事にありつけていないのは明白。
グリーンの大きな瞳だけが爛々とダンブルドアに向けられている。
「夜分遅くに失礼。フレデリカ・ウィンクルムじゃな?」
ダンブルドアが声をかけると、少女はフイと眼を逸らした。
「今度は何をするの?」
「何?」
ダンブルドアが首をかしげる。
少女は投げやりな様子で脱力し、四肢を投げ出した。
「貴方もエクソシストなんですよね?」
エクソシスト――祓魔師、悪魔祓い。
読んで字の如く人に取り憑いた悪魔を払う行為、それを行う者を指す。
現在でもカトリック教会では洗礼時に行われており、それとは別にも本式の物も未だに存在する。
魔女狩りにも似た過激な行為に発展するケースも確認されているのだが…。
「いや、儂は…」
「葉っぱで叩いても、鞭で叩いても駄目でしたよ?」
「…」
よくよく目を凝らせば、少女の肌には無数の痣が存在していた。
少女は言葉を続ける。感情のたかぶりも見せずただ淡々と、全てを諦めているかのように。
「魔除けの刻印ももう焼き付けてありますし、磔も最長一週間は―――」
「君の母上が亡くなった」
ピタリ、と言葉を紡いでいた口が止まった。
それまで伏せられていたグリーンの瞳が限界まで開かれ、揺れた。
「嘘です」
「本当じゃ」
少女は半笑いで首を振った。
「ああ、新しい治療法ですか?精神的に動揺させて―――」
「…」
「今までもありましたけど、今度は一層悪質ですね。お母さんがしばらく帰ってこないのも―――」
「…」
ダンブルドアは何も言わない。
ただ黙って少女の早口に耳を傾ける。
「ねぇ…なんとか言ってくださいよ。お母さんはどこですか?」
「…」
少女の体が震え始め、老人の言葉を拒絶するように首を振る。
「…一週間前のことになる」
「嘘…嘘」
「儂は―――」
「お母さんッ!!」
少女はダンブルドアを押し退けて地下室を飛び出した。
家の中を探し回っているのだろう、ドタドタと上から駆けまわる音が聞こえる。
「…」
ダンブルドアも彼女に続いて後を追う様に、ゆっくりと地下室を後にした。
「お母さん!!」
少女―――フレデリカは母を探して家の中を駆け回る。
リビング、キッチン、バスルーム、トイレ、寝室―――どこにもいない。
フレデリカが地下室に閉じ込められてから四年が経っていた。
しかし、彼女が迷う事はない。懐かしい記憶を頼りに探す。
父がいつもコーヒーを片手に新聞を読んでいたソファー。
母が集めた多種多様の調味料。
家族の集合写真の飾られた暖炉。
いつも三人で一つのベッドに入った寝室。
昔のままだ。フレデリカは気付いただろうか?
家は変わっていなかった―――否
四年も経っているのだ。父は去り、フレデリカも地下室で暮らしていた。
この家で暮らしていたのは母のみの筈。
なのに、この家だけが何も変わっていない。
まるでこの家の時間だけが止まってしまったかの様に。
「お母さん…お母さん…」
ついにフレデリカは座り込んでしまった。
彼女は母がいなくなってから一週間もの間、水しか口にしていなかった。
その水も、体を拭うタオルを湿らせるために用意された桶一杯のみ。
体力的にも限界だった。
コツンッ
「ひっ」
後ろからの足音にフレデリカは喉を引き攣らせた。
ガバリと振り返ると、先ほどの老人―――ダンブルドアが歩み寄ってきていた。
「来ないで、近寄らないで…」
よろめきながら、相手に背を向けて這う様に距離を取る。
―――あの人の言葉を聞いてはいけない。
体を支えようとする四肢もおぼつかず、不恰好にのたうち回る。
「やめて…来るなぁッ!!!」
パリンッ
フレデリカが一際大きく叫ぶとダンブルドアの頭上、部屋に吊るされていた照明が一つ爆ぜた。
勿論彼女は指一本触れていない。
ダンブルドアの肩に破片が降りかかった。
「あ、あ、あ…あ」
と、少女は砕けた照明を目にした途端、呆然とそれを見上げた。
「ちが、わたしじゃ…」
眼を見開いて顔中を掻き毟る。血が出ても気にも留めない。
「あああああああああああッ!!!」
そして絶叫すると同時にグリンと白目をむき、フレデリカは気を失った。
閉じた目から涙を流しながらフレデリカは呟く。
「お母さん…あなたまで私を置いていくの?」
フレデリカ・ウィンクルム。
彼女はごく普通の
父は医者、母は看護師。よくある職場内結婚だった。
出産時も大きな問題はなく、父が同僚の産婦人科医を散々脅した事が話のタネになる程度。
ただ、生まれた赤ん坊…フレデリカには両親のどちらにも似ていない部分があった。
一房だけ色の違う頭髪、父のブルーや母のこげ茶とは違うグリーンの瞳。
一時は『すわ、不貞の子か!?』と騒ぎになったが、彼女の血液型が父親と同じ非常に珍しい物だと分かれば、夫婦の愛を疑う者はいなくなった。
母から生まれたのは当然であるし、東洋人の母からは肌と髪の色をしっかりと受け継いでいた。
両親は
「目に入れても痛くない」
と公言してはばからない溺愛ぶり。知人からも
「いつ本当に目に入れるかが唯一の心配事だ」
と揶揄され、羨まれる程。
フレデリカ自身も非常に
子供ながらに他者を思いやり、周囲への気配りが出来た。
明るく聡明でいつもニコニコと笑顔を絶やさない子。それが彼女への周囲からの評価。
父はそんな彼女を誇らしく思っていた。
もっとも、母だけは彼女の本心を内に溜め込んでしまいがちな気質を内心心配していたのだが…。
フレデリカが時折悪夢を見て泣きながら飛び起きる事もそれを助長した。
休日には家族で一緒に。
父の手作りのブランコに座って笑うフレデリカ。
後ろからそれを押す父。
時折振り返りつつも、真剣に園芸に取り組む母。
理想の体現、ホームドラマの様な家庭だった。
全てが変わったのはフレデリカの七歳の誕生日。
両親は例年通り大きなホールケーキを用意し、テーブルにはご馳走が並べられていた。
「今日は最高の日になる」
「たくさん食べてね。腕によりをかけたんだから」
フレデリカの母は両親が日本人。
彼女は母、つまりフレデリカの祖母から教わったおかげで料理が上手かった。
「ライバルを出し抜けたのは胃袋を掴んだからよ」
それが母の口癖。
よその家のホームパーティーにお呼ばれした時はいつも、どうして同じ材料を使っているのにこんなに違うのだろうと首を捻り、同時に母を誇らしく思った。
フレデリカにとって母の料理は魔法だった。
ことが起こったのは食後。
テーブルの皿が全て下げられ、ホールケーキが用意される。その最中だった。
燃え移ったのだ。燭台の蝋燭の火が。母を手伝おうとしたフレデリカの服に。
母の悲鳴が響き渡る。
父は水を求めてキッチンへと駆け出そうとした。
だが、父がグラスを手に取ろうとした時にそれは起こった。
「え?」
グラスへと伸ばされた手が空を切った。
とっさに理解できなかった。そう易々と受け入れられるはずもない。
誰が信じられるだろう。
異常はそれだけでは無かった。
ナイフも、フォークも、皿も、飾られた絵画でさえも宙を舞った。
泣きわめくフレデリカを中心に。
その様子はさながら彼女を中心に発生した竜巻。
父は心底恐怖した。
自身の理解の範疇を越えた現象、そしてそれを起こしたフレデリカに。
悪魔の仕業かと思った。娘には何か…そう、異常な何かがあるのではないかと。
無論、一度はその考えを振り払った。
病院で娘の治療を待っている際も否定し続けた。
馬鹿馬鹿しい。そんなはずはない。自分の娘は
だが、それを嘲笑うかのように彼女の不可思議な点が思い起こされる。
髪の色、瞳の色、いつも見る悪夢、両親どちらとも似ていない顔立ち。
翌日、病室でフレデリカに巻かれた包帯を取り替えようとした時が決定的だった。
跡形もなかったのだ。主治医にも一生残ると言われた『やけどの跡』が。
それ以来、父は以前の様にフレデリカに接することが出来なくなっていった。
何もかもが不気味に見えてしまうのだ。
かつては愛しかった笑顔も、出来過ぎとまで思える聡明さも。
何か得体のしれない者の様に思えてならなかった。
ある日、父は消息を絶った。妻と娘を残して。
後から母が調べれば、仕事も辞めていた。
残されたのは母とフレデリカの二人。
幸いと言っていいのか、父は二人に家と財産を残していった。
二人ならば生活していけるだけの金額は十分にあった。
母はフレデリカを捨てなかった。恐ろしいという気持ちもある。
だが、それ以上に母は自分の娘を愛していた。
愛する夫を失い、娘におびえ、そんな自分に自己嫌悪する毎日。
フレデリカの目から見ても、母は日に日に衰弱していった。
けれどフレデリカは何もできなかった。
彼女は理解している。
自分が全ての元凶なのだと。
何より恐ろしかった。父のみならず、母にまで拒絶されることが。
彼女は覚えている。
自分を見る父の目にはっきりと宿った恐怖の色。
そして気づいていた。
時折、自分を見つめる母の目にさえも同じ色が宿っていることに。
フレデリカの災難はまだ続いた。
ある時、外出していた母が帰宅するなりこう言った。
「フレデリカ、分かったの!!貴方には悪魔が憑いていたのよ!!」
はじめ、フレデリカは母が何を言っているのか理解できなかった。
「やっぱり、貴方が悪いんじゃなかった!!大丈夫、悪魔さえいなくなれば、貴方はまとも!!」
そう言って喜ぶ母の目は濁り切っていた。
こちらを向いていても、母はもう私を見ていない。そう思った。
「大丈夫よ。私の可愛いフレデリカ。あなたの事はママがきっと助けてあげる」
そう囁く母に抱きしめられながら、フレデリカは悟る。
母が見ているのは悪魔に取り憑かれた、可愛い
それでもフレデリカは母と一緒になって喜んで見せた。
久しぶりに見たのだ。自分のせいで失わせてしまった母の笑顔を。
曇らせるなんてできなかった。
母はどんどんカルト宗教にのめり込んでいった。
かつての聡明な彼女ならそうはならなかっただろう。
だが、そうするしか、そんなものに縋るしかない程に彼女は追いつめられていた。
生活費のほとんどを教団へのお布施につぎ込み、娘を地下室に閉じ込めた。
悪魔憑きだと周囲に知られれば娘は不幸になるかもしれない。
将来にも、就職にも影響するかもしれない。
バケモノとして差別されるかもしれない。
―――何としても守らねば。私は娘を愛している―――
フレデリカさえ
そうすれば夫だって…。
教団からは度々エクソシストを名乗る者たちがやって来てはフレデリカに様々な事をしていった。
はじめは控えめだった除霊も、母が何も言わないのをいいことにどんどんとエスカレートしていった。
それこそ、他人が見ればおぞましいと目を背けるような事にまで。
母は止めなかった。
悲鳴が聞こえても、許しを請う声が聞こえても、それは彼女のイトシイムスメのものではなく聖なる儀式によって苦しむ悪魔の断末魔なのだから。
故に母は儀式の度にエクソシストに感謝を述べ、謝礼を払う。
そしてボロボロになった娘を抱きしめて囁くのだ。
『アイシテイルワ、フレデリカ』と―――
当然の如く、二人の生活は困窮していった。
最初の一年で父の財産は尽きた。
知人に片っ端から金を無心し、あてが無くなれば消費者金融に。
それでも足りなければ何でも売った。
お気に入りの服を売った。車を売った。体を売った。
唯一、家の中には手をつけなかった。
そこは彼女にとって最も幸せだった頃の象徴。
全てが上手くいったときに、また三人で暮らす場所。
毎日掃除も欠かさなかった。
フレデリカは地下室から出してもらえない。
食事は母が運び、体はたまに濡れタオルで拭う。
母は徹底していた。
一瞬でも気を抜けば、悪魔が娘を乗っ取り連れ去るかもしれなかったから。
そんな日々が四年間続いた。
フレデリカは傷だらけで痩せ細り、体からは異臭を放っていた。
母も昔の面影を無くしていた。
顔はやつれ、眼は血走り、白髪が増えた。
誰もが母の年齢を聞けば驚く。老け込み過ぎだと。
その日も母はいつもの様に出かけて…帰ってこなかった。
「お母さん、遅いな…」
フレデリカは待ち続ける。
一週間後、自身も忘れていた誕生日。
一人の老人がやってくるまで――――――ずっと。