タイトルにある通り、先生をこれでもかと曇らせます。
ハッピーエンドなんてありません。
それでもいい、という方だけお通り下さい。
警告はしたぞ?
”おはよう。今日はよろしくね、ミツネ、ヨツハ。”
雲が疎らに浮かぶ、良く晴れた日。平日のシャーレビル。
その執務室に居るのは、1人の男と、2人の少女。
先生と呼ばれる男が作った制度、当番に選ばれた2人の少女が居た。
クリップボードを抱えた優しげな表情の男、先生は、少女たちに軽く手を振りながら挨拶をする。
「はい!よろしくお願いします!」
1人は、少し小柄で、丸眼鏡をかけた、愛嬌にあふれる少女。
名前は、ミツネ。
「うん、よろしく。今日は何をするの?」
もう1人は、優しい瞳をした、聡明そうな少女だった。
名前は、ヨツハ。
この2人は、親友だった。
本来、当番に選ばれたのはミツネだけだったのだが、ヨツハがミツネと先生に頼み込み、自分を臨時当番としてねじ込んだのだ。
”今日は……。というより、今日もかな。書類整理をお願いしていいかな?”
「分かりました!」
「任せて。」
今日は、普段と何も変わらない日。
先生にとって、大量の書類に囲まれながら仕事をする日であり、当番にとって、書類に目を回す先生を手助けする日。
先生は自分の机に積まれている紙の山の横に、当番の為に仕分けられた書類から何枚か抜き取り、2人へと手渡す。
2人の少女は、空いている机の前に腰掛け、いつも通りに、書類と格闘し始めた。
「そういえば、先生。娘さんは元気?」
仕事を始めてから10分ほどか、ヨツハはふとそんな質問を口にした。
世間話の切り出しとしては、ごく一般的なものだろう。
”えっ、娘?”
当人に、娘はおろか、伴侶すらいない事を除いて。
「えっ、娘!?お子さん居るんですか、先生!?」
”まさか!子供なんていないし、そもそも結婚もしてないよ!”
目をパチクリさせながら、先生に詰め寄ろうとするミツネを前に、先生も思わず立ち上がり、両手を大きく振りながら否定する。
密かに思いを寄せる、頼りがいのある大人に、娘がいた。
事実がどうあれ、ミツネの気を昂らせるには、十分な言葉だった。
「そう?いてもおかしくないと思ってたんだけど。」
”そうかもしれないけど……!少なくとも今は、結婚する気も、子供を持つ気もないよ。”
”生徒のみんなが、教え子で家族、みたいなものだからね。”
先生のこの言葉は、本心だった。
事実この男は、生徒の為であるならば、自らの命を投げ打つことさえいとわない。
思い人の答えに、胸をなでおろしたミツネは、事の発端であるヨツハに顔を向ける。
「でっ、ですよね!ヨッちゃん、冗談が過ぎるよ……!」
「ごめんなさい、つい。」
「でも、本当に覚えてないの?あなたの体は、そうは言ってないみたいだけど。」
「ヨッちゃん!あんまり先生を困らせちゃ――!」
「先生、大丈夫ですか!?鼻血が……!」
ヨツハは先生の顔を見つめながら、2本指で鼻の下を軽く叩いた。
ヨツハはイタズラ好きだ。先生の事をからかっているだけだろう。
親友の少女はそう判断したものの、それは誤りであったとすぐに理解する。
男の鼻の穴からは、赤黒い滴が2つ垂れ下がっていた。
”えっ……?”
ミツネから手渡されたティッシュで鼻を拭い、それに付いた己の血を見た事で、先生はようやく、自分が鼻血を流している事を理解した。
同時に、頭がかち割れると錯覚するほどの激しい頭痛と、存在しないはず記憶が襲い来る。
”いや……。いや、まさか……!私に、娘なんて、いる訳……!”
1つの場所に、2つの記憶。
普通であれば、決して起こりえない事。
頭を押さえ、鼻血を垂れ流しながら、ゆっくりと後ずさりを始める男。
ミツネは異様な様子の男を心配し、胸元を軽く叩き、何度も名前を呼ぶことで、意識をこの場へ引き戻そうとする。
だが程なくして、男は糸が切れたように、地面へと倒れた。
気絶した男の横で、涙を滲ませながら何度も声を掛ける少女を余所に、ヨツハは椅子からそっと立ち上がった。
――――――――――――――――――――――――――――
”ヨツハ……。ヨツハ……。”
ソファーに横たわり、何度も少女の名前を呼ぶ男。
ソファーの横で、男の肩を軽く揺する少女。
良く晴れた、平日の執務室。
そこには、1人の男と、1人の少女がいた。
「先生、目は覚めた?」
”ヨツハ……。うん。もう、大丈夫……。ミツネは?”
「冷たいものを買いに行かせたの。しばらく帰ってこないわ。」
男は体をゆっくりと起こし、目じりに溜まっていた涙を、袖で拭い取る。
椅子に座っている少女は、そんな男の様子を、優しげな瞳で、だが悲しげな表情で見つめていた。
訳はどうあれ、自分は生徒の目の前で倒れた。
己の不甲斐なさを猛省する先生は、努めて明るい笑顔を少女に向ける。
”そっか……。まさか、君たちの目の前で倒れちゃうなんて。驚かせちゃったよね。”
「仕方無いわよ。少し無理矢理、思い出させたから。」
立ち上がろうとする先生を、ヨツハは肩に手を添え、そっと制止する。
僅かに逡巡した後、少女に従った先生だが、先程までの笑顔は崩れている。
彼女の口から発せられた言葉、その違和感に、胸騒ぎを覚えていたから。
”思い出させた?何を?”
「自分の事を。」
「あなたが、父親だったって事を。」
”一体、何を言ってるの?私に娘なんて……。”
”うぅ……!そう、私に、娘なんていない……!そのはず、なのに……!”
再び先生を襲う、激しい頭痛と、存在しないはずの記憶。
自分に娘などいない。伴侶すらいないのだから。
しかし、確かに自分には娘がいた。娘の母である、伴侶もいたのだ。
相反する、2つの記憶。どちらも紛れもなく、己の記憶だった。
「ほら、また鼻血が出てる……。」
「それは拒絶反応。古い記憶が、新しい記憶を突き破ろうとする時の、脳の防衛機能よ。」
「自分に苦痛を与えて、それを思い出さない様にするの。そうした方が、都合がいいから。」
差し出されたポケットティッシュから1枚引き抜き、先生は自分の鼻へと当てる。
ティッシュをポケットに戻したヨツハは立ち上がり、ゴミ箱を掴んで、再び先生へと差し出した。
先生は血を吸い取ったティッシュを捨てて、ゴミ箱を戻そうとするヨツハに問いかけながら立ち上がる。
”古い、記憶?一体いつの?私はまだ、キヴォトスに来てから――。”
「そう。今のあなたは結婚してない。子供もいない。」
「でも、昔は違う。」
「こっちに来て。見せたいものがあるの。」
”その前に、教えて。君は、何者なの?”
仮眠室に、そこに繋がるドアに向かおうとするヨツハを、たまらず先生は引き留める。
彼女が語る事を、先生は理解しきれていなかった。
ただ、確信と疑念が1つずつ浮かんでいた。
私は、彼女を知っている。生徒としてではなく、別の誰かとして。
いつ、どこで、どうやって出会った?彼女は何者だ?
いつの間にか、右手に鍵を握っていたヨツハは、先生の方へ振り返った。
「……それも、思い出して。」
「あなたは、外からキヴォトスに渡った方法を、覚えてる?きっと、覚えてないのでしょうけど。」
”いや、覚えてるよ!確か、リンちゃんが手配した船で――。”
”……あれ?リンちゃんと、後、誰だっけ……?あと1人、居たはずなのに……。”
”いや、そもそも船だったっけ……?電車、だったような……。”
再び襲い掛かる、頭痛と記憶。
私はどうやって、このキヴォトスにたどり着いた?
船?車?電車?飛行機?徒歩?
移動手段は、誰が手配した?
リンちゃん?アユム?モモカ?連邦生徒会長?それとも自分?
全ての記憶が正しく、同時に間違っている。
混乱し、吐き気を催す先生の肩を揺らし、ヨツハは彼の意識を現実へと引き戻す。
「ほらね?覚えてないのよ。というより、記憶を作れなかったの。」
「あなたは突然キヴォトスに現れた。あなた自身も、訳も分からないまま。」
”一体、どうなってるの……?私は、一体……。”
「不思議じゃ無かった?“連邦捜査部の特別顧問”という肩書を、急に与えられて、それを疑いもせず受け入れた自分が。」
”う、あっ……!そうだ……!どうして、私はいきなり……!”
”そもそも、戦術指揮だってそうだ……!どうやって、どこで……!”
思い返せば、不自然な事ばかりだ。
超法規的捜査機関の長官に、いきなりキヴォトスの外から来た大人をあてがうなど、明らかに普通じゃない。
そうするように指示した、連邦生徒会長も。それを受け入れた私も。
そもそも、私はどこで戦術指揮を教わった?
士官学校を出たどころか、そういった道を志したことすらない。
頭痛に頭を押さえ、鼻血を垂れ流す先生。
ヨツハは先生の頬を支えて、ティシュで鼻血を優しく拭いながら、言葉を続けた。
「答えは、とても単純よ。」
「世界が、運命が、そうあるべきと望んだから。」
「始まりが同じなら、結末もいつも同じ。あなたも、私達も、状況が同じなら、同じ選択をするの。」
同じ状況、同じ選択。
ヨツハの口から何でもないかのように放たれたこの言葉が、頭から離れない。
決して感銘を受けたからではない。既に知っているからだ。
誰の言葉か、いつ言われたのか、それすら思い出せない。
先生は早くも、自分の記憶を信用できなくなっていた。
それを知ってか知らずか、ヨツハは右手に握った鍵を仮眠室のドアに差しこみ、反時計回りにカチンと回す。
「ドアを開けて。この先で、全て思い出して。」
左手で促すヨツハに従い、先生は仮眠室のドアノブに手をかける。
鍵穴がないはずの、ドアノブに。
これを開けても、きっと仮眠室に繋がっているだけだ。
そんな当たり前など、通用するものか。
普段通りであって欲しいという願望と、そうはならないという異様な確信。
その両方を心の奥底へしまい込み、先生はゆっくりとドアを開けた。
”……灯台?”
まず目に入ったのは、灯台だった。
船を導くための光が、てっぺんで煌々と輝いている。
目線を落とすと、灯台に続く桟橋が、自分たちの方まで伸びている。
そこまで観察して、先生はようやく、自分が桟橋の上に立っている事を理解した。
周りは海に囲まれ、陸はおろか、他の船すら見えない。
海の真ん中にポツンとたたずむ灯台など、ありえない。
後ろから先生に付いてきたヨツハが、その疑問に答える。
「いいえ、扉よ。ありとあらゆる、可能性の扉。」
「この扉を開ければ、好きな世界に行けるの。普段は覗き窓としてしか使ってないけど、今日は、扉を開ける。」
空を見上げれば、灯台の光と同じ色をした無数の星々が、煌々と輝いていた。
ふと後ろを見れば、入ったはずのドアが、跡形も無く消えていた。
ここは普通の場所ではない。ともすれば、物理法則すら通用しない場所。
”それじゃあ、君の未来が見えるって噂、こういう事だったんだね。無数の可能性を、この世に居ながら、見る事が出来る……。”
ヨツハには、有名な噂があった。
彼女が占いをすると、未来が見えるという。
これが、彼女の予言のタネ。
あらゆる可能性を、あらゆる世界を見る事が出来るのであれば、未来はおろか、過去を見る事すら出来るのだろう。
沢山の扉が浮かぶ空を見上げ、あっけに取られる先生を余所に、ヨツハは灯台に向かって歩き始める。
「私はずっと、1つの可能性を探していたの。未来を見ていたのは、ある意味では、その副産物。」
「でも、結局見つからなかった。始まりから、間違っていたから。」
「だから、運命を変えるの。あなたと一緒に。」
”待って!運命を変えるって、それってかなり危ないんじゃ……!”
バタフライエフェクト。先生の脳裏にその単語がよぎる。
誰かが小石を蹴飛ばせば、地球の裏側で戦争が起きる。
本当に運命を変える事が出来るなら、そんな荒唐無稽な事すら起きかねない。
不安を思わず口にした先生を前に、ヨツハは真剣な表情でそれを否定する。
「本来は、そうね。でもこの運命を変えたところで、大きな影響にはならないわ。少なくとも、キヴォトスにとっては。」
”どうして分かるの!?”
「見えてるから。」
彼女の言葉は、混じり気の無い真実だった。
彼女の口調から、それを把握していた先生だったが、彼女の言葉を信じ切れずにいた。
階段を上り、灯台の扉の前に立ったヨツハは、右手のカギを差し込み、カチンと開けた。
「さあ、ドアを開けて。」
”どこに繋がってるの?”
「あなたの過去。思い出さなきゃいけないものに。」
先生を手で促したヨツハの目を、彼はつい見つめてしまう。
己の過去、という事は、キヴォトスに来る前の事だろう。
だが、それを知るべきではない。今見た事も含めて、全て忘れるべきだ。
本能がガンガンと警鐘を鳴らすが、既に後戻りはできない。
先生はドアに手の平を当て、力を込めて押し開いた。
「新郎よ、あなたは病めるときも、健やかなるときも、妻を愛することを誓いますか?」
「”はい、誓います。”」
「新婦よ、あなたは病めるときも、健やかなるときも、夫を愛することを誓いますか?」
「誓います。」
「それでは、誓いの口づけを。」
ステンドグラスの天使に照らされ、口づけを交わす新たな夫婦。
2人を神の元に祝福せんとする神父と、門出を拍手で祝う来賓たち。
新郎が差し出した手に、新婦は己の手を添え、協会の扉へと歩き出した。
だが2人は、己の目線の先、協会の入り口にいるはずの、先生とヨツハに気づいていない。
先生は、2人の顔に見覚えがあった。
”あれは、私……?”
「そう、あなたよ。キヴォトスに来る前のね。」
純白のドレスを纏う新婦は、己の妻。
タキシードを纏った新郎は、己自身だったのだ。
”でも、こうして結婚してたら、覚えてるはず……。あんなにきれいな花嫁と、結婚してたら……。”
2人の愛の門出には、悲壮な色など1つもない。
これから、幸福な人生が待っている。2人ともそう信じている顔だった。
「そうね。新郎はあなたで、彼女はあなたの妻、だった。」
「今のあなたにとって、忌々しい記憶のはず。思い出した?」
ヨツハの言う通り、先生は今すぐここから逃げ出したかった。
新婦にも、新郎にも、これ以上近づきたくなかった。
無意識に後ずさりを始めた先生を、ヨツハはただ見つめる。
”どうして……。知らないはずなのに、これ以上見たくない……!”
「……次に行きましょ。」
2人から追い立てられるように、先生とヨツハは教会の扉を開ける。
扉をくぐった瞬間、拍手の音は消え、微かに赤ん坊の声が聞こえてくる。
「”頼む、電話に出てくれ……!こんな時にどこに行ったんだ……!”」
華やかな協会から一転し、先生とヨツハは、ベビー用品が地面に広がった集合住宅の1室にいた。
そこでは、ベビーベッドで横たわる赤ん坊の前で、男が誰かに電話を掛けようとしていた。
「”あっ……!ああ、ごめんよ。ちょっと怖い顔してたかな。”」
「”大丈夫。ママはすぐ帰ってくるよ。散歩に行ってるだけからね。大丈夫、大丈夫……。”」
険しい顔でベッドの前で行ったり来たりを繰り返す男を、赤ん坊が喃語で呼び止める。
男はすぐに顔を優しい表情へと変え、未だ首の座らぬ赤ん坊を、慣れた手つきでそっと抱き上げあやし始めた。
先生は、妻に置き去りにされた男と娘を、呆然と見つめていた。
”子供がいたんだ……。あの子は、私の子……。”
「そう、あなたの子。あなたの娘。でも、母の娘では無かった。彼女は認めなかったのよ。」
”そうだ……。彼女は、この子を置いて……。私は、僕はともかく、この子を……!”
2人が話している間に、男は抱っこひもを用意し、赤ん坊を抱えてミルクを作り始めた。
その間、赤ん坊はぐずることも無く、大人しく父に抱かれていた。
「理由は単純。娘は私生児、不義の子だったから。娘をあなたに押し付けて、母親は、娘の生物学的な父親の所に逃げたのよ。」
「あなたはそれを知った後も、娘を自分の子として、愛し続けた。そうよね。」
”ああ、そうだ……。生まれがどうあれ、子供に罪が、ある訳がない……。”
”あるのは、大人たちの罪だけだ……!僕たちの罪に、この子を、巻き込んでいい理由なんてない……。”
妻に逃げられた時から、男は娘と己に血の繋がりが無い事を、薄っすらと察していた。
赤ん坊にミルクを与える男の後ろで、先生は流れ出す涙を、目を押さえて止めようとしていた。
「……良き父親であろうとしたのね。だから、娘からも愛された。」
”どうして分かるの……?感情も見えるの?”
「……ええ。とにかく、分かるの。次に進む?」
僅かに目を伏せてから、そう答えたヨツハ。
微かな違和感を覚えた先生だったが、あえて流れに身を任せ、全てを思い出すことにした。
”うん。今度は、どこへ?”
「いつ、と聞けばいいのに。でもそうね、外に出るのよ。」
集合住宅のドアをくぐった先は、月明りと街灯に照らされる、橋の上だった。
街灯の塗装は粉を吹いて白っぽくなっており、タイルの隙間はコケで埋められている。
橋の両端は黒い靄が掛かっていて、何も見えない。
誰かや車が通るような気配もない。
今ここに居るのは、先生とヨツハだけだった。
”ここは、橋?”
「そして、運命の分岐路でもある。」
「思い出して。あなたがここで、何をしたのかを。それが、どんなに苦しい記憶だったとしても。」
そう語るヨツハの顔は、少しだけ悲しげなそれへと変わっていた。
この時点で、厳密にはここが橋だと認識した時点で、先生の頭にはいくつもの警鐘が鳴り響いていた。
決して思い出すな、思い出すべきではない、と。
”思い出すって、言われても……。こんな何もない所で、私は何をしようと……!”
「……橋の下を見て。何が見える?」
かぶりを振り、足を震わせる先生の手を取り、ヨツハは彼を橋の手すりまでそっと引っ張った。
何度か深呼吸をした後に、意を決した先生は、柵に手をかけ、橋の下を覗き込む。
その下には、僅かに水か流れる音と、暗闇しか広がっていない。
”……何も。川が流れてるんだろうけど、きっと凄く浅い。ここから落ちたら、間違いなく――”
”……あっ。あ、あぁぁ、あぁああぁあぁぁ……!!”
「思い出したのね……。」
男は、思い出した。思い出してしまった。
己の過去を。その終止符を、どう打ったのかを。
男はボロボロと涙を流しながら、背中側のガードレールへと、後ずさりする。
ヨツハはすすり泣く男の隣に腰掛け、ただ静かに真実を告げる。
”そうだ……!僕はここから、飛び降りた……!あの子が……!僕は、あの子を……!!”
「娘を不慮の事故で亡くしたあなたは、生きる意味を失って、ここから飛び降りた。」
「でも、仕方なかったのよ。あなたが娘を、守れなかったのは。」
”それでも……!あの子はまだ、10歳にもなって無かったんだ……!”
”親が子供より長生きしていい理由なんか無い!!”
男を慰めようとするヨツハに顔を向けようともせず、男は、記憶と感情の濁流にのみ込まれていた。
ヨツハは、そんな男の肩に手を伸ばそうとして、そして止める。
代わりに、男の記憶の旅、その導きを続けることにした。
「……どうして守れなかったのか、それは思い出した?」
”それはっ!それは……!”
先生はやっとヨツハの顔を見つめるが、すぐに目線を下ろした。
ただ、思い出せないのだ。原因がある事はハッキリしている。
だが、その内容に、酷い靄が掛かっている。
先生の反応を見越していたヨツハは、無理に思い出させようとはせず、右手にカギを握る。
「無理も無いわね。特に思い出したくない事だろうから。」
「準備が出来たら、ドアを開けるわ。」
そう言い残して立ち上がったヨツハを、先生は思わず引き留めた。
泣きはらした瞳で自分を見つめる先生を、ヨツハもまた、ただ見つめていた。
”1つ、聞いてもいい?”
「何?」
”君は、どうして私の過去を見せてくるの?誰の運命を、変えたいの?”
「……いずれ分かるわ。今はただ、思い出すことに集中して。」
それを聞かれたとたん、先生から目線を逸らし、何もない空中にカギを挿したヨツハ。
彼女がカギを回した瞬間、何も無かったはずの場所に、木製の白いドアが現れる。
答えが知りたいなら、先に進むしかない。
そう理解せざるを得なかった先生は、涙をぬぐい、両膝を支えに立ち上がった。
”……そっか。もう、大丈夫。次に行こう。”
先生は、ヨツハが作ったドアに手をかける。
同時に、彼女が自分の手を先生の手の上に重ねてきた。
彼女の表情は、これから待ち受けるものを示唆するかのように、深い嘆きに満ちていた。
「開ける前に、私からも言わせて。」
「これから何を見たとしても、それを変えようとしてはダメ。それだけ、忘れないで。」
そう言い切ると、ヨツハはそっと手を離した。
早鐘を打つ心臓を、深呼吸で落ち着かせ、先生はドアノブをひねる。
ドアを押し始めた瞬間から、相手を罵る女の怒号と、父を案じる少女の声が漏れ聞こえてくる。
先生達はドアをくぐると、再び集合住宅の1室へと戻っていた。
先程と違うのは、娘の為の品々が、小学生向けのそれへと変わっている事。
生活感と表現できた散らかり具合が、惨状と表現して差し支えない状態へと変わっている事。
そして、包丁を握りしめた女が、男と娘に詰め寄らんとしている事だ。
「その子を返しなさい!!私の子よ!!」
「”もう違う!!君はこの子を捨てたんだ……!この子の母親なんかじゃない!!”」
「パパ!!その人誰なの!?なんで喧嘩してるの!?」
「”大丈夫だよ、パパが絶対守るからね!”」
「いいから、渡しなさい……!渡せッ!!!」
切りかかってきた女の手元を素早く押さえ、男は即座に取っ組み合いの姿勢へ持っていく。
娘だけは、決して傷つけさせない。願わくば、凶刃を自分たちに向け振り回す、かつての妻も。
女はそんな事意に介さじと、掴んできた腕を叩き、引っかき、引き剥がそうとする。
父は誰と喧嘩をしているのか、それすら分からぬ娘は、父の後ろに身を隠しながらも、彼を案じていた。
当然先生は、今すぐに諍いを止めさせるために駆け出そうとした。
だがそれを、即座にヨツハが押し留める。
「ダメ!言ったでしょ、変えちゃダメなのよ!」
”あのまま続けさせるのか!?あの子の目の前で!!”
「とにかくダメ!!これはもう起きた事なの!!」
2人が言い争いをしている間も、取っ組み合いは続く。
男は女の手を押さえたまま、壁に押し付けようと押し込み始めた。
先生はヨツハから受けた警告など忘れ、彼女の肩を掴んで、力ずくで引き剥がそうとする。
その瞬間、女は椅子の足につまづき、男はその上に覆いかぶさるように倒れた。
女の抵抗はピタリと止まった。
心臓に深く突き立てられた、包丁によって。
「パパ……?」
「”見るんじゃない!!”」
「”――ッ!えっと、頭を打っちゃったみたいだ。今、この人の手当てをするから、隣の部屋に行きなさい。ねっ?”」
「パパ、私も――」
「”ほら行って!良い子だから……!”」
娘は父の言葉に従って、隣の部屋へ逃げるように駆け込んだ。
男は僅かに逡巡した後、脱衣所からタオルを持ち出し、女の胸から包丁を引き抜いた。
一縷の望みをかけ、傷口を押さえて止血しようとした。
先生は、それがどれだけ無意味な行為かを知っていた。
ヨツハの両肩から手を離し、力なく壁にもたれかかる。
「大丈夫?そんなわけ、無いでしょうけど……。」
”……僕が、あの子の母親を、殺した。”
「あの子にとって、彼女は母親では無かった。あなたは、娘を攫おうとする女から、娘を守ったのよ。」
”どんな理由があったって、子供から親を、奪うなんて……!”
「あの子の親は、あなただけだったの!どれほど血が濃く繋がっていようが、しょせん他人よ!」
「あなたとあの子は、確かに血は繋がっていない。それでも、親子だったのよ。」
「あの子も、そう思ってる。」
虚ろな目で、涙すら流さず、ブツブツと己の罪を嘆く男。
ヨツハは彼の肩を掴み、強く揺らして、あの行いは罪ではないと説く。
それでも、男の目に光が戻ることは無く、僅かに開かれている、娘が逃げ込んだ部屋のドアに顔を向けた。
”……このままじゃ、この子は、人殺しの子だ。何とか、しないと。”
「この時のあなたも、同じことを思ったのね。すぐに救急と警察を呼んで、自首したの。」
「あの子に、まともな人生を送らせてやって欲しいと、あの子を養護施設に入れる事を、お願いした上で。」
「母親は治療の甲斐なく死亡し、あなたは過失致死で裁判にかけられた。幸い、情緒酌量の余地は、十二分にあった。」
事実、男は左手で傷口を押さえながら、右手で携帯電話を取り出し、救急に電話をかけていた。
オペレーターに女の容態を伝えると同時に、彼女は自分が刺したとも告げている。
”それでも、あの子は……。人が、殺されるところを、間近で、見てしまった……!”
「それを、ずっと気にしていたのでしょう?だからあなたは、あの子が入った施設に、通い詰めた。」
「他の子や、職員へのプレゼントを、たくさん抱えて。」
”そうだ……。そうだったね……。あしながおじさん、なんて呼ばれてたっけ……。”
”でも、結局あの子は、守れなかった……!通学中に、事故で……!”
”僕は、聖人なんかじゃない……!ただの人殺しだ!!”
男はただ、そう叫ぶ。誰かに聞かせるためではなく、己をそう定義するために。
そんな男からヨツハは目を逸らし、倒れた女の横を通って、ドアに近づく。
道中、こう呟きながら。
「……人殺しである事と、よき父親である事は、両立するの。」
「美しい女と、傲慢な母が、両立するように。」
”……もう、行こう。ここに居たくない……。”
「ええ、行きましょう。次が最後よ。」
ようやく壁から離れた先生を連れて、ヨツハはドアをくぐる。
妻の名を何度も呼ぶ男と、それをドアの隙間からじっと見つめる娘を、置き去りにしながら。
目線を地面に向けたまま、フラフラと歩く先生。
自分が再び月明りと街灯に照らされた時、彼は顔を上げて、辺りを見回した。
”……ここは、また橋?”
両端は黒い靄が掛かり、車や人が通る気配すらない、自身が身を投げた、あの橋だった。
今度は、あの時より何年か前。
街灯の塗装が粉を吹いておらず、地面のコケもまばらだった。
「言ったでしょう?ここが、運命の分岐点なの。」
「私達の、運命の。」
”私達?君は、誰なの?私の、僕の、なんなの?”
泣き出しそうな顔でヨツハを見つめる先生だが、彼女は先生の疑問に答えようとはしない。
代わりに、憂い気な表情で、抱っこひもで赤ん坊を抱え、反対側の歩道を走る男を見つめた。
「……見て。あなたと、あなたの娘。いつの事か、覚えてる?」
”もちろん……。あの子が高熱を出して、私は病院に行くタクシーを待てなかった。”
”だから、あの子を抱えて、病院に走ったんだ。これは、丁度その時の……。”
「……立ち止まった。この時、あなたは何を考えていたの?」
赤ん坊の頭を支え、荒くなった息を整ようとする男。
前かがみになった姿勢を、数秒ほどで伸ばし、また走り出そうと前を向いた。
だが、男の足は動こうとしない。
代わりに、首をゆっくりと右に回し、橋の外を、その柵の先にある暗闇を見つめていた。
”…………何でもないよ。息を、整えてただけ。”
「何でもないわけ無い。覚えてるんでしょ?なら答えて。」
「あなたと、あの子のために。」
ヨツハの口調が、初めて先生を責め立てるそれへと変わった。
彼女から目を逸らし口をつぐむ彼を、ヨツハは静かに睨みつける。
しばらく沈黙していた先生だったが、やがてぽつぽつと語り始めた。
”……この子と一緒に、飛び降りようと思ったんだ。本当に、ほんの、一瞬だけ。”
”妻が、僕とこの子を置いて、消えた直後だったから、どうしていいか分からなかったんだ。”
”でもそれは、父親のやる事じゃない。この子を、巻き込む訳には、行かないんだ。”
語っている間、彼は胸の前で、いない赤ん坊を抱きしめていた。
我が子を慈しむ父親の目で、胸の中の赤ん坊と、目を合わせていた。
我が子に許しを請うように語る彼の前で、ヨツハは彼を睨み続けている。
反対側の歩道に居た男も、病院に向けて再び走り出している。
「でもあなたは、そんな考えが一瞬でも浮かんだことが、許せなかったんでしょ?」
「だから死に場所に、この橋を選んだ。あの子へ償うためじゃなくて、自分を罰するために。」
”そうだね……。ハハ、何でもお見通しか……。”
”そもそも僕が、子供を持とうと思ったことが、間違いだったのかもね。そうすれば、あの子は長生きできたかもしれない。”
自虐的に笑う彼はそう言い放つと、胸の中の赤ん坊を、無造作に手放した。
それでもヨツハは表情を変えず、彼の傲慢な考えをはっきりと否定する。
「いいえ、それは違うわ。むしろ、子供が生まれるべきでは無かったの。」
「あなたが子供を得て、父親になった時、あなたの運命はそこから狂い始める。」
「妻の性格、血の繋がり、あなたの経歴、どれも関係なく。ただ、娘が生まれた事を、きっかけに。」
「私は、あなたの運命の因果を、終わらせに来たの。」
”……ねえ。まさか、君は――”
「思い出して。あなたの娘の名前を。その由来を。」
「あの子の名前は、あなたがつけた。覚えてるでしょ?」
先生は無意識に、ヨツハに手を伸ばそうとした。
それを拒絶するように、彼女はさらに問いかける。
彼女は表情を変えず、だがその眼は僅かに潤んでいた。
”もちろん。四葉のクローバーを見つけるみたいな、小さな奇跡に、沢山巡り合って欲しい。だから――”
”……ヨツハ。”
娘の名前を呼んだ瞬間、男の脳裏に蘇る、幸福な記憶。
ヨツハが初めて、「パパ」と呼んでくれた。
ヨツハが初めて、つかまり立ちをした。
ヨツハが初めて、足し算が出来た。
ヨツハが初めて、友達を連れてきた。
ヨツハが、この世に生まれてくれた。
ヨツハが、自分を父にしてくれた。
言葉に出来ない、する必要もない喜びが、涙としてあふれ出す。
「……やっと思い出したのね、父さん。」
ヨツハの、父とよく似た優しい瞳から、大粒の涙がこぼれ出す。
父は両腕を大きく広げ、娘を抱きしめようと歩き出す。
”ヨツハ……。ヨツハ、ヨツハ……!こんなに大きくなって……!”
「……やめて。お願い。」
だがそれは、寸での所で止められた。
他でもないヨツハが、父の胸元に手を置いて、止めたのだ。
彼女は涙を隠すように、うつむいて目を合わせようとしない。
”お願いだよ、ヨツハ……!やっとこうして会えたんだから……!”
「だからなの!これから、父さんが辛くなる……。」
”どうして……。お前の為だったら、僕はどんな苦痛だって受け入れるよ。それなのに……。”
ヨツハを思い、父は1歩距離を取るが、同時に胸騒ぎが彼の思考をかき回す。
彼女が顔を上げた時、聡明そうな顔つきは、深い嘆きと絶望に歪んていた。
「……我が子を殺せと、言われたら?」
”――え。”
「言ったでしょ。父さんの運命は、私が生まれてから狂い始めるの。」
「それを止めるには、私が生まれなかったことに、あるいは、私が愛されなかったことにしなきゃいけないの。」
胸に手を当て、滔々と語る娘の顔は、絶望に歪んでいるが、同時に決意に満ちていた。
彼女のその様子から、彼は娘が何をしようとしているのか、理解してしまった。
それだけは決して選ばせまいと、声を荒げて我が子に詰め寄る。
”構うもんか!!僕が苦しむだけで、お前が幸せに生きてくれるなら、それでいいじゃないか!!”
「分からないの!?父さんが苦しめば、私も苦しむことになる!!父さんが死ねば、私も1年以内に死ぬの!!」
「互いに苦しみ続けて、最後には2人とも死ぬの!!私が20歳になるまで生きられる可能性すら無かったの!!」
「どの可能性も、そうなのよ!!私達が2人で生きられる可能性は、1つも無いの!!!」
”分からないじゃないか!!!1万個の中に無ければ、10万個の可能性を探そう!!父さんと、一緒に!!!”
「無かったの!!!何百万、何千万の可能性を探った……!でも、無かったの!!!」
「昔の場所にも、キヴォトスにも、1つも無いの……!」
ヨツハの語りは、全て事実だった。
2人の運命の糸は、非常に強く繋がっている。
彼らの過去においても、このキヴォトスにおいても。
あらゆる可能性で、先生とヨツハは出会い、ヨツハの手引きで全てを思い出し、父と娘として再会する。
だからこそ、世界はそれを許さない。
父が、“先生”であるために。
娘が、“生徒”であるために。
”ウソだ……。絶対にウソだ……!そんな事、信じられるか!!”
娘は何一つ、嘘を吐いていない。父は直感で、そう理解する。
受け入れ難い事実を前に、彼は頭を抱え、ガードレールまで後ずさりする。
対してヨツハは、流れる涙をぬぐうことなく、1つ深呼吸をした後、親子がやるべきことを語り始める。
「……始まりが同じなら、結末も同じ。結末を変えたければ、始まりを変えるしかないの。」
「その始まりは、あなたが私を愛してくれた事。だから、それを否定しなきゃいけないの。」
”……ダメだ。ダメだダメだダメだ!!!そんな事させられるか!!!”
彼女が何を言い出すのか、再び直感で理解した父は、娘に一気に詰めよって両肩を掴む。
娘は両肩に手を重ね、そのまま父と後ろへ下がり、橋の柵へ背中を付ける。
覚悟で満ちた彼女の瞳が、父の目を射抜いていた。
「父さん。私を、この橋から落として。」
絆が断ち切られる可能性。それが最も高かったのが、今この時の、この橋の上。
高熱に浮かされる娘を抱え、父が病院へ駆け込もうとしていた時。
心身ともに疲れ果てた父が、娘と心中しようと、一瞬だけ考えた場所。
”ダメだ!!誰がさせるか!!絶対にやらないぞ!!”
”お前は、僕の娘だ!!やっとまた会えたのに、お前を殺せっていうのか!?!?”
目の前の娘を、父は有無を言わさず抱きしめる。
娘を2度と手放すまいと。今度こそ、2人で生きるのだと。
強く、キツく、だが壊れない様に自分を抱きしめる父を、娘はそっと抱き返した。
「それしかないの。父さんが死ねば、私も1年以内に死ぬ。」
「でも、私が消えれば、父さんは生きられるの。どの可能性も、そうだった。」
「大丈夫。全部終われば、父さんは、世界は、私の事を忘れるの。もう2度と、私の為に苦しまずに済む。」
”イヤだ……。イヤだ……!ヨツハ、僕と一緒に、生きてくれ……!苦しみは、僕が全部背負うから……!お願いだ……!”
父の瞳からこぼれる大粒の涙が、娘の髪を濡らしていく。
娘の瞳からにじみ出る涙が、父の首筋を濡らしていく。
ヨツハは父に抱き留められたまま、小さな声で、時折鼻をすすりながら、本心をそっと口にする。
「……私だって、父さんと一緒に、生きていたい。でも、ダメなの。どうやっても、変わらなかった。」
「2人とも死ぬか、父さんだけが生きるかしかないの。それなら、私は父さんを生かしたい。」
「自分で言ったでしょ。心中なんて、父親のやる事じゃないって。」
”娘殺しだって、父親のやる事じゃない……!お願いだ、一緒に、可能性を探そう……!”
離れようとするヨツハを、父は力を込めて止めようとするが、“初めから力など入っていなかったかのように”、するりと抜け出されてしまう。
彼女は父の手を引き、再び柵に背を付けた。
”ヨツハ……?止めろ……。止めてくれ……!”
「大丈夫、軽く押すだけでいいの。そうすれば、全て変わる。」
父は娘に手を引かれ、“自ら望んだかのように”、ゆっくりと柵に近づいてく。
ヨツハは父の両手を頬に当て、体温を確かめるように目を閉じる。
”止めてくれ、お願いだ……!一緒に生きよう……!諦めちゃダメだ……!”
「許して、父さん。これしか道が無いの。」
“最期の手向けと言わんばかりに”、父は娘の涙を、親指で優しく拭った。
ヨツハの頬から離された両手は、“娘を橋の下に突き落とすために”、両肩へと添えられた。
”イヤだ……。ヨツハ……!ヨツハ……!!”
「私、あなたの子になれて良かった。」
父の頬に添えられたヨツハの両手は、人より少し、暖かかった。
ヨツハは、父とよく似た優しい笑顔を浮かべて、父の涙を、親指でそっと拭う。
「さよなら。」
ヨツハは微笑みを浮かべたまま、自ら地面から足を離し、しかし確かに、“父親から突き飛ばされて”、橋の下へと落ちていく。
咄嗟に父は、娘の腕を掴もうと手を伸ばすが、“彼女を捕まえる事は出来なかった”。
飛び降りてでも付いていこうとするが、“恐怖で両足がすくみ、力が入らない”。
父はただ、暗闇へと吸い込まれていく娘を、“見ている事しか出来なかった”。
肌寒い真夜中。
妻に逃げられ、心身ともに疲れ果てた男が、まだ幼い娘を橋から落とした。
すぐにその選択を後悔したのか、男は柵の傍で泣き叫びながら、娘の名前を何度も呼んでいた。
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”ヨツハ……。ヨツハ……!”
ソファーに横たわり、何度も少女の名前を呼ぶ男。
ソファーの横で、男の肩を軽く揺する少女。
良く晴れた、平日の執務室。
そこには、1人の男と、1人の少女がいた。
「先生、大丈夫ですか?すっごくうなされてましたけど……。」
”ミツネ……。うん。もう、大丈夫……。ちょっと、夢見が悪かっただけだよ。”
先生は体をゆっくりと起こし、目じりに溜まっていた涙を、袖で拭い取る。
泣きはらした目をした先生を、丸眼鏡をかけた小柄な少女が、心配そうに見つめていた。
「そうですか……。どんな夢を見てたんですか?ずっと、ヨツハって子を呼んでましたけど。」
”ヨツハ……。”
先生は、先程まで見ていた夢を、思い出そうとする。
だが、夢を見た、と覚えているばかりで、内容を思い出すことが出来ない。
”……分からない。誰の事だろう。”
だが、先生は再び涙を流す。
自分自身、訳も分からぬまま。
何を失ったのかも、思い出せぬまま。
もう二度と曇らせは書かねぇぞ。(固い決意)
書いてる途中の心労が半端じゃねぇんだ。