その日は信じられないくらい運良く仕事が早く切り上がった。
実に、実に平和な一日だった。嗚呼、毎日がこうならばどれだけ良いだろうか。
ヒナ委員長、そして同僚達に挨拶をして風紀委員会の建物を後にする。気が付けば空は濃い茜色に染まっていた。
今日は普段待ち惚けさせているあの子に変わって、私が待ち惚けしてやるのだと妙な所で意気込んでみる。
さぁ、ゲヘナの街へと繰り出そうかと言う時だった。
十字路に差し掛かった時…妙な感覚に襲われた。ドロッと濁った感じの視線を感じた。
変質者? いやいや、そんな事は無い。そんな輩が居るならば牢屋にブチ込んでいる筈だ。
視線を振り払ってズンズンと十字路を渡る。すると不気味な気配がジワジワと更に増えてきた。
薄ら寒い恐怖心を覚え、恐る恐るチラチラと街中を見渡す。するとゾッとした。
見渡す限りの生徒らしき人影の頭部に、ヘイローが無い。
誰も彼もが虚ろな目で私を見詰めてくる。私は小さな悲鳴を上げて駆け出した。
果たしてどれだけ走っただろうか。不気味な影は振り切れただろうか?
荒い呼吸を繰り返しながら不意に目線を下げると、自分の影が異様に黒く長く伸びていた。
その、人であれば目のある場所に、怪しく濁った紅い光が浮かび、まるで自分を睨む様に輝いていた。
「ひぃっ!?」
あまりの恐怖に私は力が抜けて膝を突く。なんだ、なんなんだこれは。何が如何成っているのだ!?
「助けて…助けて…助けて…!」
誰か、助けて…!
周りからおどろおどろしい気配が近付いてくるのを感じる。もう駄目かも知れない。嫌だ…! 助けて…!
ズガァン!!
ズガァン!!
ズガァン!!
耳を劈く、轟音。鼓膜が痛い程のソレは、聞き覚えのある銃声で。
「子供苛めてないで自分の世界にさっさと帰りなよ」
ズガァン!!
ズガァン!!
ズガァン!!
放たれる銃声は瞬く間に私を取り囲んでいた影を追い散らした。
「……カヨコ、さん……?」
「ん、無事で良かった。アコ」
慣れた手付きで、デモンズロアにサイレンサーを取り付けながらカヨコさんは小さく微笑んだ。
「歩ける?」
「え、えぇ…」
「そっか。じゃあ行こうか」
そう言うと彼女は、肘を軽く差し出してエスコートの姿勢を取った。私はそれに甘えて腕を絡める。
「…その、さっきのは…?」
「ん? ああ…アコは黄昏時の世界に迷い込んだんだよ。大方タイミング悪く川か十字路でも渡ったんでしょ」
「どう言う意味なんです?」
「黄昏時…昔は誰そ彼れ時とも言ってね。昔から妖怪とかおっかない物と遭遇しやすい時間帯って言われてる」
「それに、なんで十字路を渡ったって分かったんですか!」
「古来、十字路や川、坂道は異界の入り口って呼ばれてたんだ。だから黄昏時に十字路を渡って異界に踏み込んだアコは不気味な影や鬼に追い掛け回されてた訳」
ゲッソリとする。キヴォトスには不思議な物が一杯あるが、よもや魔物と遭遇するだなんて。
「ま、何はともあれ間に合って良かった」
「…そうだ、なんで私がピンチな事に気付いたんですかカヨコさんは」
「猫の知らせ」
「はぁ…??」
「だから、猫の知らせ。猫が教えてくれた」
脱力する。全くこの人と来たら…
「さておき、ご飯食べに行こうか」
そう言うカヨコさんに、私は強く抱き付いて…
「アコ…?」
「…とても怖かったです。出来れば、今夜は一晩…」
消え入るような声でそう言うと、カヨコさんは私の額にそっとキスをしてくれました。
────────
「ジュリ、上がって良いわよ」
「お疲れ様ですー」
明日の給食の仕込みを終えた私達給食部は各々のエプロンやら頭巾やらを片付けて帰路につこうとした。
毎度毎度、うちの学生ときたら騒がしいことこの上ない。先日だって食堂の一角を爆破されて開放的なカフェテリアになりかけた位だ。
そんな事を考えながら食堂の裏口を開けると、見知った顔が待ち受けていた。
「お待ちしておりましたわフウカさん、お疲れ様です」
「回れ右しても良いかしら」
「まぁ、フウカさんのいけず! これでは私、悲しくて泣いてしまいます」
黒舘ハルナ。ゲヘナ学園の問題児集団、美食研究会の会長。
擦った揉んだの末に今は少し和解したけれども、苦手意識が抜けきらないのも事実。
「それで? こんな時間に何用かしら?」
「実は、フウカさんに普段のお礼にと小さな美食へお招きを」
「ふぅん?」
成る程、通りでサイドカー。ドッドッドッと水平対向エンジンが唸りを上げている。
「ゲテモノなら容赦しないから」
「それに関してはご安心を。寒いのでコートをどうぞ?」
私は手渡されたコートを着て、ゴーグルを付けてサイドカーに乗った。
バイクが走り出す。冬の冷たい空気がまるで 氷水の様に体温を奪おうとする。
走る事暫し、辿り着いたのはゲヘナの丘の上。近くに飲食店やコンビニの類いなどは何も無い筈だが…?
「此方ですよフウカさん。コレこそが小さな美食です」
「飲み物の自販機…」
何て事は無い、極々普通の、少し色褪せた自販機だった。
チャリンチャリンと小銭が入れられ、ボタンを押すとピッと電子音が鳴る。
ゴロンゴロンとやや騒がしい音を立てながら出て来たのは、ハルナ曰くお勧めのカフェラテ。
「さぁフウカさん、此方にお座りになって」
勧められるがまま、ベンチに腰掛ける。目の前には、ゲヘナの街の灯りが彼方此方に。
「…綺麗ね」
「はい。先日、美食に似合うよいロケーションは無いかと彷徨って居ましたら偶然見付けまして」
カフェラテのボトルのキャップを開け、一口飲む。ちょっと熱いソレが、冬の風で冷えた体にとても心地よく…
「…成る程、これは美味しいわね」
「はい…!」
私はそっとハルナに寄り掛かる。ハルナは一瞬ビックリして、おずおずと私の肩に手を回した。
「何時もこうなら、付き合うのも吝かじゃないのだけどもね」
「うぐっ…然し研究会の活動を曲げる訳には」
「馬鹿ね。もっと気の利いた事を言いなさいよ」
貴女ともっと美味しい物が食べたいです、って