貞操が逆転している世界で理想を演じる   作:四季弥

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理想に恋する

 放課後の図書室は静けさに包まれていた。

 誰かがページをめくる音が空気をふっと揺らすたび、時間の流れまでゆっくりになっていくような気がする。

 

 窓の外には夕暮れ前の光が差し込み、遠くに鳥の鳴き声がかすかに聞こえていた。

 私は窓際の席に座りながら、本を開いたまま何ページも前から進まない状態でじっとしていた。

 

 目の前にある活字は、まるで別の言語のように頭の中に入ってこない。

 

 ──この前の雨のせいだ。 

 

 頭ではもう過ぎたことだと思っているのに、胸の奥がまだどこかざわついている。下校時間の雨。傘を忘れて昇降口で立ち尽くしていた時、ふいに現れた彼の姿。

 「一緒にどうですか?」と、当たり前みたいに傘を差し出してくれた九条さん。

 

 あの瞬間のことを、何度思い返しただろう。

 

 彼の傘に入った瞬間の空気の匂いも、肩がふれたときの体温も。全部まだ鮮明に残っている。

 

 傘の下、彼と肩が触れて、慌てて距離を取ろうとして、逆に上手く歩けなくなった。

 歩幅が合わなくて、私が焦って、彼が困ったように笑って……。

 

 その時、彼がぽつりと言ったんだ。

 

『僕も……こういうのは慣れていないので』

 

 その一言が、何故かずっと心の奥で響いている。

 

 完璧に見える人が不器用な一面を見せた。

 ただそれだけのことなのに、私はどうしようもなく胸がきゅっとなってしまって。

 

 ……おかしいな。

 あの時からずっとなんだか呼吸が浅い気がする。

 

 私は本を閉じて深く息をついた。

 こんなに一人で思い返して何をしているんだろう、私。

 

 そう思った矢先、カタン、と隣の机の椅子が引かれる音がした。

 

 反射的に顔を上げた。そして、目が合った。

 

「……また会いましたね」

 

 穏やかな声。

 そして、柔らかな表情のまま立っていたのは、他でもない――九条さんだった。

 

 制服の着こなしは相変わらず整っていて、ネイビーがかった髪は夕陽の光にふわりと照らされている。

 その姿はまるで本の中から抜け出してきたように整っていて、だけど……本当にここにいる。目の前に。

 

「あっ……え、うん。……偶然、だね」

 

 声が少し裏返った。

 どうしよう、こんなにすぐに会うなんて思ってなかった。頭が真っ白で、言葉がうまく選べない。

 

「偶然ですね。……図書室で会うのは二度目ですけど」

 

「あはは……確かにそうだね」

 

 精一杯、いつもの調子を装って返した。九条さんは少しだけ目を細めて笑う。

 

「まあ、今日は少し疲れまして。落ち着くのに此処は丁度良いですから」

 

 その言葉に、胸の奥がまたふっと揺れた。

 

 彼が疲れたなんて言うのも少し珍しく感じた。

 いつもはどんなときも完璧な笑顔を浮かべて、誰にでも優しくて。そんな人が、いま隣で小さなため息をついている。

 

 なんだろう。この距離感。こんな風に、自然に隣に座って、何気ない会話をして……。

 

 どうしてこんなに心臓がうるさいんだろう。

 昨日の傘の下とは違うはずなのに、どうして今日の方が……息苦しいの?

 

 きっと私は、気づき始めていた。

 

「……また、告白されたの?」

 

 その言葉が口をついて出たのは私自身も驚くほど自然だった。

 九条さんは少しだけ目を瞬かせたあと、苦笑を浮かべた。

 

「はい。今日も一件。断るのにも、なかなか神経を使いますね」

 

「やっぱり……」

 

「丁寧に断るのって、難しいんです。誤解を与えず、でもきっぱりと。それでも傷つけてしまうのは避けられないから」

 

 その声には疲れが滲んでいた。

 完璧に振る舞っているけれど、彼もまた、悩みの中で一人で足掻いているのかもしれない。

 

 ふと、彼の指先が視界の端に入る。開かれた本に触れる手。すらりとした指。その先に置かれた、ページの角がほんのわずかに震えていた。

 

「……やっぱり、九条さんって優しいんだね」

 

「優しくなんてないですよ。ただ、相手の涙を見るのが苦手なだけです」 

 

 そう言って、彼は窓の外に視線を向ける。斜陽が差し込み、瞼の影が頬に落ちていた。

 

 その横顔を見つめる内に、私は胸の奥がぎゅうっと締めつけられるのを感じていた。

 

 どうしてそんな顔をするの。

 誰よりも優しくて、誰よりも優秀で、でも誰にも見せられない苦しさを抱えて。

 

 そういうところを知ってしまったら――もう、目を逸らせない。

 

「……私、九条さんのこと……もっと知りたい」

 

 一瞬、彼の目がこちらを見た。

 

 しまった、と思った。

 言葉を選ばなきゃいけないのに、どうしてこんな風に口が勝手に動くの。

 

 でも、九条さんは何も言わず少しだけ笑って、それから目を伏せた。

 

「ありがとうございます。そう言われたのは初めてかもしれません」

 

 その微笑みは、誰にでも向ける理想の笑顔とは少し違って見えた。

 疲れた瞳の奥で、ほんの少しだけ素の彼がのぞいた気がして、私はもう目を離すことができなかった。

 

 彼と一緒にいると息をするだけで胸が痛い。でも、それでも、一緒にいたいと思ってしまう。

 

 ページの音、外の風の音、遠くから聞こえるチャイム。

 全てが静かに流れていく中で、私の中にある何かがはっきりと形を持った気がした。

 

 ――ああ、これが恋なんだ。

 

 

 

 夜、部屋の灯りを落とし、ベッドに沈み込んだ。

 カーテンの隙間からは街灯の光がほんのり差し込んでいる。

 

 心臓の音がまだ落ち着かない。

 

 図書室でのやりとりが頭の中を何度もループしている。彼の声、言葉、表情。その全てが私の中に深く刻み込まれていた。

 

 ……いつからなのか。それはここ最近だとは思うんだけど。私ってちょろいのかな。

 

「……これって、やっぱり……恋、なんだね」

 

 声に出すと、胸の奥に火が灯ったような気がした。

 あたたかくて、でも少しだけ苦しくて。それでも、もう否定できなかった。

 

 私、九条響希のことが好きだ。

 

 誰よりも真面目で優しくて、理想の仮面の裏で疲れている彼を、見てしまったから。

 

 あの優しさを誰かに向けるたびに、彼が少しずつすり減っていくのを黙って見ていられなかったから。

 

 ……でも、この気持ちはまだ私だけのもの。

 

 誰にも言わない。言えない。特に、杏佳には。

 

  杏佳に九条さんが好きなんだって言ったらどんな顔をされるんだろう。

 そうなんだって、普通に返される?一緒だねって笑ってくれる?それとも、苦い表情をされるのかな。

 

 だから、言えないんだ。

 

 だって、もし言葉にしてしまったら何かが壊れてしまう気がして怖いから。

 

「だから、もう少しだけ……このままでいいよね」

 

 ベッドの中で枕を抱きしめながら目を閉じた。

 心の中には彼の微笑みと、あの日の雨の音がまだ静かに残っていた。

 

 ――この気持ちは、多分もう隠しきれない。でも、隠していたい。

 

 今はまだ、彼の隣に立つ勇気が私にはないから。

 それでも、それでも私は彼のことが好きだと、確かに思った。

 

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