午後の陽射しが教室の床に斜めの線を描いている。
窓から吹き込む風は少し熱を帯びていて、もうすぐ夏が来ることを思わせた。
「じゃあ、応援用の装飾担当は……九条さん、糸瀬さん、赤松さんの三人でお願いね」
女生徒の軽い口調に、教室がざわめいた。
この時間は来月に控えている体育祭の係決め。学級委員長である
偏りを無くすよう平等にという事で、係はくじ引きでランダムに決めていた。
だからこそ、なりたい人と一緒の係になれるかは運次第。九条響希と同じグループになりたかった女子が大勢居たからであろう、クラスの女子の大半は落胆の表情を露わにしていた。
響希は苦笑をこぼしそうになるのを堪えながら、表情を変えず顔を上げた。
自分と同じグループになった二人。一人は前に自分に想いを伝えてくれた女生徒。もう一人は最近接点を持つようになった、不思議な何かを感じてしまう女生徒。
「よ、よろしくね」
ややぎこちなく、それでも笑顔を作ってそう言ったのは赤松杏佳だった。
気まずさを紛らわすように明るく言葉を繋ぐ彼女に、響希は微かに眉を動かす。
「はい、よろしくお願いします」
短く答える。自然な距離を保ったその響きに、杏佳の笑顔がわずかに揺れる。
そして、もう一人。
糸瀬夏芽は席で小さくうなずいていた。
何か言おうとして、言葉を飲み込むような仕草。手元のくじの紙を見つめたまま、そっと唇を結ぶ。
――この三人で、体育祭の準備を。
空調の効いた教室の中で、三人の温度だけが微かに浮いていた。
○
──偶然とはいえ、なかなかに気まずい組み合わせだった。
くじ引きという仕組みは公平で、誰の恨みも買わない。
だが、その結果が僕にとって何とも落ち着かない三人組を作り上げたことに、軽くため息をつきたくなる。
赤松さんと糸瀬さん。
どちらも、僕にとって普通のクラスメートとは違う何かを持った相手だ。
「よろしくね」
少し笑顔を強調するようにそう言った赤松さんの声は、いつもよりわずかに高く聞こえた。
気まずさを隠すためか、それとも――。
「はい、よろしくお願いします」
僕はいつも通り無難な距離を保った返事を返す。その一言に、赤松さんの笑顔がほんの少しだけ揺れた気がした。
それでも直ぐに彼女は明るさを貼り付けた表情でそのまま前を向く。
一方で、糸瀬さんはといえば静かに俯いたまま。
目線はくじの紙に落とされ、言葉を紡ごうとしてやめたような気配があった。
だけど、誰よりも丁寧にうなずいてくれていた。
「(……なんだろう)」
二人ともいつも通りのようでいて、どこかが違って見える。
僕が何かをした覚えはないけど、二人とも僕に対して言葉にならない感情を抱えているのが伝わってくる。
──ああ、まただ。
こうして誰かの気持ちに気づいてしまうのが一番厄介だ。
言葉にされなければ知らないふりができるのに。見なければ考えずに済むのに。
だが、理想を演じている限り、誰も傷つけたくないと思ってしまう。
だから今日もまた、何事もなかったかのように平然とした顔で言うしかない。
「放課後の作業は指定された教室ですよね。少し早めにいきますので、二人も無理のない時間に来てください」
赤松さんが「あ、うん。ありがと」と答えて、糸瀬さんはまた小さくうなずいた。
そのうなずき方がまるで言葉の代わりみたいで。何故だか心に柔らかな引っかかりを残した。
○
放課後の空き教室は、日中の喧騒とは打って変わって静まり返っていた。
窓を少し開けておくと、まだ生ぬるい風が入ってきてカーテンの端がわずかに揺れる。
机を三つ、作業しやすいように並べて装飾係に割り当てられた資材を広げる。絵の具、模造紙、カラーペン、はさみに糊。大きな横断幕用の布はまだ丸めたまま。
僕はひととおり準備を終えて、教室の時計を見た。
集合時間より少し早い。でも、そろそろ誰か来てもおかしくない頃だと思った矢先──。
「……失礼、します」
控えめな声と共に、そっと教室の扉が開かれる。
現れたのは糸瀬さんだった。制服の袖を軽くまくっていて、手には筆記用具と自前の小さな定規を持っていた。
「お疲れ様です。早めに来てくださったんですね」
「うん……あの、もし何か手伝えることがあれば……」
変わらない口調。だが、彼女の眼差しが何かを確かめるようにこちらを見ていたのを、僕は見逃さなかった。
「ちょうど作業を始めるところです。よろしければ、横断幕に書くスローガンの文字の配置を一緒に考えていただけますか」
「うん、分かった」
頷く声が少しだけ弾んで聞こえたのは、気のせいだったのか。
並んで模造紙を広げ、どのくらいの大きさで文字を書くかを測りながら、必要最小限の言葉だけが交わされていく。
なのに、不思議と間が持つ。しかし、その沈黙を元気な声が破った。
「おっ、二人とも早いね。もう始めてる?」
振り返ると、赤松さんが手を振りながら入ってきた。
大きめの布バッグを肩にかけ、作業用のエプロンまで用意しているあたり、彼女らしい準備の良さだと思った。
「お疲れ様です。今、スローガンの配置を考えているところです」
「あっ、じゃあそのへん私も見るよ。構図とか任せて! 中学のとき美術部だったからさ」
「それは心強いですね」
「でしょ。九条さん、直線は任せたからね。手凄く綺麗だし、線引くの絶対上手いと思う」
冗談交じりにそう言いながら、赤松さんは席についてさっそく筆を手に取った。
その隣で糸瀬さんが一瞬だけ手を止めるのが見えた。視線は伏せたまま、だけど彼女の手の力がわずかに緩む。
「(……やっぱり)」
二人の空気の間にある小さな波紋に、気づかない振りをする。
僕の名前を呼ぶ声に響き方の違いを感じるのも、きっとその一因だ。
「九条さん、これ、下書きにしては濃すぎるかな?」
赤松さんが顔を近づけて、僕の描いた線をのぞき込む。
距離が近い。頬に髪がかかる。香水ではない、彼女自身の柔らかな匂いがふと漂った。
「あ、ごめん……近かった?」
「……いえ、大丈夫です」
自然に距離を取ることは慣れてしまった。
優しくあろうとするほどに、いつも誰かとの境界線を丁寧に引く。
そんな僕の横で、糸瀬さんがまた静かに視線を伏せた。
誰にも気づかれないように、そっと、自分の描いた文字を手で覆うようにして。
○
時計の針が午後6時を少し回った頃、作業はひと区切りがついた。
机の上にはまだ下描き途中の横断幕。道具を元の箱に戻しながら、僕は静かに息を吐いた。
「……今日はこのあたりで終わりにしましょうか」
そう告げると、赤松さんが手を止めて顔を上げた。
「だね〜。いや〜疲れた疲れた」
「そうだね。でも、割と今日だけで結構進んだ感じする」
「それな!」
糸瀬さんの言葉に赤松さんは少し得意げに微笑み、隣の糸瀬さんも軽く笑みを溢す。
糸瀬さんは一度小さく頷いて立ち上がった。何か言いたげな顔をしていたけれど、やっぱり言葉にはならなかった。
教室を出る準備をしながら、ふと思った。
ただの行事準備。だけど、きっとこの時間の積み重ねが、何かを少しずつ変えていくのかもしれない。
誰かの心も、自分自身の気持ちも。
「……それでは、お疲れさまでした」
小さくそう言って頭を下げると、二人からも「お疲れ様」と返ってくる。
並んで歩くにはまだぎこちない三人。
だが、その距離は朝よりほんの少しだけ、近づいていた気がした。